第32話 どうして
仙台駅に着いた頃には、辺りはすっかり闇に包まれていた。
いつの間にか眠ってしまった夏輝につられて俺もうとうとしてしまった。つまり、寝過ごした。
一つ先の停車駅である盛岡駅に着く寸前で目が覚めて、慌てて夏輝を叩き起こした。夏輝は血相を変えて大騒ぎして、ようやく乗った東京方面の新幹線の中でぶつぶつと文句を垂れた。自分が寝てたくせに文句言うんじゃないと諭すと、お前が言うなと逆に諭されてしまった。まあ、そう言われてしまえば身も蓋もない。
「で、どこ行きゃいいんだよ。想、携帯持ってんの」
「持ってない。俺のかばんの中にあるし。取り敢えずタクシー拾うか」
ロータリーには何台かタクシーが止まっていた。近くまで行って父の会社の名前と、その保養所に行きたいと告げると、運転手の男は俺たちを一瞥して眉を顰め、分かりました、とだけ言った。
隣で夏輝はまだ眠そうに目を擦って、携帯のボタンをかちかちと押している。ハルにメールでも送るつもりなんだろう。
駅前の通りを過ぎて道路を走る。コンビニやビルなんかの建物なんかが並んでいる。それから大きな橋を渡り、だんだんと車は住宅街の通りに入っていった。
「なあ……ほんとに想、こんなとこにいるの」
夏輝が運転手を気遣いながら耳打ちする。頷いて、任せろと親指をたてた。夏輝はそんな俺に半目を向けて小さくため息を吐く。そんなに俺が信用できないのか。
そりゃあ、保養所に居るなんて保証はどこにもないけれど。
やがてタクシーは、朧気ながら見覚えのある建物の前で停まった。それにしてもずいぶん山の上まで登ってきた。肌寒さを感じて、思わず身震いをした。夏輝も寒いんだろう、腕をごしごしと擦っている。
「……ここ、何? めちゃくちゃ気持ち悪いんだけど」
「気持ち悪いとか言うな。クソ親父の会社の保養所になってんだよ。ここにいるはずだ」
「はず!? ちょっと待て陸斗!」
夏輝は、去って行くタクシーに軽く頭を下げた俺の胸ぐらを掴んで、いきなり吠え出した。
「お前、ここに想が居るって聞いて、それで来たんじゃねえのかよ!」
「は? なんだよそれ。俺が聞いたのは、仙台のどこかってことしか」
想の担任の佐藤は、仙台市内、としか言わなかった。だけど俺と同様この辺りではここしか知らない父がここに来ない理由はない気がした。
「は!? そもそもなんでここなんだよ!」
「え、だって俺ここしか知らねえもん。父さんがここ来て取り敢えず身を落ち着けるならここかなって」
「取り敢えずならもうここには居ねえだろうが!!」
「そんなことわかるかよ! めんどくさくて今日もここでいいやって思うかもしれねえだろ!」
「お前の親父はお前じゃねえだろ! ふざけんなクソ陸斗! ぶん殴るぞ!」
夏輝の言うことにも一理ある。父は俺じゃない。それはそうだ。だけど今はそんなことより想を探すほうが大事だ。
喚く夏輝をスルーして、保養所の入り口になっている正面玄関に向かう。見る限りではひとつも灯りがついていない。無機質なアルミ枠の窓越しに、各階の非常口に繋がるドアの非常灯が緑の光をぼんやりと浮かび上がらせているのが見えた。
タクシーの停まった裏口から正面に回って、入り口を見つけてドアを叩く。ガラスの大きなドアはいくら叩いても大きな音をたてて響くだけで、中からは何の反応もなかった。
「陸斗、居ないって。ここには居ないよ」
「まだわかんねえだろ。あっち、住居になってたはず。あっちかもしれない」
「陸斗ってば」
居住棟になっているはずの建物は宿泊棟の奥にある。暗い足元を携帯の灯りで照らしながら、蔦の絡まる錆びたフェンスに囲まれた敷地を走った。夏輝が舌打ちをして、仕方なく付いてくる。
居住棟は表に面した宿泊棟よりも暗く、ひとつの灯りも見当たらなかった。
「想!! 居るんだろ!! 返事しろ!!」
「ちょっ、陸斗! 声でかいって! 近所迷惑だろ!」
「近所ってお前、他に建物あったか?」
「うーん…あまりなかったけど……」
「想ー!! 出てこーい!!」
俺が大声を出すたびに辺りをちらちらと見回す夏輝に構わず、想を呼び続けた。だけど、返事はない。呼んでいればどこかの灯りが点くんじゃないかと、何度も何度も呼びかけた。だけどいっこうに反応はない。ただ、静まりかえった巨大な建物が侵入者を拒むように、無機質な風の音を響かせるだけだった。
