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あの音を、もう一度。  作者: 真崎将生
車輪の音
43/51

第43話 再会の夜に

 





 耳に届くのは車輪の音と、川を縁取る草木を揺らす風の音。

 空は薄い水色で、傾きかけた太陽は黄色がかった強い光を放つ。

 土手のアスファルトのでこぼこが痛くて文句を言う想に、ごめんごめんと笑ってみせた。

 想が小さく、眩しいね、と呟いた。


「どこに行くの」


 想が言う。


「どこ行こうか」


 答えたら、後ろで想が俺のシャツの裾を掴んで引っ張る。


「どこ、行くの?」


 もう一度、想が呟く。


「……行けるとこまで、行っちゃおうか」


 出来るわけない、と思いながらもどこかで。


「……行っちゃおうか」


 笑い合った。笑い飛ばしたのか、賛成、の笑いなのか、きっとわからなかった。俺にも、想にも。








 長い長い川沿いの道を、何も言わず進んでいく。このままペダルを漕ぎ続けても、どうやっても、ふたりきりで居られる世界に繋がったりはしないとわかってはいたけれど。


 想は今、どんな顔をしているんだろう。振り返りたいと思う。だけど、怖くて。

 突然目の前に現れた俺に、なにを感じたんだろう。

 灼けたアスファルトに落ちた自分の影に、やわらかな影が重なったあのとき。顔を上げたら、戸惑いを隠せず、困ったように眉を下げ俺を見つめる想がそこにいた。胸が、痛くなった。一瞬で、嵐のような後悔が身体中を駆け巡った。


 いま俺のシャツを掴む想の声もどこかいつもと違って。

 俺はこんなふうに想を困らせるためにここへ来たんじゃないのに。どうしたら想をちゃんと笑わせてやることが出来るんだろう。サンダル履きの足でペダルを漕ぎながら、そんなことばかりを考えていた。


「ね、訊いていい?」


 想が呟く。

 ちゃんと聞こえたけれど、聞こえなかったふりをした。なにか言った、とも言わず、黙ってペダルを漕いだ。想が、ふっと肩を落とす気配がした。そして、雨が降りそうだね、と呟いた。それには、うん、と頷いてみせた。


 想はきっと、俺がどうしてここへ来たのかを訊きたいんだろう。

 どうして。それを言ってしまえば、結果はどうあれこの旅の目的は果たされるんだろう。けれど、今更怖気づいている俺がいる。

 例えば好きだと伝えてしまって、なにかの間違いか奇跡か、想が微笑んだとして。だからといってこれから先の未来を約束することが出来るのかといえば、それは誰にもわからないし、きっと俺たちにもわからない。


 例えば想が首を横に振って俺を遠ざけたとして、だからといって俺たちはこの先もずっと変わらず兄弟なんだ。今日と繋がったいつかの未来にまた会うときが来る。その度に俺たちは小さな傷を隠して笑うしかないんだ。


 だけど。

 俺が考えているよりもきっと俺は強いし、俺が思うよりもきっと、想だって強いんだ。

 いつかの未来にはきっと昨日と変わらない日々が続いて、想の居ない日常をちゃんと笑って過ごせてしまうのかもしれない。ただ思い出の中の小さな傷として、ぼんやりと、ゆらゆらと、漂っているに過ぎないんだ、きっと。


 だからこそ、と思う。

 だからこそ、今ここにこうして居ることを、噛み締めていたい。想を後ろに乗せてどこまでも行きたいと思えたこの気持ちを、忘れたくない。いつまでも覚えていたい。この背中に伝わるやわらかな体温を。


