タブー・ドーター
「ただいま」
「おかえりなさい」
リビングに居たらしいエプロン姿の娘がひょっこりと顔を出して、微笑みながらおかえりを返してくれる。その笑みを見るだけで今日一日のストレスと疲れが霧散するようだ。靴を脱いでリビングに向かう。
リビングに顔を覗かせると、娘がキッチンで鍋をかき混ぜていた。ふわりとカレーの香りが漂ってきて鼻腔をくすぐり、脳が空腹の信号を出して腹がぐるぐると音を立てた。
ふと僕が居ることに気が付いた娘がこちらに振り返る。
「もうちょっとでご飯できるから、さきにお風呂はいっちゃって」
「ああ、わかった」
自分の部屋へと向かい、着ていたスーツに消臭スプレーを振りかけて吊るす。クローゼットから寝間着を取り出して風呂場へと向かった。
最近抜け毛が気になり始めたため頭皮を特に念入りに洗って、湯気の立ち昇る湯船の中に身体を沈めた。顎先が浸かるほど湯の中に浸かって目を閉じ、深く、長く、溜め息を吐く。まるで口から何かが出ているかのように身体が軽くなっている錯覚に陥った。目を開けて、立ち昇っていく湯気を見つめる。不定形に漂う数多のそれは上に昇っていくにつれて、広がりっては薄くなり、やがて消えていった。湯を手のひらで掬い、それを顔に叩きつけて再び溜め息を吐く。身体を伸ばし、ゆったりと湯船の中でリラックスしながら風呂場の白い天井を見つめた。
見つめながら、ふと先ほど見た娘の姿を思い浮かべた。
「……もう高校三年生か」
ジジ臭いセリフだが、この歳になってくると本当に時の流れが速く感じられる。ついこの間まで僕の腰程までしか身長がなく、ピカピカのランドセルを背負っていたというのに今やすっかり背が高くなって、身体も子供ではなく一人の女として成長している。程よい大きさの胸に僅かに括れた腰、そして形のいい臀部。それらはもういない妻のモノと酷似していた。もう少し髪が伸びれば、妻と――僕の愛した人と瓜二つになるだろう。
娘は、美しく育っていた。それは父としては誉れ高く、しかし巣立ちの時期が近いことも同時に感じられて寂しくもあった。
「はあ…………」
もう一度、大きく溜息を吐いた。
僕は立ち上がってシャワーで身体を流し、タオルで水気を拭って洗面所を後にする。
リビングに向かうと娘はまだ鍋をかき回していた。僕はその姿を尻目に冷蔵庫を開け、よく冷えた発泡酒を取り出してそれを額に当てながら食卓のいつもの席へと腰を下ろした。プルタブを起こし、黄金色の液体を勢いよく胃のなかに流し込む。冷たく鋭い液体が喉を刺激して身体の熱を奪っていく。ジュクジュクと急速にアルコールが血管内を素早く流れていくのを確かに感じた。缶から口を離し、声にならない歓喜の音を喉が鳴らす。僕は暫く娘がキッチンに立つ姿を見るでもなく眺めながら発泡酒を一本飲み干した。
「できたよー」
娘がカレーをよそった皿を二つ食卓に運んでくる。それを僕の前と、僕の向かい側の席の前に置いた。娘のものは僕のものより少しだけ量が少なかった。最後にささやかなサラダが運ばれてきて、娘が僕の向かいに腰を下ろした。そして僕たちは同時に両手を合わせる。
「いただきます」
「いただきます」
我が家では必ず「いただきます」と「ごちそうさまでした」を言う事になっている。それは今は亡き妻が定めた絶対的なルールだ。その他にもテレビを見る事もスマホを触ることも禁止とされ、やむを得ない事情があるとき以外は、家族全員がそろって食事をするように決められていた。妻は食事中のルールに関してはかなりうるさかった。食事は家族が家族である為に最も大切な時間だというのが妻の考えだった。そうやって妻も育ってきたのだろう。素晴らしいことだ。妻が亡き後も、その習慣は僕と娘の二人の間でずっと息をしていた。
