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あの音を、もう一度。  作者: 真崎将生
夢の音
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第16話 秘め事

 





「もう外、暗いね」


 薄暗い部屋のベッドの上で、千秋さんがむくりと上半身を起こす。隣に寝転んだままそこに手を伸ばすと、その手を片手でぱちん、と叩かれた。


「痛い」


 千秋さんはいつもこんなふうに、一日が終わるとさっさと他人の顔に戻る。確かに俺と千秋さんの関係では穏やかにピロートークという訳にはいかないのはわかるけれど。


「ほら、起きなさい。早く帰らないと、お母さんと想くんが心配するわよ」


 千秋さんはゆっくりとベッドを出て、キッチンに入る。小さな冷蔵庫の扉を開けると、その周りがぼんやりと明るくなった。暗闇に浮かぶ光が、まるで夏祭りの灯りみたいだと思った。夢中になって遊んだあとの、最後の出店の灯りが消える頃の切なさが蘇る。


「……じゃ、家の近くまで送ってよ。どうせ今日も行くんだろ? あいつんとこ」


 顔を上げると、冷たい感覚が額にぴたりとくっついた。ブラウンの薄手のカーテンから漏れる外階段の灯りが千秋さんの複雑な表情を浮かび上がらせる。ペットボトルを受け取って蓋を開けると、かすかな音が漏れた。


「子どもがそんなこといちいち言わなくていいのよ」

「また子ども扱いして」

「だって子どもでしょ」


 千秋さんは隣に腰掛けて、母親が小さな子どもにするように俺の髪に右手を差し込みゆっくりと撫でた。その手を頬に滑らせて止める。


「陸斗は、きれいね」


 下から俺を見上げ、囁くように。頬に置いた手の指先がこそこそと動いて、くすぐったい。


「男にきれいってのはどうだろう。千秋さんは美人だけど」

「そういう意味で言ったんじゃないわよ」


 じゃあどういう意味なんだと言おうと口を開きかけたところで、唇を塞がれた。やわらかな吐息が漏れて、脳の奥が無意識に反応する。肩を抱きしめようと両手を広げたら、千秋さんの体があっさりと離れてしまった。

 所在なくなってしまった無様な両手はそのままかたまって、ため息を吐くと、ぱたん、と降りた。カーテン越しの光の帯に、小さな埃がふわふわと舞い上がるのが見えた。


「さ、忘れもんしないでよね。ほら、想くんに買ったあれ。ちゃんと持って帰ってよ」

「あー、うん」


 上着を拾って頭からかぶると、もう鍵のキーホルダーの小さな金属がぶつかる音が耳に届いた。






 千秋さんと俺は、想が千秋さんの勤める店でネックレスを買ったのがきっかけで出会い、意気投合した。

 だからといって恋愛感情があるわけじゃない。先にそれを言い出したのは千秋さんだった。初めて一緒に過ごした夜。帰り際に、カーラジオから流れるアップテンポの曲に合わせて歌うように「誤解があるといけないから言っとくね」と切り出した。

 千秋さんはもう長いことたった一人の人を想い続けているそうだ。その相手には家庭があって、千秋さんはそれを承知で会いに行き、なにも期待していないよと笑ってみせる。

 二十代後半にもなって親にも心配かけちゃってるけどね、と、こともなげに言ってのけた千秋さんの目は笑っていなかった。


「そいつと結婚したいとか思わないの」


 一度だけそう尋ねたことがある。千秋さんは暫く黙り込んだあとおもむろに口をひらいて「思っちゃいけない」とだけ言って、苦笑いしてみせた。


「じゃ、またね」


 千秋さんはそれだけ言って、あっさりと車を走らせて行ってしまった。

 あとに残ったエンジン音が、夜の闇に溶けていった。手にした小さな包みの端を持ってぶらぶらと揺らしながら、家まであと数メートルという距離を歩く。この包みを開けたときの想の笑顔が浮かんで自然と頬が緩む。

 玄関の取っ手に手をかけたとき、少し思い直して包みを後ろのポケットにねじ込んだ。大袈裟な包装をしてもらわなくて良かった。


「ただいまー」


 リビングを覗き込んで、夕食を囲んでいる母と想に声をかけてから階段を上る。椅子が床を滑る音がして、後ろから想の声が追いかけてきた。


「陸斗……おかえり。ごはんは?」

「食う。すぐ行くわ」

「了解」


 想は笑って、了解、と言いながら敬礼のジェスチャーをしてみせる。

 部屋に入って机の引き出しにプレゼントを押し込んだら、奥のほうでぐしゃぐしゃになったプリントが、ぎゅっ、と苦しそうな音をたてた。



 食事を終えてリビングを出たら、ソファーで漫画を読んでいた想が後ろからくっついてきた。階段を半分ほど上ったところで、想がちいさく呟く。


「サンダルウッド。あのお店の匂いがする」


 目ざとい。今日の千秋さんはホワイトローズの香りだったはずなのに。店に行ったとはいえかなり時間がたっている。驚いて振り返ったら、想が三段下から俺を見上げる。一瞬押し黙ったかと思うと、へへっ、と笑って部屋に引っ込んだ。なんだ、何がしたいんだ想は。


