第31話 よみがえるもの
夕方、小西さんが新しい学校の制服を持ってきてくれた。以前のいわゆる学ランとは違ってなんだか小洒落たネクタイなんかがついている。父は僕を洗面所の鏡の前に立たせ、ネクタイの結び方を教えてくれた。
「ここ潜らせて、最後に結び目を持って、整える。出来るか?」
「なんとなくわかった。やってみる」
どうして僕はこう順応性が高いんだろう。昨日の今日でもう、ここの生活に慣れようとしている。少しは反発しろよ、と思う。けれどこれはもう本来持った性格だから仕方ない、とも思う。
心のどこかで自分に苛立ちながら結んだ紺色のネクタイは、思いきり曲がっていた。
「まあそのうち慣れる。それより腹が減ったな。弁当でも買いに行くか」
父はそう言って、自分の部屋に決めた四畳半の和室に入った。
洗面所に取り残された僕は、取り敢えずもう一度ネクタイを結び直す。こんどは上手く出来た。
ふと、鏡に映る自分の顔を見た。母譲りの眉と目。だけど笑ったときの目元は父によく似ていると、涼子さんに言われた。口元は、どういう訳か父にも母にも似ていない。
不意に、唇によみがえる感触がある。
陸斗が保健室に運ばれたあの日。寝入った陸斗の唇に思わず自分の唇を重ねてしまった。
長い睫毛が小刻みにゆれて、ほんの少しの間唇に無意識に惹きつけられてしまった。急激にあがる体温と逸る気持ちをどうすることも出来ずに、許されないと頭では解っていたけれど。
途端に自己嫌悪に陥って、逃げるように保健室を出た。結局その後の会議の内容はあまり頭に入らなかった。すぐにぼんやりとしてしまう僕を、皆が心配していたけれど。
指先でそっと唇に触れて、目を閉じる。
――陸斗に会いたい。
鼻の奥がつんとして、深呼吸で誤魔化した。
夕暮れの街は透明なオレンジ色の光を受けてきらきらと光っていた。
近所の地理を覚えておいたほうがいいと言った父に同意して、歩いて道路沿いのコンビニまで行った。
父の話によればもう少し先まで行くと交差点があって、そこを曲がって橋を渡ればすぐ学校があるらしかった。転校初日くらい一緒に来てくれるのかとも思ったけれど、明日はこっちの営業所での挨拶があるからとかなんとか言っていた。大人は大変だ。
適当に弁当や朝食用のパンなんかを選んで、ふたつの袋に分けてもらった。父は、店の前にある灰皿の側で買ったばかりの煙草に火を点けた。
僕は店の端の壁に寄りかかって道路を走る車を眺めた。当たり前だけれど、仙台ナンバーや宮城ナンバーの車が行き交う。
「……悪かったとは、思っている。すまなかった」
父が、煙を吐き出しながらそう呟いた。
それには何も応えず、空を見上げる。薄い青とオレンジの混ざった空は広くて、どこからかヘリコプターの音がした。
「こんどの休み、家具を買いに行くか」
僕と父は、ここで暮らして行く。たとえ僕がそれを望まなくても。
家具を買い揃えて行くということは、少しずつここに根を下ろすと言うことに他ならない。悔しくて、唇を噛み締めた。
もう、戻らないんだ。もう、会えないんだ。
今頃、陸斗は何をしているんだろう。殴られた頬が赤くなっていた。頬に血が流れていた。裸足で追い掛けていた。
虹を見たのに。雨上がりの街はあんなに綺麗だったのに。重ねた歌はあんなに心地良かったのに。
陸斗の爪弾いた旋律が耳によみがえる。弦が鳴いて、部屋の片隅に置かれたギターの弦がまるで共鳴したかのように、ぴん、と鳴った。
いつの間にか視界がぼやけて、夕方の少し強くなった風に瞬きを繰り返して上を向いた。




