第23話 君とみた夕陽
夕暮れの砂浜は、少し肌寒い。
「夕陽が水平線に沈むとこ、ここからは見えないんだね」
想はほんの少しだけ後ろを歩く俺を振り返って見上げる。白いシャツが潮風を孕んで揺れた。
想と一緒にもう少しここに居ると言うと、皆が俺の肩をぽんと叩いて、にやりと笑って帰って行った。まあ、恋人同士にはいいシチュエーションなのかもしれないけれど。
「ああでも、水平線の向こうから夜がやってくるって思えばかっこいいかもしれない」
「かっこいいとか、かっこよくないとかそういう問題?」
「そういう問題」
想はそう言って何故か得意気に笑う。砂浜に、後ろ向きの足跡が等間隔で残る。引き潮だから波が消してゆくこともない。
静かな波音がやさしく耳に届く。遠くで船の汽笛が聞こえた。
「陸斗、陸斗」
「んー?」
想は背を向けてしゃがみ込んで、なにか探している。暫くごそごそとやっていたと思ったら振り返って俺を見上げ小さな貝殻を指先に挟んで掲げて、笑った。
「見て、桜貝!」
どうしたらいいんだろう、今俺は想を思いきり抱きしめてしまいたい。心臓を素手で鷲掴みにされたような気がして、どうにかして自分を落ち着かせようと深呼吸をした。
「……え、可愛くない? こんなちっちゃいのに綺麗でさー」
想は立ち上がり、俺の顔の前まで桜貝を持ち上げて見せる。
「可愛いよ」
想が。そう言いそうになって、飲み込んだ。
「なんでそんな怒ったみたいな顔してんの」
「え、怒ってないし」
頬が緩んでしまうのを何とか抑えようとして仏頂面になっていた。想は不満そうに唇を尖らせて、桜貝を波に向かって投げた。かすかに残った夕陽が貝に反射してきらりと光った。
「陸斗」
「……うん?」
想はまた歩き出して、ゆっくりとそのあとに続く。想の、俺のより小さな足跡を辿ってみる。
「家、出るの?」
この話が出てくることは想定していたはずだ。それに自分から話を切り出すつもりでもいた。けれどこうして目の前に突きつけられると、息ができなくなってしまいそうだった。
黙りこんだ俺を、振り返った想が見上げる。逃げてしまいたい。だけどそんな訳にもいかない状況に、少しずつ冷静になる。
「迷ってる」
今の気持ちとリンクする言葉を正直に口にしてみたら、想は目を丸くして、右を見たり、左を見たり。考えているんだろう、俺にどんな言葉をかけるのが一番俺のためになるのか。想はいつも、そうだ。
「陸斗の将来のことだからね。陸斗は僕のことを考えてくれて迷ってるんだろうけど、気にしなくてもいいから」
「想」
「涼子さんとだってうまくやっていくし、それにほら、夏輝だって、ハルやコウも居るし。僕、大丈夫だよ」
優想は自信たっぷりな表情でそう言い切った。そんなふうに言われてしまうと、何だか寂しい。自分勝手この上ないけれど、自分がいなくなって困り果てる想をなにがなんでも想像しようとしてしまう自分がいた。
寂しいって言えよ。嫌だって言って、止めろよ。
「迷ってる理由ってそれでしょ? 陸斗には陸斗のやりたいことがあるなら迷わないで欲しいし、僕なんかのことで台無しにしてほしくない」
「違う」
言わなければいいのに、思わず「違う」と言ってしまって後悔する。想は不思議そうに俺を覗き込んで、なにが違うの、と首を傾げた。
「違うことないでしょ」
「想」
「あのね陸斗、僕、陸斗の創った歌たくさん覚えたんだよ。コード進行はまだちょっと、指が言うこときかないけどさ。そのうち陸斗みたいに弾き語りなんかできちゃうと思うんだ。音源もあるしね」
想は俺の言葉を聞く気がないらしく、くるりと向こうを向いたかと思うとさくさくと歩いて勝手に喋り続ける。
