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あの音を、もう一度。  作者: 真崎将生
足音
26/51

第26話 失われた日常

 





 想とふたり、暮れかけた雨上がりの住宅街をゆっくりと歩く。透明なオレンジ色の夕陽が雨上がりの街を照らして、きらきらと光ってみえた。

 生ぬるい風が濡れた街路樹を揺らす。つむじに落ちた水滴に眉を顰め見上げる想を笑ったら、唇を尖らせて俺を見上げ、それから少し、黙り込んだ。躊躇うようなその視線に戸惑ったけれど、想はすぐになにかを吹っ切るようにさらりと前を向いて歩き出してしまった。


「想、なした」

「なにが」

「……いや、今の」

「なにが」

「……何でもねえよ」

「ふーん。じゃあいいや」


 想はちらりと俺を振り返って、一瞬だけ、困ったように笑った。想は時々こんなふうに、自分にバリアを張るように突然どこか遠くへ行ってしまう。そんなとき俺はどうしていいのかもわからずに、ただ立ち尽くす。側に行きたい。だけど、俺はそこへ行く方法を知らない。






 家に辿り着いた頃にはアスファルトは乾きはじめ、残り少ない日射しを受けた公園の蝉がその声を響かせていた。早速着替えを済ませた想はギターと、カポタストの入った袋を手に俺の部屋のドアをノックした。


「ねえ、ひとつお願い聞いて」

「なに、どした」


 ベッドの上にギターと袋を置いて、想は机の隣に置いてある本棚から一冊のスコアを取り出した。スコアと言ってもただのノートで、コードと歌詞が乱雑に書いてあるだけの粗末なものだった。想はベッドに座りそのノートをぱらぱらと捲って、クローゼットの前でシャツを頭からかぶる俺に見えるように開いて見せた。


「これ。僕これ好きだな。歌って? そんで、合わせるから」


 それはバンドを始めて最初に作った、今ではもうお蔵入りの曲だった。音源は録ってあるものの、できたら封印したいほどの粗末な出来の歌。


「ええと、想。これはさあ」

「これ僕、好きだな。だめ?」

「だめって訳じゃないけど……」


 だめ? と言いながら首を傾げる想の可愛さに負けそうになるけれど、これはなんというか、想の前で歌うにはあまりにも都合が悪い。想に出会って訳のわからない感情を抱えて混乱しているときの俺が、どうにかその気持ちの正体を探ろうと思いたち、苦し紛れに書き上げた詞だった。想に聴かせる気はなかったし、今更掘り返すつもりもなかった。


「いろんな歌あるけどさ、これがいちばん陸斗らしくて」

「うーん、そう言われてしまうと複雑な気分」

「そりゃ、作りは雑だけどさ。好き」


 好き。その響きに深い意味はないと解ってはいるくせに、跳ねてしまう心臓が憎たらしい。ベッドに置いたノートの一ページに目を落とし読み耽る想の隣に座って、降参の意を込めてため息を吐いてみせた。顔を上げた想はきらきらした目で俺を見上げ、口を横に広げて笑った。


「わかった、わかったよ。でもお前これ音源コピってたっけ? なんで覚えてんの」

「ごめん、勝手にコピーした」

「……いつの間に」


 仕方ない。そういうことなら、と、想のギターを受け取り、軽くチューニングしてから最初のコードを鳴らす。まだアルペジオもろくに出来ない頃の、コードを辿々しく追うだけの曲だけれども。


「合わせろよ、ちゃんと」

「うん。お願いします」


 お願いします、なんて改まって言う想がおかしくてなんだか笑えた。気が抜けて、頭の中でコーラの蓋が緩んだ音が響いた。


 始終マイナーコードのその曲を、作ったときの拙い感情を思い出しながら歌う。

 あの頃はただ、守りたかった。なにも出来ないと、なにも知らないと思っていた想をずっと側で守っていくんだと、強く思っていた。

 けれど今は少し違う。想は強くて、もうひとりで歩いている。引いていた手は繋がれて、見下ろしていた肩は並べて。足音をかさねて、歩く。

 そうして今重ねた声は同じ場所で、少しずつ違う色で、ゆっくりと絡みあう。今俺は、想の隣に居る。手を繋ぐよりもキスをするよりももっと、近くに居るような気がする。


「あー、気持ちいいね、歌うのって! やっぱ僕もバンド入ろうかなあ」

「ばか、おめぇ今頃おせぇよ。俺らは今年の文化祭で解散すんの。それどころじゃねえからな」

「えー、もったいない。まあでも、受験生だもんね。仕方ないか」


 想は、俺が持ったままのギターの弦を指先で弄りながら残念そうに呟く。きゅ、きゅ、と、弦が鳴る。


 解散の話を持ちだしたのはハルだった。コウも俺も卒業までやる気だったけれど、ハルの目指す進学校は既に合格ラインではあるものの、予断は許されないらしい。出来たらもっと、ずっとやっていたかったけどね。そう言って仕方なく笑ったハルに、俺もコウも何も言うことは出来なかった。