「お父さん、どうなったかな」

「友也がうまくやってくれただろ」

「早川っていいやつだよね。見た目あんなだけど」

「あんなだけどな。いいやつだ」


 こうして想と言葉をかわす。それだけで満たされていく気持ちがある。


「公園で拾われたんでしょ」

「まあな。飯食わしてくれた」

「犬みたいだね」


 わざとぶっきらぼうに、吐き捨てるように言うその声でさえ、やわらかく耳に届く。


「友也に飼われたらめっちゃ散歩連れてってくれそう」

「朝晩行くよね」

「朝晩な」


 そうしてこんなふうに笑い合えば、もうそれだけで他になにもいらないくらい幸せだと思える。そうしていつもここで、ひとつの言葉が腹の底からせり上がってくる。

 喉の奥まで出かかったその言葉を、いつもここでぐっと飲み込むんだ。

 だけど。


「想」

「なあに」

「……俺」


 お前が好きだよと、言ってしまえばいい。言ってしまって、そうして後悔すればいい。そうだ。だってもし、もう二度と会えないんだとしたら。


「陸斗?」


 背中越しなら言える気がする。いや、だけど。

 煮え切らない俺に、どうしたの、と想が笑ったその次の瞬間。急に自転車のタイヤがぐにゃりと曲がって、バランスを崩した。


「うわっ!」

「えっ! どしたの!」

「ちょ、勘弁して!」


 ハンドルを取られたままタイヤはアスファルトをはみ出し、体勢を戻す間もなく草の上に踊り出る。やばい、落ちる。

 必死で体勢を戻そうとしたけれど、その努力の甲斐もなく土手を滑り落ちた。自転車は土手の下に広がっていたススキの群生している手前で動きを止め、俺と想を草の上に叩きつけた。自転車の車輪は俺の頭の上でからからと回って、ゆっくりと止まった。

 幸い、柔らかな草がクッションになってくれた。慌てて起き上がって振り返ると、身体中に枯葉や緑の草をくっつけた想がむくりと起き上がって、目を白黒させていた。


「びっくりしたあ……」


 想は口の中に草が入ってしまったのか、舌を付き出して苦い顔をする。指で拭おうと手を見たら土がついていて、結局、ぺっ、と吐き出した。


「想、怪我してない?」

「大丈夫。陸斗は?」


 想は一応自分の腕のあたりを見てから頷くとすぐに顔を上げて、シャツで拭いた手を伸ばし、俺の髪に絡まってしまった草を指先で取り除きはじめた。想の顔をよく見ると、頬をほんの少し擦り剝いている。


「ここ、血ぃ出てる。ごめんな」

「ほんと? でも大丈夫だよ。陸斗の顔の傷には負けるから」


 おどけたようにそう言って、笑う。


「あ、俺、絆創膏持ってた」

「絆創膏? そういえばかばんに入ってたね。どっかで買ったの?」


 かばんを開けて絆創膏を取り出す俺に、想が不思議そうに首を傾げる。夏輝の足の傷に巻くためにコンビニで買ったものだった。これまで俺が絆創膏はおろかハンカチすら持ち歩いたことがないことを知っている想からすれば、こういうものを俺が持っている事を不思議に思うのもまあ仕方がない。


「ちょっとな」


 言いながら、貰い物のティッシュに消毒液を含ませて想の頬を拭いた。

 いつだったか、似たようなことがあったことを思い出す。想はまだ小学生だった。あの頃はこんなことになるなんて、どうして想像ができただろう。

 絆創膏を頬に貼り付けて懐かしい気分に浸っていたとき、想が俺を見上げて少し、笑った。


「前にもあったね。こうやって陸斗が僕に絆創膏貼ってくれたこと」


 こうやって同じタイミングで同じことを思い出しているとき、長く同じ時間の中で過ごしたことを思い知らされる。だけどこれからはもうそんなこともなくなってしまうのかと、複雑な気分になった。


「……懐かしいな。お前まだ、ちっちゃかった」

「ちっちゃいって程ちっちゃくもなかったよ。一昨年とかだもん」


 そうしてこんなふうにいつのことだったかを正確に思い出したとき、一緒に過ごした時間が如何に短かったのかを思い知らされる。まだ、たったの二年と少しだ。それくらいしか、一緒に居なかった。


「一昨年か。なんか、すげぇ昔のことみたいなんだけど」

「そうだね。僕もそう思う。陸斗とは生まれたときから一緒に居たんじゃないかって」


 それが普通の兄弟だ。生まれたそのときから一緒に過ごして、同じ時間のなかを少しずつ成長しながら一緒に歩いて行く。だけど俺と想はたったの二年前までまったく別の道を歩いていた。想の母親との死別がなければ、決して交わることのない人生だったはずだ。


