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あの音を、もう一度。  作者: 真崎将生
車輪の音
44/51

第44話 別々の道

 





 さらさらと霧のような雨が落ちてきて、戸惑いの表情を浮かべたまま動かない陸斗の髪を濡らす。まだ、と言ったきり黙りこんで口を閉ざした陸斗は目を逸らし、ゆっくりと視線を落とした。

 川から吹き上げる風がだんだん冷たくなってきた。濡れた腕が少し、寒い。


 陸斗がどうしてここへ来たのか、どうして父から逃げなきゃいけなかったのか、考えれば考えるほどその結論は自惚れに近づいていく。そんなはずはないと、すぐに打ち消してしまうけれど。

 早川は、陸斗は僕に会うために来たんだと言っていた。僕に会うために散々歩き回ったと。


 けれど小さな路地で見つけた陸斗は僕を見上げて、決して嬉しそうに笑ったりはしなかった。少し眉を下げて、まるで隠れんぼの鬼に見つかってしまったような顔をした。

 本当は後悔したんじゃないだろうか。ここに来たこと。僕に、見つかってしまったこと。


「……雨、降ってきたな」


 陸斗はそう呟いて、空を見上げ目を細める。いま来た道を振り返って橋を指差した。伸ばした腕に、大粒の雨が跳ねる。

 それから僕を見下ろして、その手を差し出した。


「橋の下いこ。ほら、立って」

「陸斗、ねえ」


 陸斗の手を取り立ち上がったら、陸斗は僕の顔を見て眉を顰めた。言いたくないことを聞かれたときの顔だ。さっきの言葉の続きは、聞いちゃいけないんだろうか。

 わかるけど、まだ。陸斗はそう言った。


「ねえ、なにがまだ、なの」

「……そんなこと言ってねえよ」

「言った」

「あれだろ、風だろ」

「ばかじゃないの。風がそんなふうに聞こえるわけないし」


 自転車のハンドルを握って起こした陸斗は僕を振り返り、苦笑いした。それから何も言わず、車軸の曲がってしまった自転車を引いた。

 さらさらと、草の上に落ちる雨の音が辺りを包む。濡れた土と草の匂いが立ち込めて、幼い頃に遊んだ広い草原を思い出した。目を閉じればそこに陸斗と僕がいて、世界にはふたりだけで。

 雨で霞んだ景色のなかで、なにか夢の中に居るような感覚になる。夢の中でなら、ずっと。このままずっとふたりで居られるのに。


「ねえ陸斗」

「……うん?」


 後ろで、道路を走る車の音が響く。振り返りもせず返事を返した陸斗を見上げた。見慣れないTシャツが雨に濡れてぺったりと背中に張り付いている。遠くで蝉の声が聞こえた。


「それ、似合うね」

「え、なにが。あ、これ?」


 陸斗は振り返って首を傾げ、そう言って首元にかかった細いネックレスをすこし上げてみせる。違う、と言いそうになってやめた。見たことのないネックレスだ。陸斗にしては華奢なデザインの。


「これ、お前んだ。そうだ、俺なくさないように首にかけてたんだっけ」

「え? 僕の? 僕そんなの持ってたっけ」

「いや、そうじゃなくて」


 橋の下に入って橋桁に自転車を立て掛けた陸斗は、ネックレスを外して僕に差し出す。小さなシルバーの指輪がついていて、白い雲の光を反射してきらりと光った。


「少し早いけど、誕生日」

「これ、ピンキー?」

「いや、ベビーリング」


 ネックレスに付いている小さなリングは、言われてみればピンキーより少し小さい。受け取って内側をよく見ると、僕の生年月日が小さく彫られていた。


「……なんでベビーリング? 陸斗、子どもでも作ったの」

「なに言ってんのお前」


 陸斗は橋桁の側に置いてあったダンボール箱をばりばりと崩して、地面に敷いた。すっかり濡れてしまったかばんを立てて置いて、橋桁を背にどっかりと腰を下ろしてから、隣をポンと叩いて僕を見上げた。座れということか。

 素直に従って座り込んだら、思ったよりも薄いダンボールの下で小さな砂がざりざりと乾いた音をたてる。橋の上を通る車がアスファルトの水を跳ねて走る音が耳に届いた。


「貸して。つけてやる」

「……うん」

「後ろ向いて」


 肩越しに、陸斗の腕が伸びる。長い指が目の前でいちど合わさり、また離れる。細い鎖の少し冷たい感触が首元でくすぐったかった。


「おっけ。苦しくない?」

「大丈夫。ええと……、ありがとう。でもなんで、ベビーリング」


 振り返って陸斗を見上げてそう言ったら、陸斗は優しく笑って僕の髪を撫でる。胸の奥が、小さな音をたてた気がした。


「俺たちってさ、生まれたときから一緒にいたわけじゃねえだろ」

「うん」


 腕と腕がくっつく距離で、橋の下から白い空を見上げた。小さな鳥が雨に濡れるのも構わずに羽を広げて飛び去って行く。僕の左側、陸斗はあらかじめ用意していた言葉をゆっくりと僕に差し出すように並べた。