「想? なした?」


 部屋のふすま、化粧縁を叩くと中から「別にー?」と、気のない返事があった。

 がらりと襖を開けて中に入ると、机の上に鞄を乗せて教科書を詰め込む想がいた。ちらりと俺を見て、また机の上に視線を戻す。

 ベッドの背板に立てかけた、少し前まで俺が使っていたアコースティックギターが目に入る。新しいものを買った時に想が欲しいとせがんで、しぶしぶ譲ったものだ。

 それからというもの想は初心者用の教本とにらめっこしながら辿々しく弦を爪弾いたりしている。

 時々想の部屋から俺の作った歌を流しながら合わせて歌う声が聴こえてきたりして何だか気恥ずかしい。


「どした、想。なんかあった?」


 想のすぐ後ろに立って覗き込もうとしたら顔を逸らされてしまった。結構、寂しい。


「千秋さん、だっけ。可愛い人だよね」

「あー、可愛いか? こえーぞ?」


 想もあの後何度かあの店に足を運んで、千秋さんに面識はある。俺と千秋さんが度々会っているのも特に隠す気はないからわかっているはずだ。


「千秋さんのこと、好きなの?」


 想は顔を逸らしたまま、椅子に座る。引き出しからノートと参考書を取り出してシャーペンを握った。

 風が強い。机の前にある窓ががたがたと音をたてて、顔を上げる。カーテンを引いていないことに気づいた想は立ち上がってカーテンに手をかけた。


「いや、好きとか嫌いとかそういう……」

「あ、ごめん。立ち入ったこと聞くつもりじゃなくて」

「え?」


 再び椅子に座った想はそう言ってノートを広げる。かち、かち、と、芯を出す音が響く。どんな顔をしているのか見ることが出来たら、何となく考えていることもわかるんだけれど。俯いてノートに顔を近づけている想の表情は読めない。


「……まあいいけど、今日夏輝んとこ行ったんだろ?」

「うん。ハルに勉強見てもらってた」

「あいつ頭いいもんな」

「陸斗、僕」


 僕、と言ったあと咳払いをして黙りこむ。机の横に回って覗きこんだら、やっとこっちに顔を向けてなにか言いたそうに俺の目をじっと見つめた。ハルに会ったってことは、あのことを聞いてしまったのかもしれない。


「どした。どっかわかんねーとこある? 多分俺もわかんねーけど」


 おどけてみせると、想は少しだけ笑った。笑ったあと眉間に皺を寄せて、逡巡するように目だけ動かして「やっぱりいいや」と呟いた。


「え、なにそれ。そりゃわかんねーけど、わかんねーなりに努力するからさ」

「大丈夫。それよりさ、陸斗だって勉強あるでしょ。受験生なんだからさ」


 部屋を今すぐ出ていけと言われた気がして、肩を竦めてすごすごと退散した。部屋に帰ったって勉強をやる気にはならないけれど。

 それにしたって想の様子がおかしい。いつもなら、わからないところを無理やり探してでも俺に聞いてくれるのに。

 俺があのことを話しているのは、ハルと千秋さんだけだ。母さんや父さんにも話してはいるけれど口止めしてある。ここ最近想とハルの接点がなかったから油断していた。

 ハルにそのことを話したとき、ハルはえらく考え込んでいた。それから、じっと俺の目を見て言ったんだ。


「それ、想くんには話してあるんだよね?」


 俺はハルのただならぬ気迫に圧されて、今日話す、なんて言ってしまった。もうひと月も前の事だけれど。

 母も父も特に反対はしなかった。息子の将来につながることだからと、俺に選ぶ権利を与えてくれた。色々と問題のある家族ではあるけれど、肝心なところでちゃんと一人前として扱ってくれるのはありがたかった。

 千秋さんは俺の話を聞いて神妙な顔つきで黙り込んだ。それから俺の髪を優しく優しく撫でて、つらいねえ、なんて言ったんだ。

 千秋さんはもしかしたら、自分と境遇の似た俺に同情したのかもしれない。千秋さんに戦友のような親近感を抱くのはそのせいかもしれない。


 だけど千秋さんとハルの言葉の奥に隠されたたったひとつの結論はどう考えても理不尽なものだし、こんなものは捨ててしまわなければと思えて当然のものだ。俺はだから、二人には何も言えないでいた。もちろん、想にも。





 

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