第36話 託した思い
俺たち二人は取り敢えず学校が終わる時間まで暇を潰そうと目論んで、途中見つけた洋服屋で買ったTシャツを持って公園に向かった。
背の高い木々に囲まれた大きな公園は、こんな暑い日の、しかも平日の真っ昼間だからなのか、人っ子ひとり居なかった。そのかわりに、蝉の声がこれでもかと響く。気持ちの悪い目をした鳩がちょこちょことやってきて、自分から近づいたくせに警戒して遠ざかる。
脱いだシャツを水道で洗って体を拭いて、深呼吸した。生ぬるい風が途端にひんやりと心地良い風になる。ついでに顔も洗って、新しいシャツに着替えた。
「ちょー気持ちいい! やべぇこれ!」
「うー、爽快感! ビール欲しい!」
「飲めんのかよ」
「飲めないけど!」
なんだよそれ、と夏輝を軽く睨んで見せたら、木陰になったベンチに座った夏輝は楽しそうに笑う。ポケットから携帯を取り出して何やらボタンを押してから、閉じてまたポケットに仕舞う。それから空を見上げて、ゆっくりと深呼吸をしてから立ち上がった。夏輝の後ろ、灰色の雲がゆっくりと西から近付くのが見えた。
「よし。タイムリミットだな。帰りの電車賃貸して」
「は?」
まっすぐに俺を見据え、片手を差し出しそう言い放った夏輝に面食らって動けずにいたら、夏輝はベンチから立ち上がり、勝手に俺のポケットから財布を取り出して万札を一枚だけ抜いた。
「……足りる?」
夏輝はそう言って、首を傾げる。
「いや、駅までタクシーで行くなら心許ないような……って、そうじゃなくて。ほんとにお前、帰んの」
「うん、帰る。言ったろ、昨日」
「そりゃ言ったけど、本気だとは思わなくて」
「俺はいつでも本気だよ。じゃああと五千円くらい借りとくわ」
そりゃあ、帰るとは言っていた。言っていたけれど、まさか本気でこんな中途半端な所で帰るとは思ってもみなかった。
「ちょ、夏輝。もしかしたらもう少しで会えるかもしれないんだぞ? お前、想になんか言いたいことあったんだろ?」
「だからそれはお前から伝えてくれたらいいから」
「……お前、ほんとにそれでいいの」
困惑する俺を尻目に夏輝はやたらと爽やかに笑ってみせる。
「ばーか。俺は俺で、やんなきゃいけねえことあんだよ。こっちはお前に任せる。いいか、必ず想に会え。会えるまで、帰ってくんな」
「……そりゃ、そのつもりだけど……。何お前、やらなきゃいけないことって」
「じゃあな! 健闘を祈る!」
夏輝はかばんと濡れたシャツを手に、そう言って片手を上げて公園を出て行った。
「……ちょ、まじで!? まじで帰んの!?」
十秒ほど思考が停止して、ようやく我に返って、公園を飛び出した。夏輝がタクシーを捕まえて乗り込む所だった。
「夏輝!」
大声で呼んだら夏輝は一瞬だけ振り返って、ピースサインを高く掲げた。なんだ、何、爽やかぶってんだ。
タクシーはすぐに角を曲がって、見えなくなってしまった。
『そう、帰るの。……夏輝は、本当にそれでいいの』
「しょうがねえだろ。俺だって不本意だけど母ちゃん、俺が帰らなきゃ捜索願い取り下げねえだろ」
『それはそうなんだけどね。俺が言っても聞かないし。じゃあ、駅に着く頃また連絡して。迎えに行くから』
「夜になるけど」
『いいから。連絡するんだよ』
兄貴はそう言って、強引に電話を切ってしまった。連絡するんだよ、と言った声の後ろで、学校のチャイムの音が聞こえた。
仕方なく携帯をポケットに仕舞って、切符売り場に向かった。やけに天井の高い駅の中は賑わっていて、妙に居心地が悪い。