「だけどお前が生まれたことを、ちゃんと祝ってやりたくて。それで」

「それ、ほんと? すごくクサいけど」

「お前ね。俺がお前に嘘つくわけねえだろ。てかクサいってどうなの」


 陸斗は僕が生まれたことを知らなかったし、僕は陸斗をたったの二年と少し前まで知らなかった。いや、正確には父の見ていた写真をこっそり覗いて、その存在くらいは知っていたけれど。それでも、お互いの人生がこんなふうに交わることは決してないと思い込んでいた。だけど僕たちは兄弟で、こうやって今一緒に居る。


「ほんとはさ、お前が生まれたことも、立ち上がって歩き始めたことも、言葉を覚えたことも、ちゃんと側で見てたかったけど」

「陸斗……」

「できなかったから」


 そう言ってため息混じりに笑う陸斗に、僕はちゃんと笑い返すことすら出来なかった。

 僕らが兄弟であることを、改めて思い知らされた気がした。僕らはこれ以上近付くことは出来ないんだと、きっと陸斗はそう言っているんだ。小さな子どもにそうするように、そうやって僕を宥めているんだ。


「……嬉しくない?」

「ううん。嬉しいよ。だけど」

「だけど?」

「僕たちは」


 兄弟で。

 離れていたけれど生まれたその日から兄弟で、出会ってからこれからもずっと、それは変わらない事実で。どうしようもなくやわらかくて暖かい真綿のようなその関係は、きっと僕が陸斗を好きでいる限り僕の胸を締め付ける。

 黙り込んだ僕の髪を、大きな手が優しく撫でた。


「陸斗は、ずるいね」

「なに、急に」


 陸斗はずるい。僕の気持ちを知っていて、こんなところまでやってきて僕に現実を突きつける。あのまま会わずに居れば、こんな気持ちにならずに済んだのかもしれないのに。

 陸斗は自分を忘れろと、言葉にしない方法でこんなふうに僕に伝えようとしているんだ。ずるい。


「知ってるんでしょ。僕の、気持ち。だから家を出たがってたんでしょ」

「……は? ちょっと待って、意味が」


 悔しくて、涙が滲んでくる。だけど見られたくなくて、くるりと陸斗に背を向けた。

 ほんとうは今すぐにでもここから立ち去りたいのに、それでも陸斗の隣に居られる心地良さに酔いしれてしまいたくて、そんな自分に嫌気がさす。

 橋の欄干に雨の粒が落ちて、まるでリズムを刻むように様々な音を響かせる。僕の気持ちとは裏腹に、歌うようなその音に苛立ちを覚えた。


「僕が陸斗のこと、す、……その、そういう、僕の気持ちのこと、とっくに知ってて、迷惑で、だから距離を置こうとしたんでしょ。だから今もこうやって、兄弟だって僕に改めて」

「ちょっと、待て想。言ってることおかしい」

「なにがおかしいの。そういうことなんでしょ? じゃあ他に家を出たい理由があるって言うの」

「お前、泣いてんの?」

「泣いてない!」


 陸斗が立ち上がって僕を覗き込もうとしたから、慌てて橋桁のほうを向いた。陸斗は諦めたようにため息を吐いて、僕の背中のすぐ後ろに座り込んだ。


「……想」


 返事を返したかったけれど、声が震えているのを聞かれるのが嫌で黙っていた。陸斗はもう一度ため息を吐くと、咳払いをしてから、僕の肩に手を置いた。


「あのな、想。ひとつ言い忘れた。ごめん」

「……え?」

「さっきの、ベビーリングの理由」

「……どういう、こと?」


 目に残った涙をごしごしと擦って、振り返って陸斗を見上げた。そこには、困ったように眉を下げて優しく笑う陸斗がいた。


「さっき言ったことは嘘じゃない。だけどもうひとつ」


 ダンボールの敷いていない地面にあぐらをかいて座った陸斗はそう言って、頭をぽりぽりと掻いた。雨で濡れた髪から、雫がぽたりと肩に落ちた。


「指輪ってさ、やっぱ」

「……やっぱ?」


 陸斗は僕の手を掴んで、引っ張られてバランスを崩した僕はすっぽりとその腕の中に収まった。雨で湿ったTシャツが、頬に張り付く。陸斗のにおいが、する。

 僕らを包んでいた雨の音が、止んだ。車の音も、風の音も、一瞬で遠ざかる。このまま時間が止まってしまえばいいとさえ思った。けれど陸斗は少しだけ僕から離れ、両肩に手を置いて、じっと僕の目を見つめる。その黒目に、情けない顔の僕が映って揺れた。