「まー、プロになろうなんて思ったわけじゃねえからな。コウはプロ目指してるらしいけど」

「コウはドラム似合ってるよね。コミカルでファンキーな感じが」

「本人はワイルドなつもりらしいけど」


 そう言って想と顔を見合わせて笑った次の瞬間。突然、辺りに急ブレーキの音が響いた。

 想ともう一度顔を見合わせて窓に駆け寄り、下を覗く。家の前に停まった車から父が降りてくる所だった。激しい音をたててドアを閉め、慌てた様子で玄関に向かう。すぐに、玄関の引き戸を乱暴に開け閉めする音が聞こえた。


「何……、どうしたんだろう」

「なんか変だな……ちょっと俺様子見に」


 様子を見に行くからここに居ろ、と想に言おうとしたそのとき、階下から父の怒鳴り声と同時になにかを弾くような音が聞こえて、想が肩を震わせ息を呑んだ。思わずその肩を抱き寄せて、大丈夫、と口に出してみる。何が大丈夫なのか、よくわからないけれど。


「いつからだ! 答えろ!」

「ふざけないでよ! いきなり殴ることないでしょ!」


 ほんの少し開いたドアの隙間から、怒鳴り合う声が聞こえる。これは、想に聞かせちゃいけない。

 想をベッドに座らせて、ゆっくりとドアに向かう。ドアノブに手をかけたとき、また父の抑えたような低い声が耳に届いた。


「やり返したのか……俺のしたことが気に入らなかったんだろう! 平気な顔をして、よくも今の今まで黙っていられたな!」

「そんな言い方しないで! ばかにしないでよ、あなたとは違うわ!」


 なにがいつからなんだ。やり返したって、何を。いや、考えられるのはひとつしかないけれど。

 想は不安気な目で閉ざされたドアを見つめる。階下の声はもう聞こえないけれど、ふたりの話の行き着く先は容易に想像できてしまう。離婚の二文字が頭に浮かんで、慌てて打ち消した。


「想、大丈夫。ただの痴話喧嘩だろ」

「なに言ってんの、ただの痴話喧嘩じゃないよ。どういうこと? お父さんなんで怒ってるの?」

「どういうって……、だから……」

「涼子さんがやり返したって、何を?」

「想、いいから」


 畳み掛けるように疑問を投げかける想を制して隣に座り、落ち着かせようと背中を撫でてみるけれど、あまり効果がないことは明白だった。想は息を詰めて、不安げに瞳を揺らす。その目に映った俺も、到底落ち着いているとは言えない顔をしていた。


「どうなるの」

「……どうにも、なんねえよ」

「それ、どっちの意味」

「どっちだろう……」


 やばい。想だって不安なのに、俺が不安に押しつぶされてしまいそうになっている。こういうときどうすればいいんだ。


「陸斗、僕……」


 想がなにか言いかけたとき、誰かが階段を上る足音が聞こえた。一段、二段、三段。

 四段目の踏み板が、ぎいっ、と音を立てる。今着替えたばかりなのに、背中を冷たい汗が伝う。

 部屋の前まできたとき、足音は止まった。想の部屋の襖を開ける音がする。


「想! 居るんだろう。返事をしなさい!」


 想は俺を見上げて、手を掴んだ。震えている。思わず握り返して力を込めた。

 ドアノブが、回る。

 息が、できない。


「想!」


 開け放たれたドアの向こうで、怒りに顔を歪め、髪を振り乱した父が俺と想を見下ろす。俺は気が小さくて穏やかな父しか知らない。これは、誰だ。


「想、来なさい」

「なんだよ、どういうことだよ!」

「陸斗は黙ってろ!」


 父は大きな音をたてながら部屋に入り、想の腕を掴んだ。想は小さく呻き声をあげる。ベッドにたてかけていたギターが派手な音をたてて倒れた。


「どういうことかって聞いてんだろ! 手、離せよ!」


 父の手を掴んで想を引き離すと、想はベッドの上に倒れ込んでしまった。父は、間に立つ俺を威圧するように見下ろす。


「お前には関係ない。そこをどけ」

「どかない。説明しろよ」

「ここを出る。想は連れて行く」


 父は再び想の手首を掴もうと手を伸ばす。その手を掴んで、ひねり上げた。喧嘩はあまり負けたことがない。力の使い方はわかっているつもりだった。けれど父は声ひとつ上げずに、簡単に俺の手を振りほどいてしまった。