どこに行っても同じだけれど、自分とは違う年齢層の人間ばかりが目に付く場所はいつだって疎外感がある。ベビーカーを押す女性や、小さな子どもの居る家族連れ、理由はわからないけれどこんな時間に出社のサラリーマン風の男。ぐるりと見回して、やっぱりひとりも学生らしい人は見当たらなかった。当然といえば当然だけれど。
ホームのベンチに座って、キオスクで買った小さなパンの袋を開ける。そういえば、陸斗は何も食べていなかった。兄貴の話によれば、給食もろくに手をつけていなかったらしい。大丈夫なんだろうか。不意に心配になって、携帯を取り出そうとしてやめた。
やっぱり一緒に捜そうと言われてしまったら、きっぱりと断る自信がない。
今回のことは陸斗にとってものすごい冒険なんだろうけれど、俺にとってももちろん、大冒険だった。こうやって余韻に浸っているのがきっと、俺には丁度いい。見捨てたみたいで後味が悪くもあるけど、これが俺の精一杯だから。あいつら二人にしてやれることの、きっと最後の。
東京行きの新幹線に乗り込み、空いている座席に座って反対側の車窓を眺めた。
この町で陸斗は、想に想いを伝えるんだろうか。ふたりはお互いにお互いを想っている。結果は言うまでもない。
だからってふたりが兄弟だっていう事実はどこまで行っても消えないわけで。
だから、どこかで踏ん切りをつけて他へ目を向ける努力をするものだと思い込んでいたんだ。叶うはずもない想いをずっと抱き続けるなんて、ありえないと思っていた。
だけど陸斗は躊躇いもせず、想を想い続ける。あいつの頭の中には、諦めるなんていう言葉はないらしい。想いを告げることは躊躇っていたけれど、それは好きだという感情を消してしまうということじゃない。
仙台駅に向かう途中の車内で前に、お前はどうしてそう、言ってみれば特殊な感情を躊躇うことなく持ち続けることが出来るんだと聞いた俺に、陸斗は暫くの間難しい顔をして考え込んだ後、言った。
「いや実際偏見を怖がってるよ、俺は。だってさ、周りの目ってつまり友達とか家族とかそういう大事な人たちの感じる目でもあるわけだろ? 傷つけたい訳でも、思い煩わせたい訳でもないんだよ。だからって諦める気はねえよ。好きって気持ちは、相手に伝えなきゃ成立しねえってもんでもねえだろ? 自己完結だろうが、そんなもんは俺の勝手だし」
「まあ、そりゃ、そうだけど」
一気に喋った陸斗はそう言って頷いた俺を見て満足そうに一度深く頷いてから、また口を開いた。
「そりゃほんとはさ。本当は」
短いため息を吐いて、車窓の向こう側を見つめながら、さっき自信満々に口にした言葉とは裏腹に、諦めたように小さく笑った。
「綺麗事並べて自分納得させるしか、ねえんだよ」
「……お前、それでいいの」
陸斗は、少し拗ねたような顔をして、言う。
「いいよ。一生それでも。爺さんになっても、棺桶に入っても、墓石の中だって俺はあいつのこと想い続ける」
「……不毛」
「不毛とかいうな」
そう言った陸斗は、見たこともないくらい柔らかな表情で、見たこともないくらい、孤独だった。
そこで初めて俺は、そこに自分の居場所を探していたことに気付いてしまった。恋愛感情なんかじゃなくて、ただ、ふたりの間にぼんやりと浮かび上がるその孤独の隙間に、自分を置いて欲しいと願っていたこと。
自分もそんなふうに誰かを好きになりたいと、憧れていた。だけどいつの間にか俺はその隙間に潜り込んでしまいたいと願ってしまっていたんだ、他の誰でもなく、陸斗と想の間に。
何度も新幹線の中で眠ろうと目を閉じたけれど、夢の手前に立った瞬間に現実に引き戻される。トンネルを潜り、鉄橋を渡り、東京駅に着く頃には夕方になっていた。
改札に降りると困ったように笑う兄貴が改札の向こうで手を振って待っていた。