「なんか、不思議だねえ」


 想が感慨深げにそう言って、草の上に寝転んだ。寝転ぶ想の頭のすぐ横で、自転車のひしゃげたタイヤが横たわっている。

 これじゃあもう、走れない。


「不思議って」

「うん?」

「どゆこと?」

「えっと……、だから、僕たちがこうやってここに、こんなふうに自転車から投げ出されて草まみれになって、空を見上げてることとか」

「うわ」


 想は、草まみれになって、と言いながら俺の腕を引っ張って無理矢理寝転ばせる。抵抗しようと思えば出来たけれど、素直に引っ張られて空を見上げた。眩しくて思わず、一瞬だけ目を閉じた。次に目をあけた時、暮れかけた西の空から灰色の薄い雲がゆるゆると風に乗って近づいているのが見えた。


「……縁、っていうのかな。僕がここにいて、陸斗がここにいて、そんなことがものすごく不思議」

「縁、か。まあ、よくわかんねえけど。偶然っていうか」

「偶然でもなくて本当は、必然なんだろうね」

「偶然にみえることはぜんぶ必然で、運命で決められてるって?」

「……わかんないけど。そういう説もあるし」

「そんなん解んねえよ」

「僕にも解んないけど」


 想はくすくすと笑って、目を閉じる。空が眩しかったのか、なにか考えているのか。わからなかったけれど、その横顔が何故か懐かしく思えた。たった三日離れていただけなのに。


「な、俺たちさ、こんなに連絡取らなかったこと今までなかったって知ってた?」

「え、そうだっけ」


 想の修学旅行の晩でさえ、携帯のテレビ電話の機能を使ってふたりで話した。そのとき、想や夏輝には思いきり呆れられてしまったけれど、現地まで駆けつけるつもりだった俺からすればかなり譲歩した連絡手段だった。そのために母に、想に携帯を買ってやってくれと頭を下げた覚えがある。


「毎日想が居て、毎日話して、毎日一緒に飯食ってさ。それが当たり前だったし」

「……うん」

「なんで大人って、すぐ自分の都合だけで子どもを好きなように動かそうとするんだろうな」

「……そうだね。でも、子どもを不幸にしようとか、そういうのじゃなくてさ。たぶんどこの親も、子どもには幸せになってほしいって思ってるんだよ。僕らが言ってるのは結果論で、その過程をちゃんと理解してあげなきゃいけないんだよ。きっと」

「言ってることはわかるけど、納得したくないことだってある」


 納得出来ないんじゃない。今回のことだって、わかる。父の気持ちも母の気持ちも、たぶん。きっと俺たちには見えていない事情だってあるんだろう。

 けれどここで納得してしまえば、俺はいつまでもどこまでも、親の名を借りた支配欲に飲み込まれたまま、周りを見ることも知らず歩いて行かなきゃならなくなる。そんな気がする。


 隣で想は、うーん、と声を出して唸り、暫く押し黙ったかと思うとゆっくりと上半身だけ起こして俺に背中をみせた。相変わらず、ほそい背中だ。


「陸斗はさ」


 想の声が遠く聞こえる。どこか、パトカーのサイレンが聞こえた気がして身を竦めた。想はそんなことには一瞬も構わず、話を続ける。声をひとつ出すたびに、喉のあたりが動くのが見えた。そんなことで、生身の想がここにいるんだと実感する。


「だから、ここへ来たの? 父さんのやり方に納得したくなくて、だから、来たの?」

「どういう意味?」


 首を捻りながら上半身を起こして、想と肩を並べた。想は一瞬だけ俺を見上げて、すぐに反対側を向いてしまった。


「どういうって、だから。陸斗がここに来た理由だよ。単に父さんに反発したくて来たとか」

「なに言ってんのお前。そりゃ、納得したくないとは言ったけどさ。そういうんじゃねえよ」

「じゃあ、何」


 何、と言いながら俺を振り返って、見上げる。黒目がちなふたつの目が、なにか迷っているかのように小刻みに揺れた。こんな顔は初めて見た気がする。


「陸斗は、だって」


 俺の言葉を待つ気がないのか、なにかを聞くのが怖いのか、俺が口を開くよりはやく息を吸い込んで言葉を続ける。俺は吸い込んだ息をそのまま吐き出して、口を閉じるしかなかった。


「寂しくないの。陸斗は。こんなふうに離れ離れになって、きっとすぐにまた離れないといけないのに、なんていうかこういうのって、余計寂しくなるっていうか」

「そりゃ、わかるけど、俺まだ」


 だって俺はまだ想に言ってない。好きだって、伝えていない。





 

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