娘がスプーンでカレーを掬い、口に運んだ。咀嚼して、そして嚥下する。
「いつもより辛くなっちゃった」
僕もカレーを一口食べた。確かにいつもよりスパイスが効きすぎているような気がするが、しかしそれでも十分美味しかった。妻が作るカレーに似ていた。彼女もよく辛いカレーを間違って作っていた。
僕は言った。
「美味しいよ」
「ならよかった」
娘は微笑んだ。
それから僕達はぽつぽつと会話を交わしながら、しかしほどんどは黙って食事を続けた。僕と娘はあまり言葉を交わさない。別に不仲と言うわけではなく、たんに話すことが無いのだ。共通の話題を見つけるには僕達の間に男女と言う壁があり、そして年が離れすぎていた。親子という事もあってお互いに隠し事も多く、どうしても会話は続かなかった。
僕達はほとんど同時に食事を終え、娘が自分の食器と僕の食器を重ねて流し台へと持っていった。「手伝おうか?」と聞くと「わたしがやるからいいよ、お父さんは休んでおいて」と言って優しく柔らかく微笑んだ。僕は二本目の発泡酒を取り出してリビングのソファーに腰かけた。テレビの電源をつけ、頭の悪そうなバラエティー番組にチャンネルを合わせてぼんやりとそれを眺めた。眺めながら発泡酒をゆっくりと飲んでいく。
キッチンからは水の流れる音と共に食器同士がぶつかり合う金属音、そして娘の控えめな鼻歌が聞こえてきている。僕はその鼻歌を聞きながらふと、娘の声が妻のものに酷似していることに気が付いた。平均的な女性の声よりもほんの少しだけ高いソプラノに、大人しそうな、優しい包容力のある声音だ。周りが騒がしくても妻と娘の声だけはよく聞こえてきた。それは高級な楽器を熟練者が奏でた時のように素晴らしく僕の耳に届いた。
娘は中学二年生のころから僕の代わりに家事の殆どをやってくれている。洗濯に掃除に買い出し、そして料理まで嫌な顔一つせず行ってくれている。正直、かなり助けられているが、しかし娘の時間を奪っているような気がして僕は何度か「手伝おうか?」と言った。しかし娘は首を横に振るだけで「大丈夫だから」と微笑んだ。僕はその優しい微笑みを見る度に、胸の奥がジクリと痛むのを感じた。娘はまだ高校生で、本来なら年相応に遊ぶべき時期だ。僕達日本人が高校生で在れる瞬間は長い人生の中でもたった三年間しかない。その貴重な時間を僕が奪ってしまっているように感じてしまう。しかし娘は僕のそんな気持ちを知ってか知らずか、無慈悲に「好きでやっているから」と僕を突き放す。それが僕に対する娘なりの感謝の気持ち、もしくは恩返しなのだと分かってはいるが、しかしやっぱり僕が娘の自由を奪っているような気がしてならないのだ。そして思い出す。そう言えば妻も生前は僕によく尽くしてくれていた。
ほどなくして娘が洗い物を終えてエプロンを脱いだ。そしてリビングを出ていった。それから暫くして風呂場で物音がし始めた。どうやら風呂に入るようだ。僕は発泡酒を一口あおった。
風呂を出たパジャマ姿の娘がリビングにやってきて、冷蔵庫から麦茶を取り出してそれをコップ一杯一息に飲み干した。桃色に染まった頬、水分を含んで束になった黒髪、汗ばんだ首から肩にかけての曲線。それらに自然と視線が向いてしまう。僕は男と言うものがつくづく嫌になった。僕は娘の事を艶めかしいと感じてしまった。
娘が再び洗面所へと向かった。ドライヤーが風を吐き出す音が聞こえてくる。それが終わると、廊下から顔だけを僕の方へ覗かせた。
