第17話 近く遠い存在
朝の教室は騒がしい。それぞれに参考書片手に問題を出しあって頭を抱えていたり、受験なんてまるで関係ないかのように恋人とくっついて何やらひそひそと話していたり、携帯で一心不乱にメールを打っていたり。
かくいう俺も、成績もトップで今更受験勉強なんか必要ないにもかかわらずひたすら問題集を解くハルの前の席で、携帯を取り出してゲームに興じていた。
ハルは解いていた問題にきりがついたのか、シャーペンを置いて大きく伸びをしてから頬杖をつき俺を見て盛大なため息を吐いた。
「陸斗って呑気だよね。そんなんで高校受かると思ってんの? 夏期講習申し込んだ?」
「あー、なんか母さんが勝手に申し込んでた。あんたはこうでもしなきゃ勉強しないから、ってさ」
「正解だね。陸斗って自分のこと、やれば出来る子だって勘違いしてるとこあるもんね」
何だか今朝から突然、ハルが俺に冷たい。さっきだって教室に入って俺の顔を見るなり顔を顰めた。
いつも通りに言葉は交わすものの、いちいち刺さることを言ってくる。俺はなにかこいつに、したのだろうか。思い当たるのはやっぱりあのことで。
「ええと、遥斗くん? なんか言葉に刺がある気がするんだけど」
「気のせいじゃないよ」
「やっぱり……。俺、なんかした?」
「陸斗、なんで進路のこと想くんに黙ってたの。想くん、落ち込んでたよ」
やっぱりそのことで様子がおかしかったのか。昨日の想を思い出して、思わずため息が出た。
あの後風呂から上がった想に髪を乾かそうと声をかけても、自分でできるから、と断られてしまった。ドライヤーを片手に俺は、ひとりリビングに取り残されてしまった。
「あー……、別にずっと黙っとこうとは思わなかったけど。別に今話すようなことでも」
「今話さなきゃいけないことでしょ。そもそも陸斗が全寮制に入る意味がわかんないんだけどね」
「だって、そこだったら多少成績悪くても行けるって先生が」
「そういう事じゃないんでしょ? 本当は」
本当は。そう言ってハルは俺の目を見る。じっと、奥に隠したものを探るように。思わず逸らした目線の先に、想が映った。
「あれ、想」
「ん?」
想が友達と談笑しながら教科書を抱え教室の前を通って行く。
開け放った廊下の窓から強い風が吹いて想の髪を揺らした。なにがおかしかったのか腹を抱えて笑い出した想を見て、なんだかつられて笑ってしまった。
「にやけてる、陸斗。気持ち悪いからやめて」
「おっと、つられた」
昼休み、給食を食べ終えた俺とハルは校舎の屋上にいた。
夏の日射しが容赦なく降り注いでコンクリートからの照り返しが眩しい。屋上入り口の僅かな日陰に並べた椅子に座って、暑い、暑いとこぼした。
「なあ、ハル」
「なに?」
「弟って、なんだろうな」
額からじんわりとにじみ出た汗が頬を伝い、膝に小さなしみをつくる。
ふいに蝉が、けたたましい声で鳴きはじめた。ハルは蝉のいるほうを見上げて暫く眺めてから、小さく笑った。
「なにがおかしいんだよ」
「いや、陸斗ってわかってんだか、わかってないんだか」
「なんだよ、それ」
「少なくとも弟っていうのはさ」
蝉が鳴き止んで、青い空にかかる夏雲に向かって羽音をたてながら飛んでいった。
「離れなきゃいけない、なんて考えるほど近くにはいないものだよ」
風が吹く。半袖のカッターシャツが風を孕んでばさばさと揺れる。湿気を含んだ生暖かい風だ。
グラウンドの端にあるプールが、真上にある太陽の光をうけてきらきらと輝いていた。
「少なくとも、俺はそう思う」
離れてしまわなければ自分を見失ってしまいそうになる。それは結果的に想を傷つけてしまうことになりかねない。
それだけじゃない。例えば両親のことだって友達のことだって、傷つけてしまうかもしれない。だから離れることを選んだ。それをハルはいつの間にか見抜いていたんだ。
言葉を失ったままハルを見上げたら、ハルはどこか寂しそうに笑ってみせる。
「多分気づいてるのは俺やコウだけだと思うけど、夏輝も結構勘がいいからね。何も言わないけど、もしかしたら夏輝が初めから陸斗に喧嘩ふっかけるのもそのせいかもしれないね」
「嘘だろ……」
夏輝は俺に出会った頃から気づいていたって言うのか。でもだからって夏輝が俺に冷たい理由にはならない。一体何なんだ。とはいえ最近ではだいぶ風当たりも弱くなってきてはいるけれど。
「半分血がつながってるんだよね」
「……ああ」
「難しいよね。ただでさえ、血が繋がってなくても難しいのに」
「……うん」
「陸斗は、どうしたいの」
どうしたいの、と聞かれて全部言ったら確実に引かれる。
どうもこうもない。想像するだけで色々と学校生活に不都合があるから想像すらできない。もちろん普段の生活だって。抑えて、抑えて、抑えまくっている。
「それ、聞かないでくれる?」
「……察したよ。もう聞かない」
「さんきゅ」
「本気なの」
「本気じゃなきゃこんなに悩んでねえよ。はげそうだ」
髪をかき上げたら、ハルは隣で眉根を寄せて苦笑いした。
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴って校舎の中に足を踏み入れたら、眩惑して何も見えなかった。
こんなふうだ。こんなふうにいつも、感じてしまう。外の空気に触れて散々遊んだあと、室内のひんやりした空気のなかに想がいる。見えなくて、だけど触れたくて、何度も何度も名前を呼ぶ。込み上げてくる胃の奥を押し上げるような不快感と、心臓を鷲掴みにされたような痛みが、けれどどこか心地よくて目を閉じる。
ゆっくりと薄目を開けたときに広がるネガフィルムのような世界にぼんやりと見えてきた想は、無邪気に笑いながらゆっくりと遠ざかって行く。手を伸ばすことも出来ない。
「陸斗!」
たとえば血の繋がりがなかったとしたら、俺はまっすぐに想を抱きしめてしまうんだろうか。想を困らせるとわかっていても、俺は自分の感情を押し付けてしまうんだろうか。
千秋さんは笑う。手に入らないのはわかっているけれど、それでもいいの、と。だけど俺は、本当は手に入れてしまいたい。そう望んでしまう。側にいればいつも触れたくて、だから見えない所に。
それが結果的に想を傷つけてしまうとしても、想を永遠に失ってしまうよりはいい。俺には選択肢なんてないんだ。