「なあ、陸斗」
「もしかしたら、あっちかも」
「陸斗! 聞けって!」
「聞こえてないのかも」
「陸斗! ちょっと落ち着け!」
今度はもっと大きな声で呼んでみようと大きく息を吸い込んだ俺の口を、夏輝の手が塞いだ。ついでに頭を思いきり叩かれて、よろけてしまう。コンクリートの付き出した地面でつまずいて、倒れ込んだ。
「いてえだろなにすんだよ!」
「陸斗、お前ちょっとおかしいぞ。考えてみろよ、こんだけ呼んで、灯りもいっこもなくて、もう居ねえだろ。冷静になれ。気持ちはわかったから。もう何も言わねえから駅に戻ろう」
夏輝は俺の口を抑えたまま、懇願するように喉の奥から声を絞り出した。俺は、おかしいのか。こんな所まで来て、想がいない。俺は、想に会えないのか。
「な、陸斗。もっかいさっきのタクシー……」
夏輝が、さっきの、と言ったあたりで赤いランプがちかちかと瞬いているのが目に入った。あれは、まさか。
「あ……、通報されたんだ」
夏輝がそう言って息を呑む。
「まじかよ……ありえねえ、あのくそじじい!」
通報するとすればあのタクシーだ。こんな時間帯にこんな所に制服でなんて、まあ無条件に怪しい。俺がタクシーの運転手だとしても通報するかもしれない。無駄に運転手に同情しながら立ち上がって、停まったパトカーから降りてくる二人の警官を見据えた。
「どうする、陸斗」
「悪いが、今帰る訳にはいかねえんだよ」
「じゃ、走るか」
「当然!」
せーの、の合図でダッシュして二人の警官の傍を全速力で走り抜けた。警官は大声を上げながら追い掛けてくる。
「こらっ! 待ちなさい君たち!」
「撒く!?」
「撒く!」
顔を見合わせて、隙を突いてガードレールを飛び越え、大きな木の茂る森の中に逃げ込んだ。警官は森の入口で拡声器を使って大声でなにか言っている。音が割れてハウリングを起こしている。
「なに言ってっかわかんねーよーだ!」
「はっは! ここまで来れるもんなら来てみろってんだ!」
森の中は暗くてなにも見えない。はぐれないように手を繋いで、かばんで小さな枝を避けながらとにかく走った。地面を這う蔦や根が足を取る。よろめきながら何とか走って、ようやく警官の声が届かない所まで来て地面に這う大きな木の根っこに腰を下ろした。手を離した夏輝が、シャツをはたく音がする。
「俺も、も、無理、走れない」
乱れた息を整えるのに必死で、暫くまともに話も出来なかった。
先に口を開いたのは夏輝のほうで、さすが普段鍛えているだけのことはあると感心してしまった。いまだに浅い呼吸を繰り返す俺のすぐ側で、夏輝は落ち着いた声で喋り出す。
「なにこの展開。お前、俺のことこんなぼろぼろにして、兄貴に殺されるかもな」
「……かもな。まあ、いいけど、想に会ってからにして」
「お前、ほんっとばかみてぇ。想ばっかり」
闇の中で、夏輝がため息混じりにそんなことを言う。今更だ、そう思いながら声を出して笑った。
「もしかして、ここで朝まで待機ってことなのかな」
夏輝が携帯を開いてぼんやりとした灯りで辺りを照らす。鬱蒼とした森は深く、ほんの近くの小枝だけが浮かび上がって、計り知れない闇はその全貌を見せない。
「ま、そうなるな。雨が降ってないだけラッキーだな」
「まあな。こんだけ寒くて雨だったら、俺ら朝になったら死体だな」
「大袈裟だろ、それは」
「どうだろ」
そのとき突然夏輝の携帯が音を立てて、心臓が跳ね上がった。胸を抑えてうずくまる俺を横目で見ながら苦笑いして、夏輝は通話ボタンを押した。口の動きだけで、あにき、と伝える。
「もしもし。ああ、うん」
こんなとき、もしかしたら、と思う。
もしかしたら俺の想に対する感情は、俗に言う兄弟愛だったりしないのかと。ハルが夏輝を大事に思うように、夏輝がハルを気遣うように、そういう兄弟愛は特別なことじゃないんじゃないか。これまでだって何度も、自分に問いかけた。これまで兄弟の居たことのなかった俺が勘違いしてしまっただけなんじゃないかと。
だけどやっぱり、少し違って。
想が俺だけを見ていればいいと、俺は想だけでいいと思ってしまうその感情はやっぱり。
「大丈夫。宿も取ったし。……そっか。まだ見つかんないけど、明日には帰るから」
夏輝はそう言って、じゃあね、と携帯を閉じた。
「お前、なにそれ。明日帰るって。どういう意味」
