第35話 優しさの理由
足が痛い。痛すぎる。下り坂を延々と歩くことがこんなにキツいなんて、知らなかった。まるでこの世の終わりのような顔をして息も絶え絶えに歩く俺たちを、大音響の蝉時雨が包む。息を吸い込んだら次に声を出したときに蝉の鳴き声が出てきそうだ。
額から汗が吹き出して、顎を伝って地面に落ちる。汗で手が滑って、地面に落としたかばんを蹴り飛ばしてしまった。
「り、陸斗、ちょっと休憩」
「は? ばかじゃね、お前、さっき休憩したばっかだろ」
「……鬼! 鬼がいる! おまわりさん!!」
「おまわりさんは鬼捕まえねえだろ……」
「……さあ、どうだろ」
言い終えると同時に夏輝はその場にへたり込んだ。立ち止まり振り返った俺を見上げて、へらっと笑ったあと肩を落として長いため息を吐いた。笑ったと同時に額の汗が目に入ったらしく、ごしごしと目を擦る。
「も……、だめ。まじで腹減ったし、なんかお花畑が見える」
「……川は渡るなよ。ほら、行くぞ。あと少し下りたらなんか店あるって」
「……ほんとだな? 絶対だな? 嘘つくなよ?」
無言で頷いてみせると、夏輝は渋々立ち上がってまたふらふらと歩き始めた。かと思うとすぐにまたへたり込んで、やっぱだめ、と呟いた。
「……てめぇ。勝手について来といて手間かけさせんじゃねえよ」
ほら、と、背を向けて中腰になって見せたら、夏輝は不思議そうにぽかんと口を開けて俺を見上げた。
「何それ、まさか」
「その、まさかだよ。その代わりお前かばん持てよ」
夏輝は思いきり眉を顰めて、首を勢い良く横に振った。
「嫌だ。無理!」
「ふざっけんな! 俺だってこんなことやりたかねえよ! でもお前歩かねえんだろ!」
「歩かねえんじゃなくて歩けねえんだよ! ばあか!」
「てめ……、人がせっかく親切に……、もういい! お前なんかその辺でのたれ死んでろ! 野犬に骨までしゃぶられてしまえ!」
「あっ」
吐き捨てて立ち上がり、そのついでに杖がわりになりそうな枝を拾って、夏輝を振り切って歩いた。
道はぐねぐねと曲がって、すぐに夏輝の姿は見えなくなった。五分ほど歩いた所で、立ち止まる。振り返っても、夏輝が来る気配はない。
草いきれに包まれた深い緑の山の中に、蝉と野鳥の声だけが響き渡る。その中に混ざって、車のエンジン音が微かに聞こえた。
「……あああもう! クソガキ!」
残る力を振り絞って大声を出したから、暫くその場から動けなかった。深呼吸して息を整えてから、元いた方向に向かって足を踏み出した。
夏輝はさっき居た場所から一歩も動いていなかった。膝を抱えて指先で地面をつついている。なんてわかりやすくいじけるんだ、こいつは。
戻ってきた俺を見て一瞬だけ目を丸くして、唇を尖らせ目を逸らす。もう一度夏輝の側で中腰になってみせたら、今度は素直に背中に乗ってきた。手間のかかる奴。
夏輝にかばんを持たせて立ち上がったら、足の関節がばきばきと音を立てた。思わず呻き声が出る。
「車道、近いから」
「うん」
「したら、たぶん街まですぐだし」
「……うん」
「お前、身長低いくせに重いな。筋肉か?」
「うるせぇバカ陸斗。また寝癖ついてんぞ」
「振り落とすぞ。寝癖じゃねえ。わざとだ」
「……わざと。そうですか」
「……お前もう話しかけんな。喋るのきつい」
「腹減った。からあげクン食べたい」
「……いや、からあげ棒がいい」
「ローソンだろ」
「セブン」
「ローソン」
やがて辿り着いた車道に足を踏み出し、視界が開けて心底ほっとする。道路の両側を背の高い木々が覆って、見上げたら無数の葉に縁取られた細長い青空がみえた。靴底にアスファルトの感触が懐かしい。落ち葉に足を取られそうになりながらも、歩きやすくてつい早足になってしまう。
頭の中の自分が、やわらかな緑の絨毯に寝転んで、心地良さにため息を漏らす。その先に想が居て、待ってたよ、と微笑む。
「こらっ、はし、んな! 跳ねる、だろっ!」
「うるせぇ! お前は黙ってろ!」
「そんなっ、ことっ、いった、ってっ!」
妄想が膨らんで、気持ちを逸らせる。その衝動のままに足を早めたら、うしろから途切れがちなクレームがついた。仕方なくもとのペースに戻す。やっと歩道のある道へ出たら、俺たち二人のすぐ側を一台の車が通り過ぎた。途端に夏輝が暴れだして、ふらついた。
「降ろせ! やっぱ降ろせ!」
「恥ずかしがってる場合か」
「だって人が見てる!」
「見てねえよ」
「さっきの車の、助手席の人が俺見て笑った!」
「笑ってねえよ。気のせい気のせい」
「気のせいじゃねえ!」
暴れる夏輝に構わず歩き続けること二時間。大きな橋の手前に辿り着き、大きな川の向こう岸に広がる街並みが見えた。体中の力が抜けて、その場に座り込んだ。
アスファルトの感触がやけに気持ちいい。川のせせらぎが耳に心地よくて、思わず目を閉じた。ほんの少しだけ冷たい風が吹き抜ける。
夏輝も俺の隣に腰を下ろして、大きな川に目を落とした。さらさらと流れる川は昇りきった陽を受けてきらきらと光る。あの小さな公園できらきらと光る噴水を呆けたように見つめていた想を思い出した。想は今、何を思っているんだろう。