「わたしもう寝るね、お父さんも早く寝なよ」
僕は頷いた。
「ああ、分かってる。おやすみ」
「うん、おやすみ」
娘が自室へと引き上げていった。僕はその後も暫くバラエティー番組を眺めていたが、CMになるのと同時にリモコンの電源ボタンを押し込んだ。発泡酒の残りを飲み干して僕は寝室へと移動した。
妻といっしょに寝るために買ったダブルベッドに、一人で潜り込む。初めはかなり広く感じられたものの既にこの広さには慣れてしまった。こうやって毎日ベッドに横になる度に、妻がいないことを思い出して寂しさが確かな質量を持って僕にのしかかった。
ベッド脇のサイドチェストの上に置いてある読みかけの推理小説を取り上げて読み始める。物語は佳境に入り、探偵役が推理を披露しているが、何故か文章が頭に入って来なかった。視線が文字をなぞるが、頭がその文字の紡ぐ意味を理解しようとしない。代わりに頭の中に浮かんでくるのは、思い出の中の妻の姿と、その妻に近づいて行く娘の姿だった。最近、気が付くと娘の事を考えている。いつからだろうと思い返すと、それは娘が高校二年生のころからだと気が付いた。その頃から娘は短かった髪を伸ばし始めた。それはまるで妻へと至ろうとしているかのように感じられた。
髪だけじゃなく、身体も、声も、性格も、考え方も、妻の姿を追うように徐々に近づき、娘は妻に――僕の愛した女性に成ろうとしている。娘が近い将来どこの誰かも知らない男の許に嫁いでいく時、僕は純粋な喜びの感情で祝福し、送り出してやれるのだろうか。既に妻が僕の許から旅立っていったのに、その上娘までも去っていくことに耐えられるのだろうか。
小説を読むことを諦め、照明を消した。ベッドに横たわって暗闇に犯された天井を見つめた。仕事で精神的にも肉体的にも疲れているはずなのに一向に眠気はやってこない。それどころか目が冴えていくばかりだ。しかし何もする気が起きない。ふと、下半身が熱を帯び始めていることに気が付いた。もう何年も男としての悦びを感じていない。僕のこの欲望を受け止めてくれる女性はいないのだ。
目を瞑り、無理矢理に寝ようとする。何度も寝返りを打ち、しかし眠ることは叶わず瞼を持ち上げた。意識すればするほど下半身は熱を帯びて起き上がっていく。心臓が暴れ始め、全身に血液を急速に巡らせていく。それと同時、僕の中で性欲が膨れ上がっていくのを感じた。それはまるで水の中に垂らした絵の具のようにゆっくりと、そして確実に僕を侵食していった。
僕は右手を握りしめ、そして開き、妻の乳房の感触を思い出そうとした。だがそれは大昔の写真のように朽ち、褪せてしまってる。必死に思い出そうとすればするほど僕の横で微笑む妻の輪郭がぼやけ、崩れていくように感じられた。灰のように細かな粒子となって、徐々に徐々に、僕の目の前で妻が妻でなくなっていく。代わりにその灰の中から、さながら寿命を迎えた不死鳥の如く娘が蘇ってくる。妻に酷似した、しかし妻よりもハリのある肌に身を包んで僕の欲望を刺激する。
僕は思わず上半身を起こした。
僕は今、確かに娘の事を性の対象にした。あの妻の生き写しのような娘を汚す想像をした。頭を抱える。脂汗が全身から溢れ出す。
「あ、ああ…………」
口の中がからからに乾く。しなびた舌が僅かな痙攣を繰り返す。不快な耳鳴りが頭の中をけたたましく犯していく――
僕は暗闇に包まれている。頭も、手先も、足も、何もかもがその底なしの黒の中に溶けだす錯覚に陥った。
熱を持った下半身が僕の意識に反し、大きく脈打った。