「陸斗の書く詞、好きだよ。そりゃ寂しいけどさ、陸斗の歌があるから平気だよ」
「想」
「でも、時々は帰ってきてよ。やっぱちょっと……」
「寂しい?」
「……寂しくない」
後ろを向いたままの想と、その背中を見つめる俺のあいだに、潮風が吹く。拗ねたように「寂しくない」と言った想の言葉がまるで超えられない大きな壁みたいに立ちはだかった気がした。このまま離れてしまったら想が見えなくなりそうで、こわい。
「嘘つけ。寂しいくせに」
寂しいのは、俺だけど。ここで無理矢理想の言葉を引き出そうとしてしまう俺は、ずるい。寂しいんだと言わせて、そう思い込ませようとしているんだ。俺は、ずるい。だけど言って欲しい。
想は一度だけ振り返り唇を尖らせ、眉を下げる。そうして向こうを向いて右足で砂を蹴った。湿った砂は何の音も立てずに、小さな山になった。
「……寂しいよ」
「え、ほんとに?」
「うるさいなあ、もう」
「ほんとに?」
「……寂しいってば」
想がそう言い終わらないうちに、後ろ向きの背中を抱き締めた。想は一瞬、肩を揺らす。想のやわらかな髪が頬を擽る。想の体温が、腕の中にある。息遣いが、きこえる。
「……陸斗、苦しい」
「ごめんちょっと、このまま」
「陸斗……?」
想が振り返らないように両腕を後ろから掴んだ。今俺はどんな顔をしているんだろう。わからないけれど、今見上げられたら全部伝わってしまいそうな気がした。いや、伝わればいいんだ。
この鼓動の速さでこの気持ちが伝わってしまえばいい。
想が今振り向いたら、唇をかさねてしまえばいい。
「陸斗、どうしたの」
「……ごめん」
お前を好きになってしまって、ごめん。
いつか傷つけてしまうかもしれない。
「何が? 家を出ること?」
「ごめん」
今すぐこの手を放してやりたいけど、出来なくてごめん。
……抱きしめて、ごめん。
「陸斗……、泣いてるの?」
「泣いてない」
俺はこんな気持ちを、どうやったら失くしてしまえるんだろう。
小橋の言うように、好きになるという気持ち自体が奇跡で大切なものだと言うのは理解できる。だけどここで気持ちを伝えてしまえば、俺も想も、どこにも居場所なんかなくなってしまうんだ。
想がやっと手に入れた居場所を奪ってしまうことなんて出来ない。想が守ろうとしているものを俺が奪ってしまう権利なんか、ない。
「あ、陽が沈む。見て」
そう言って想が指さした山の端。濃いオレンジ色の光がゆっくりとその姿を消してゆくのが見えた。陽は沈むけれど、明日もまた同じ太陽が姿をみせるとは限らない。どこかで耳にしたその言葉が脳裏を過る。明日俺は今日と同じように想の隣に居ることができるんだろうか。明日もまた想は俺の隣で笑っていてくれるんだろうか。
「太陽が沈む瞬間なんてそうそう見ないよねえ。夕焼けは見てるのに、不思議」
想は呑気にそんなことを言って、振り返る。想の髪の香りがふわりと鼻腔を擽る。心臓がまるで大きな手で掴まれてしまったように、痛い。痛いけれど、どこか夢を見ているような心地良さに酔ってしまいそうになる。視線を少しずつ下げたら、いまだに何かをしきりに喋っている唇が目に入る。ふと身を屈めそうになって、息を飲んだ。
「帰ろう」
想から離れて、荷物の置いてある場所に向かって歩いた。想は納得のいかない顔をして追いかけてくる。
「陸斗、待ってってば。なんか切り替え早過ぎない?」
「早過ぎない。ああ腹が減った」
「なんか棒読みなんだけど」
「気のせいだ」
言えるわけがない。キスしそうになったなんて。想の髪の香りにつられて、わずかにしか残っていなかった理性を完全に失いそうになった。きつい。こんなこと、そう長くは持たない。




