第33話 夜明けと共に
こんな深い森の底知れない闇の中で一夜を過ごすことになるなんて予想もしなかった。
意気揚々と電車に乗り込んだ陸斗には、ちゃんと勝算があるように見えた。その期待はあっさりと裏切られ、今俺はこんなところに居る。兄貴、心配掛けてごめん。母ちゃん、怒るな。
ひとつの灯りもない闇の中で、陸斗が眠っているのか起きているのかよくわからない。実のところこんな場所で過ごすのは初めてで少し怖い。だけど、どこかかわくわくしているのも事実で。
目を閉じると、無数の生き物の息遣いが聞こえてくる気がする。遥か上のほうで風に揺れる葉や、座布団代わりに座ったかばんの下に蠢く小さな虫たち。
小さな頃に家族でキャンプに行ったときだって、泊まったバンガローには虫一匹入っては来なかった。これまでどれだけ自分が周囲に守られて来たかをしみじみと実感した。
まあ、こんな経験は後にも先にもこれだけだろうけど。
陸斗は、想のためだけに勝算もないくせにこんな所まで来た。ただ、想に会えると信じて。
その無計画さに腹が立つと同時に、どこか羨ましかった。そんなふうに無条件にまっすぐ誰かを思うことができる陸斗が、素直に羨ましかったんだ。
――俺と想が出会ったのは、今から二年前の春だった。
入学式の翌々日に転校してきた想に、クラスメイトたちは興味を示した。興味を抱いた理由はやっぱりそれだけじゃなくて、その容姿のせいもあったんだろうけれど。
だけど想はしつこいくらいに同じ質問を繰り返す連中に愛想のひとつも振り撒かなかった。
女子たちにとってはそれがクールでかっこいいということに収まったらしいけれど。
偶然兄貴の友達の弟だと言うことでうちに来ていた想に、声をかけた。ゲームでもやろうと言うと皆の前では愛想笑いを作って、よろしく、と頷いた。
だけど俺の部屋に来た想は一切表情を変えず、淡々とゲームをクリアしていった。めちゃくちゃ気に食わなかった。
兄貴の友達の弟だから、と気を遣ってとりあえず仲良くはしてみようと努力した。だけどいくら話をしてみても想は無愛想だったし、そのくせ何でも卒なくこなして、受け答えはいつも完璧だった。とにかく隙がなかった。
けれど想は、陸斗の前では素直に笑った。思ったことは何でも口にするし、学校にいる時とは正反対ですごく楽しそうにしていた。どうしてその顔が学校で出来ないんだと思ったけれど。
春を過ぎ、夏を通り越し、やがて季節は冬を迎えた。そんなある日、突然想は俺に相談したいことがあると言った。相変わらず隙のない自己完結しているように見える想に、どうして運動くらいしか取り柄のない俺に相談するようなことがあるんだと、ほんとうに不思議で仕方なかった。
想は俺の部屋で、いつもとは違う顔を見せた。自信満々でいけすかない態度はどこかに置いてきたかのように小さくなって、何度もため息を吐いたり、どこか遠くへ行ってしまったように塞ぎこんでしまったりした。
俺はどうしていいのかわからずに、ひたすら想の言葉を待った。
やがて想の口から出た言葉に、耳を疑った。いや、どこかで予想はしていたのかもしれないけれど。
「兄弟を、好きになっちゃだめなのかな」
想の耳は真っ赤になって、膝を抱えたその足の間に顔を埋めくぐもった声で、やっぱいいや、と呟いた。
「……何、それ。陸斗のこと?」
そういう特殊な恋愛がどうとかより、俺はまだ恋愛自体に免疫がなかった。多くの小学生男子がそうであるように俺もまた、女子の心の発育のスピードについていけず戸惑っている一人だった。
クラスの女子が、あの男子が好きだ、この男子がいいなんて騒いでいる横で、理解できずに頭を捻る日々だった。なのにこいつは。
呆然と想の横顔を眺めているうちに、想は唇を噛み締めて、今のは聞かなかったことにして、と呟いてまた顔を伏せた。
「ごめん、俺、よくわかんない。けど……、好きになるのに、いいも悪いもないと思う」
正直、頭で考えて出した答えじゃなかった。ドラマとか、映画とか、そういうもので聞いたことのある言い回しをそのまま想に伝えた。そうしないと、俺の面目が保てないと思ったからだ。
「……ほんとにそう思う?」
想は顔を上げて、俺の目を真っ直ぐに見据えた。黒目がちな目が俺の迷いだらけの表情を映して、気まずくなって目を伏せた。
「夏輝、少し前にさ、僕に言っただろ」
「え、何を」
「陸斗のこと、どう思ってんの、って」
そんなことを、俺は言ったのか。だとすると、相当な阿呆だ。無神経だ。自己嫌悪に陥りながら、苦笑いを浮かべてみせる。
想はそんな俺の顔を見て、小さくため息を吐いた。