「……世話、かけたな。俺もう歩ける」
「なにそれ。礼のつもり? お前らしくねえじゃん」
「うるせぇよ」
俺に片手を差し出して、行くぞ、と呟いた。
橋を渡って暫く歩くと、コンビニが見えてきた。夏輝はどこにそんな力を残していたのか走り出して、意気揚々と水色の看板を指差して笑った。
「からあげクン!」
「……ばーか」
先に店に入った夏輝は早速レジに並んで、後からふらふらと入ってきた俺に手招きする。店員のおばちゃんがカウンター越しに、不審そうな目を向けた。
時計を見ると、昼を少し過ぎた所だった。まだ制服姿の生徒を見かけるには時間が早すぎるんだろう。
「あなたたち、どうしたの。学校は? えらくボロボロだし」
「あ、俺こいつと今ちょっと喧嘩して、怪我したんで病院行くとこなんです。ほら、破傷風とか怖いでしょ?」
そう言って夏輝はにっこりと笑う。店員のおばちゃんは、なるほどね、とだけ言うと、俺の持ってきたお茶と夏輝の注文した唐揚げを袋に詰めた。
「お前さっきの言い方、ハルそっくり」
「何が」
コンビニの裏手に回って、地面に座り込んで袋を開ける。ぱくぱくと唐揚げを口に放り込む夏輝を横目で見ながら、お茶を一気に飲み干した。
「破傷風とか怖いでしょ? ってやつ」
「ああ、兄貴が言ってたんだよ、こないだ。俺がカッターで指切ってそのまんまにしてたら、こう、絆創膏持って眼鏡クイって上げながら」
「あ、絆創膏くらい買えば良かったな」
「病院行くっつってそれは買えねえだろ」
「そうか……」
夏輝は爪楊枝に挿した唐揚げをひとつ、俺の目の前に差し出す。いらない、と手を振って、夏輝のお茶を開けて飲んだ。
「てめ! それ俺のお茶!」
「うるせぇよ。金持ってねえ奴がつべこべ言うんじゃねえ」
「お前……この恨みは忘れねえからな」
「恩の間違いだろ。お前あのまま森の中に放置してきても良かったんだぞ。いつの間にかはぐれたとか言えばいいんだし。なんたって証人がいねえし」
「怖いこと言うなよ。……すげえ森だったな。蝉と鳥と虫しかいねえ」
「運良く会わなかっただけで、熊とかも居たかも」
「丸呑みされたら、神隠しなんて言われるのかな」
夏輝はそんなことを言って身震いしてみせて、俺からペットボトルを奪い取った。仕方なく隣の中古車店の敷地にある自販機でもう一本お茶を買って、半分ほど一気に飲んだ。
「ここ、まっすぐ行ったらどこに出るんだろう」
コンビニの前を走る道路を顎で示しながら夏輝はそう言って、きょろきょろと辺りを見回す。
どこかで着替えを買って、その近くの公園で着替えようということになった。こんなぼろぼろの制服姿で歩き回ると目立ってしまう。
途中また見つけたコンビニで絆創膏と消毒液、それから靴下を買って、また裏手に回る。幸い、レジの若い男は俺たち二人を見ても何の関心も示さなかった。
「靴下脱げ。どうせえらいことになってんだろ」
店の裏手は従業員用の駐車場になっていた。空いている駐車場の車止めに座った夏輝の靴を脱がせて、息を飲んだ。白い靴下の爪先が赤く染まっていた。
「こりゃ、いてえな」
「言ったじゃん。いくらなんでもな、この靴であの山道はねえよ」
「まあな。無謀だわな」
靴下をなるべくゆっくり脱がせると、夏輝は歯を食いしばって痛みに耐える。さすが、部活で根性を鍛えているだけのことはあると感心したのも束の間、消毒液をかけた途端、夏輝は大きな声で喚きながら俺に蹴りをかました。
顎を蹴られた俺は消毒液を持ったまま転がって、駐車場脇にあるフェンスに頭と肩を打ち付けた。痛い。痛いけど、影になってひんやりとしたアスファルトが気持ちいい。
そのまま仰向けになって空を見上げたら、大きな鳥が気持ちよさそうに羽を広げて旋回していた。
途端に何故かおかしくなって、笑いが込み上げてきた。夏輝はそんな俺を見下ろして、唖然としている。
「頭ぶつけた? 陸斗」
「あー、おかしい。俺、ばかみてぇ」
神奈川からはるばる仙台までやってきて、こんなボロボロになって延々と森なんか歩いて。どうしてだか想はまだいない。
考えてみたら他に方法はいくらでもあったのかもしれない。だけど無謀にも無計画で電車に乗り込んでこんな目にあって。どう考えてもばかみたいな選択しか出来なかった自分があまりにもおかしくて、ひたすら笑えた。本当に俺は、ばかみたいだ。
「お前もお前だよな。よく俺に付き合ったよな」
笑いながらそんなことを言ったら、夏輝は困惑した表情のまま、俺の言葉の真意をはかりかねたのか首を傾げた。
「俺がどっかでお前のこと見捨てるとか、考えなかったの」
「……お前、そんなことしねえだろ」
「兄貴殴って電車乗り込んで、後のこと考えてなかったろ」
「後のことは後で考えるんだよ……。なあ、なんだよ。陸斗もしかして、諦めんの?」
「そんな訳ねえだろ、ばあか!」
蓋の開いた消毒液を握りしめたら、中身が飛び散った。少しだけ目に入って、死ぬほど痛かった。