「ごめんな。お前がそんなふうに思っててくれたって、俺わかんなくて」

「え、なに言ってんの。陸斗は知ってたから、だって」

「……俺はさ、お前のこと弟だなんて思ったこと、ねえよ」

「それってどういう…」


 意味、と言葉を続けようとしたとき、陸斗の顔が近付いて、その唇が僕の唇と重なった。ほんの、一瞬だった。

 それからまた陸斗は僕を強く抱きしめて、大きく息を吐いた。吐息が耳にかかって、少しくすぐったい。


「……陸斗、今の」

「……俺の気持ちだって、わかっててほしい。今はまだ俺たち、こんな、親の都合で簡単に引き離されるくらいの……まだ、子どもだけど。いつか」

「……いつか?」

「大人になったら。ちゃんと言うから」


 いつか大人になった陸斗が僕の目の前に現れて、今の陸斗のように優しく抱きしめてくれるんだろうか。

 そのときにも陸斗は、僕のことを想ってくれているんだろうか。

 いま陸斗が僕を好きでいてくれたという事実よりも、いつかの未来に陸斗が笑っていてくれるかどうかが知りたかった。だけど安っぽい約束なんていらない。そんなものじゃ、歩けない。


「だけど、もしお前に大切な人ができたら」

「何」

「そんときは、ちゃんと手を離すから」

「なんでそんなこと言うの」


 陸斗は僕を少しだけ離して、長い指で頬を撫でる。溢れてきた涙で霞む視界がもどかしい。もっと陸斗の顔を見ていたい。陸斗の目に映る僕がちゃんと笑っているかどうか、確かめなきゃ。

 川から吹き抜ける風が、僕らの髪を揺らして行く。


「俺たちはこれから、別々の時間を過ごすんだよ」

「そんなこと知ってるよ」

「それぞれに、世界ができる。そのなかで大切だと思える人に出会うこともきっと、ある」

「ないよ。僕は、だって」


 ない、と言いながらも本当はどこかで思っていた。陸斗にだって、大切な人が出来るかもしれない。陸斗の世界のなかで、陸斗の時間のなかで出会った大切な誰かを、僕のせいで大切に出来なくなってしまうのは悔しかった。陸斗が大切な誰かを傷つけてしまうのが、怖かった。


「俺は、ずっと想だけだよ。死んだって、生まれ変わったって」

「……陸斗って見かけによらずロマンチストっていうか」

「……なんだよそれ。俺、冗談言ってる訳じゃないんだけど」


 陸斗は口元を歪ませて心底困ったようにそう言った。その顔がおかしくて、泣きながら笑ってしまった。






「だけど、なんで俺が想の気持ち知ってるって思ったの」

「……だって。僕の気持ちが迷惑で家を出ることにしたんだって思ったから」

「ばーか。逆だよ、逆。俺が知られたくなかったの。やっぱ、半分って言っても血がつながってるし」


 改めて段ボールに座り込んで、くすぐったいような照れくさいような空気をあいだに挟んだ僕らは、雨上がりを待つ。少しずつ薄くなってきた雲間から、星空が顔を出しはじめた。

 僕らは、肝心な言葉は言わない。言っちゃいけないことが、解っているから。たった一言のその言葉が僕らの世界を崩してしまうことが解っているから。守りたいから、言わないんだ。


「それに、絶対気持ち悪がられるって思ってたし」

「なんで?」

「男同士だろ、俺たち」

「だけど僕が住んでたとこだと、結構普通にいたよ。みんな幸せそうだったけど」


 僕の住んでいた小さな街には、同性同士で結婚式を挙げたという人たちも住んでいた。とても幸せそうに腕を組んで、いつもふたりを包む空気は穏やかだった。


「ここは日本だぞ。まだまだ難しいんだよ、そゆことはさ」

「ふうん。テレビとかじゃ結構見るのにね」

「メディアと現実は違うからな。まあそれでも昔に比べたらだいぶオープンになったんだろうけど」


 陸斗は難しい顔をして、考え込む。珍しく真面目な陸斗がなんだかおかしくて笑ったら、渋い顔をされてしまった。


「もう雨止むかな」

「もう止みそうだな」

「ずっと止まなきゃいいのにな。そしたら、陸斗とずっと居られるのに」


 雨が止めば、また歩き出さなきゃならない。僕らはそれから長いあいだ、お互いの気配の届かない場所で毎日を過ごして行く。

 素直に思ったことを言ったら、陸斗は目を丸くして、それからまた優しく僕の髪を撫でた。

 この優しい手を離したくない。この心地良い声をいつまでも聴いていたい。この空気に、包まれていたい。

 いつの間にか僕は、陸斗のいない場所で息をする方法を忘れてしまったのかもしれない。


 もう、陸斗に出会う前の僕がどんなだったか、思い出せない。





 

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