「うちの母ちゃん恐えーんだ。躍起になって俺を探してるんだって。明日の昼までに想が見つかんなかったら、俺は帰る。あんま兄貴に心配かけてもな」
「じゃお前なにしに来たんだよ」
「言っただろ。想は大事な親友だって」
「じゃあ……」
「持ってってよ、俺の気持ちも。お前ならなんか、想を見つけられそうな気がしてきた」
まあ、まだ諦めたわけじゃないけどな。そう呟いて、小さく笑った。
「お前、どうせ想見つかるまで帰る気ねえんだろ?」
「当たり前だろ。なに言ってんだ」
夏輝の今更な質問にため息を吐きながら大きな木の幹に背を預けたら、薄いシャツの布地越しにひんやりとした感触が伝わる。
夏輝はぼんやりとした携帯の灯りの中で苦笑いを浮かべ、それから携帯を閉じた。途端に辺りを、どこまでも深い闇が包む。
「な、ひとつ訊いてもいい?」
「あん?」
「どうして、想なの」
暗闇のなか、なにか鳥のような生き物の甲高い声が響いた。ばさばさと羽音をたて、また息を潜める。見上げた空を覆い尽くす木々の隙間から、薄い雲に覆われた月がぼんやりと光っているのが見えた。
「……今更な質問だな」
「今更だけどさ。なんか、いい機会だから聞いとこうと思って」
「いい機会って。まあいいけど。どうしてって言われてもなあ」
夏輝が小さく笑う気配がして、思わずそちらに目を向ける。夏輝の髪が僅かな風に揺れたのが、朧気に見えた気がした。
「いや、だからさぁ、一応学校にも女子は居るわけだし? 可愛い子だってそれなりの子だって、性格のいいのだって居る訳じゃん。……まあ、陸斗がほんとにそっちの気があるってんなら、もっと視野は広がる訳だし」
「ばかかおめぇは! 俺はそっちの気なんかねえの! 想は特別!」
まさか夏輝が俺をそんなふうに思っていたなんて思いもよらなくて、びっくりして大きな声が出た。小さな鳥たちが、俺の声に驚いたのか無数の羽音をたてて飛び去って行った。やがて静まり返った闇の中で夏輝が小さく笑う。
「だからさ。そこだよ。なぁんでわざわざ男の想なんだって思ってさ」
「なんでって……」
「陸斗って別に女の子嫌いな訳じゃないんだろ?」
「まあ、うん」
そう言われて浮かんだのはやっぱり千秋さんの顔で。部屋の隅に置かれたブルーのライトにぼんやりと浮かび上がった横顔が、きれいだと思ったのを思い出す。きれいで、官能的で、その場所にそんな気持ちで存在する自分が何だか特別なもののように思えた。
てのひらを地面について、湿った枯葉を拾った。目の前にかざして、虫食いのいびつで小さな穴から空を見て月を探してみたけれど、もう厚い雲に隠れて見えなかった。
「なんつーかさ……、俺にとって想は」
「うん」
俺にとって想は。
大切で、かけがえがなくて、守りたくて、傍にいていつまでもその笑顔を見ていたくて。一緒に景色を見ていたくて。一緒に大切な時間を過ごして行きたくて。
「想が男だろうが女だろうが、たぶん結果は一緒でさ。家族とか、恋人とか、友達とか、そういう、名前のついたカテゴリにどうやっても分けられなくて、でもなんか全部に当てはまるような気もするし」
「……うん」
「ただ、ずっと手を繋いで一緒に生きて行けたらなって……、そんで、あわよくば想も同じ気持ちだったらいいなって、まあ、思っても仕方のないことだけど」
「なんで仕方ないんだよ。同じ気持ちだったらいいじゃん」
夏輝は拗ねたような声でそう言って、大袈裟にため息を吐いてみせる。
「おま、俺らが兄弟だってこと忘れてねえ?」
「じゃお前何しに来たんだよ」
「う……」
本当に俺は何をしに来たんだろう。ただ想に会いたくて、想に想いを伝えたくて電車に飛び乗った。けれどここにきて、伝えたくても伝えることの出来ない気持ちだったことを思い出す。
頭を抱えて黙り込んだら、夏輝は呆れたように笑って、ばかだろ、と呟いた。
「もし明日の昼までに想見つかんなかったら、伝えてほしいことがあるんだ」
「……何だよ」
木の根元、小さな虫たちがごそごそと蠢く気配がして思わず背中を掻いた。遠くでパトカーのサイレンが聞こえる。
「やっぱ難しいことはわかんねえけど、俺は、想の思ったようにやればいいと思う。嫌なことあったらいつでも連絡してこい、俺が笑わせてやる。って」
夏輝はそう言って、長いため息を吐いた。