「どういうつもりだ陸斗」

「あんた勝手なんだよ! どれだけ想を振り回したら気が済むんだよ!」

「うるさい! 子どもが口出しすることじゃない! 優、父さんの言うことを聞きなさい!」

「嫌だ! 僕はどこへも行かない!」


 想はベッドに転がっていたスコアを掴んで、身を隠すように枕を抱いた。父の掴んだ手首が赤くなっているのが見えた。一気に、頭に血がのぼるのがわかった。


「想は行かねえつってんだろ! てめぇこそ想の言ってること聞けよ!」

「うるさい! お前は黙っていろと言ってるんだ!」


 父がそう叫んだと同時になにか硬いものが頬にぶつかって、体ごと飛ばされた。その拍子に机の角に頭をぶつけてしまった。額からこめかみを伝って、生暖かいものが流れる。なにがどうなって、どこがどう痛いのかよくわからない。


「陸斗!」


 父は拳を握りしめていた。殴られたんだ。そう理解したときには、もう想は父に腕を掴まれドアに向かっていた。想は今にも泣きそうな顔で必死の抵抗をするけれど、敵わない。


「……いっ、てえ……想っ!」


 声を出すと、頬と額が同時に大袈裟なほど痛んだ。呻きながら立ち上がって、階段を下りる二人の後を追う。足元がふらつく。どこかで腰をぶつけたらしい。手すりを掴みながらなんとか下まで下りると、もう父と想の姿はなかった。間に合わない。


「く……っそ!」


 靴も履かずに飛び出したけれど、既に想を乗せた車はエンジン音を響かせ、すっかり乾いてしまったアスファルトにタイヤの跡を残しながら遠ざかって行く。


「想をどこに連れてくんだよ!」


 走って追いかけたけれど追いつくはずもなく、裸足の足の裏にアスファルトの感触が痛い。車は派手な音を響かせて角を曲がる。その角に追いついた頃には既に車は見えなくなっていた。


「ふざっけんなクソ親父ー!!」


 何が起きたんだ。どうして。理解できない。想をどこに連れて行くんだ。どうして、今。


「想……、なんで……」


 道路にへたり込んで、がっくりと肩を落とした。近くの電線にとまったカラスが、そんな俺をばかにするようにひと声、鳴いた。






「元に戻っただけよ」


 テーブルで頬杖をついた母は吐き捨てるようにそう言って、両手で顔を覆う。長いため息を吐いて、指の隙間から、ソファーに深く座り込んだ俺の顔を見た。眉を顰めて、カウンターの下にある収納から救急箱を取り出して俺の隣に座る。


「酷いことして……。痛む?」


 傷を消毒しながら、そう言って俺を覗き込む。そんな母の頬には、赤く、くっきりと手の形が浮かび上がっていた。


「傷は浅いけど、痕になったらごめんね……」


 額に絆創膏を貼った母は、キッチンに立って冷凍庫を開けた。氷を袋に詰め込む音がする。

 ポケットの携帯が震えて、取り出す。コウからのメールだった。読む前に閉じてポケットに突っ込み、そのままリビングを出た。


「陸斗! どこ行くのよ!」


 母の声が後ろから追いかけてくる。だけど構わず靴を履いて玄関を出た。今は母の顔を見たくない。

 理解しているつもりだった。母の寂しさや孤独を、わかっているつもりだった。けれどそれが原因で招いてしまう結果までを俺は、解らずにいたんだ。こういう、ことなのか。


 遠いあの日、駅のホームで手を取り笑い合っていた母と見知らぬ男の姿が脳裏に浮かぶ。トラックの助手席で互いを思いやるように過ごしていたふたりが、瞼に浮かんでは消える。母を責めたくはなかった。けれど、今口をきいてしまえばきっと、傷つけてしまう言葉しか出てこない。

 想がここにいない。その結果を作ってしまった母を、どうしても憎く思わずにはいられなかった。子どもみたいだと思う。解ってはいる。けれど、今の俺にはそれがすべてだった。想が、俺のすべてだったんだ。





 

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