「意外と早かったね。夏輝お財布持ってってなかったけど、どうしたの」
「今更それ聞くのかよ。陸斗が貸してくれた。帰ってきたら返さなきゃ」
「顔、ぼろぼろだね」
「陸斗ほどじゃねえよ」
「陸斗は今頃、想くんに会えたのかな」
「さぁね。あそこら辺の中学虱潰しに調べるとか言ってたけど」
「めちゃくちゃだね」
「めちゃくちゃだよ」
家に帰り着いたら、薄暗い玄関の小上がりに立った母が銀縁の眼鏡の端を指先で上げて、ため息を吐いた。
「ただいま」
「……どこほっつき歩いてきたの」
「どこだっていいだろ。帰ってきたんだから」
母のすぐ横をすり抜けて、自分の部屋に向かった。
「制服はどうしたの。下、ぼろぼろじゃない」
「あ、捜索願い取り下げて。陸斗も帰ってきたから」
「そう。ねえ夏輝、内申書に響くから学校に行かないのはね」
「わかってるって。ちゃんと行くから」
母は諦めたように肩を竦めてから、ご飯出来てるからお風呂に入って来なさい、と笑った。
「すごいね、足。靴もぼろぼろだったけど、そんなに歩きまわったの」
「まあな。平気だよ、こんなの」
風呂あがりに部屋で足の絆創膏を貼り直していたら、兄貴が襖を開けて入ってきた。俺の隣にすとんと座ると、豆だらけの足を見て眉を顰めた。
「どこをどう動き回ったらこんなに傷だらけになるんだか」
そう言って苦笑する兄貴にもういちど、平気だよ、と言って見せる。兄貴は長いため息を吐いて、派手に破けている豆を指先でつついた。
「痛い! 触んなって!」
「ほらやっぱり痛いんじゃない。強がっちゃって」
「そりゃ、そこつついたら痛いだろ! 見たらわかるだろ!」
「夏輝がこうやって自分で何かを決めてやり遂げたのって、初めてじゃない?」
最後の絆創膏の剥離紙を剥がしながら、静かな声で。思わず顔を上げたら、えらかったね、と頭を撫でられた。一瞬。一瞬だけ気が緩んで泣きそうになって、ぐっと息を飲み込んだ。
「子ども扱いすんじゃねえよ。俺だって、やろうと思えば何だって出来るんだよ」
「そうだね。ほんとはもっと一緒に居てあげたかったんでしょ? だけど我慢できたね」
「何、言ってんだよ」
器用そうに見えて不器用な指でなんとか絆創膏を巻いて顔を上げた兄貴は、やわらかく笑って、うん、と頷いた。
「いつか言ってたじゃない。いちばん寂しがり屋なのは陸斗だから、本当はひとりになっちゃいけないのは陸斗だって。俺それ聞くまで全然わかんなかったけど」
「……だってあいつ、わかってねえから」
誰よりも寂しがりやで、誰よりも愛されたいと願っているのは陸斗だった。想にいつもくっついて回って鬱陶しいくらいに構って。それはきっと、自分を愛して欲しいという欲求の裏返しに違いないと思った。
俺は難しいことは全然わからないけれど、どうしてだか陸斗の寂しさだけはいつも痛いくらいに感じていた。だけど俺にはどうすることも出来なくて。
「いっつも想のことばっかでさ……。自分のことはてんでわかってねえ」
「多分誰でもそうなんだろうけどね。陸斗は特にその傾向が強い気がするね。中学生なんて中途半端な時期は結構みんな、なんでも誰かのせいにしたがるもんだけど、陸斗は自分でぜんぶ抱え込んじゃうから、わかんなくなっちゃうんだろうね」
「めんどくせえなあ」
「めんどくさいねえ」
兄貴は苦笑いして、立ち上がった。
「ご飯冷めるから。行こうか」
俺はこれからなにが出来るだろう。大切な友達のために、なにかしてやることが出来るんだろうか。想の代わりにはどうやったってなれないけれど、怪我をしたあいつの為に絆創膏を差し出すことくらいは、してやりたいと思った。