「僕ね、陸斗のことが好きだよ。兄弟としてとか、そういうんじゃなく」
「あ……うん」
「陸斗は僕に過ぎるくらい優しいけど、何かをしてくれるからとか、隣に居てくれるからとか、そんなんじゃなくて」
「……そっか」
「うん」
想は膝を抱えたまま、どこか遠くを見るような目でぼんやりと窓の外を見つめ、短いため息を吐いて、壁に背を預けた。
「僕なんか、憎まれても仕方ない立場なのに」
「どういうこと?」
想は少し躊躇ったあと、日本にやってきた経緯をかいつまんで俺に話した。まだ幼い俺にはピンと来ない話ではあったけれど、なんとなく、想の苦しみが理解出来たような気がした。
「陸斗ってほんとばかだよね。僕なんか嫌いになっちゃえばいいのに」
「想……」
「嫌いになってくれたほうが楽だったのかも」
嫌われて、憎まれて。必要のない存在としてここに居れば、こんな気持ちになることだってなかったのかもしれない。だけど、陸斗はそうじゃなかった。いつだってあいつは想のことだけを考えて、どこにいてもすぐに飛んできて、いつだって想の素顔を引き出す。
「あり得ねえことだけどさ、もしお前が陸斗に嫌われるようなことがあったら、そんときは俺がかわりにお前を笑わせてやるよ」
自分でもどうしてそんなことを言ったのか、よくわからない。想に特別な感情があるわけでもなかったし、そもそも俺はまだ恋愛が理解できない。
けれどそのときは何故か、想をたった一人にするようなことがあってはいけないと、そう思ってしまったんだ。
想は驚いたように目を丸くして俺を見上げ、それから、ゆっくりと、花が咲くように柔らかく笑った。
それが、想が俺に初めて向けた、ほんとうの笑顔だった。
闇の中で陸斗がなにか寝言を言っている。夢で想と無事に再会して、手でも握り合っているんだろう。
携帯をそっと開いて、兄貴からのメールを読み返す。
無理はしないで、気をつけて帰っておいで。みんな心配しています。
さっきの電話で、母が捜索願いを出したことを知らされた。俺の捜索願いだけなら今すぐ帰る必要はなかったけれど、問題は、陸斗の捜索願いまで出してしまったことだ。母に、学校から連絡があったらしい。
母はいつも心配性で、兄貴のことは信頼しているのか殆ど口出しをしないくせに、俺のことになると一から十まで世話をしたがる。
いつだったか、医者になるのは兄貴なんだから俺にそんなに構っても仕方ないというような意味のことを言ったことがある。母は少し寂しそうな顔をして、俺に言った。
「心配させてほしいのよ。あなたが可愛くて仕方ないの。許してね」
そのときに初めて、親というものが少し解った気がした。
東の空が藍色に染まる。うっすらとオレンジ色を含んだその光景が神秘的で、思わず息を飲んだ。そうして、はたと気づいた。俺たち二人の居るすぐ傍が崖になっている。あと三歩進んでいたらと考えてぞっとした。
陸斗を揺り起こして、崖を指差す。陸斗は眠い目を擦ってぼんやりと崖を見てから、目を丸くした。
「あっぶね! まじ土曜ワイド!」
「いや、土曜ワイドとかじゃなくて」
朝焼けの方向を指差してみたら、陸斗が息を呑む音が聞こえた。朝のひんやりした空気が肌に心地良い。
「藍色とオレンジ。なんかあの、あれだな、あれみたい」
「あれってなんだよ」
あれ、あれと言いながらちっとも言葉が浮かんでこない様子の陸斗に苦笑いしてみせたら、陸斗は小さな子どもみたいに笑って、肩を竦めた。
やがてゆっくりと陽が昇り、透明な朝日に照らされた街並みがきれいに浮かび上がった。それはまるでミニチュアの箱庭みたいで、上から覗けば想なんかすぐにでも見つけられそうな気がした。おもちゃのピンセットでつまみ出して、陸斗の前にぽいっと投げてやりたかった。
「お前、ひどい顔だな」
陸斗はそう言って、苦笑いを浮かべる。そういう陸斗の顔だって昨日にも増して酷い。殴られた跡は腫れがだいぶ引いたものの、走っている最中に小枝で引っ掛けたのか、擦り傷があちこちに出来ている。まるで、小さな町を仕切るボス猫みたいだ。
そう言って笑ったら、陸斗は心底不満そうに唇を尖らせた。
「そろそろ行くか」
立ち上がった陸斗は体のあちこちにくっついた小枝や枯葉を払って、かばんを持ち上げそう言った。
「都心部までどのくらいかかるかな」
「さあね」
「……タクシーは」
「だめだろ」
「……だよな」
かばんを手に立ち上がろうとしたら、陸斗が手を伸ばした。
素直にその手を取ったら、陸斗は何だか嬉しそうに笑った。
――この笑顔が、少しでも早く想に届きますように。
心から、そう願った。




