第〇一八〇話 アーニャ◆古巣「バルの館」へ
「おはようございます、アーニャです」
高級娼館バルの女将 ── ママは相変わらずであった。眠そうな顔で出てきたと思うと、慌ててアーニャを中に引き入れる。
「なんだよ。あんたもうここへ、来ちゃいけない人間だろう? ここの出だってバレたら、御屋形様が恥をかくんじゃないのかい?」
「ごめんなさい、早くから。でもどうしても聞きたいことがあったのよ。ねえママ、広場で死人を生き返らせたりした、魔術師ってここへ来たんじゃない?」
「なんだよ、そんな話かい? あんたなら知ってるはずだけど、この業界で、客の情報漏洩は御法度なんだよ」
「うん」
もちろん解ってはいるが、同時にその不文律もご褒美次第で、平然と破られるイレギュラーも心得てやって来たのだ。
「 ── だけど、よほどのことなんだろう? あんたがここのドアをたたくなんてね」
「ごめんーママ。勝手ばっかりで出て行っといて」
「いいよ。あんたには一番困ったとき、けっこう稼いでもらったしさ。そんときは有り難かったよ」
幼いころより、『食わせてもらってるんだから、働くのは当たり前』とばかりに厳しくされた女将だった。だがある程度年齢を重ねたためか、あるいはアーニャが領主の寵姫となったせいかも知れないが、開口一番から人の変わったような対応である。
そのときアーニャは今まで耳を貸そうとしなかった、城に通って来る司祭の言葉を思い出さずにはいられない。そう、教会において『ありがとう』の反対語は、『当たり前』なのだそうだ。
「よかった、そんなふうに言ってもらえて」
「ただ、辞めてからいろいろとお馴染みに文句は聞かされたけどね。それでもあのとき、うちが潰れなかったのは、あんたのおかげも大きいんだ。でも困ったねぇ。うちの客じゃないからねえ」
「それって、ママ。うちじゃないってことは……」
「そう、もう一件の安娼館のほうだよ。そんな変なやつが来たって噂になってたからね」
「あっちとはもうモメてないの?」
領府に公認は、二件しかない娼館である。厳しい時代は、けっこう客の取り合いとかでもめた歴史も知っていた。
「あー、今はいい関係だよ。世の中、金回りがよくなったからねえ。真王様のおかげさね。世の中が治まってるというのはよいことだよ」
「じゃママ、ごめん、一生のお願い。きっと高貴な方が、その話を聞きに来ると思うの」
「ふーん、それって昨日の ── 。ま、あんたのたっての頼みじゃしょうがない。じゃあアタシが口利いといてあげるから、一時間くらいしたらここを訪ねて来なよ。言わなくても知っているだろうけど、お宝は……」
「必要よね、わかってる。有り難う、ママ」
頼みごとに来たとはいえ、長らく悪態をついて来た女将に対し、素直に詫び言や謝礼が言えた自分に、いささか驚きを覚えるアーニャである。
それも忠誠を捧げるラーゴさまのためなればこそ、自分のプライドや意地もさておき、わずかでもミリンの役に立とうと思えばこそだ。
「けどあんたったら、ずいぶん変わったねえ。丸くなったっていうか、優しそうに見えるって言うのか、 ── やっぱりこんなとこに、どっぷり居るもんじゃないんだよ」
(昨日までは、それほど変わってなかったんだけどね。 ── さあ、これで殿下に知らせに行こう)
アーニャは最後に、両足蛇の入った檻を隠すようお願いし、娼館を後にする。まっすぐミリンの一行と合流するため、古巣の娼館から鹿車を走らせ、ピアッツァ・セントラへ着いた。下町からはおよそ片道半時間を要し、すぐに戻ればお膳立てが整っているころ合いだろう。
ミリン一行のほうは、案の定、広場で空振りの様子である。
昨日、あのような事件が起きたばかりということで、ゴードフロイたち護衛も物々しく出動していた。
アーニャは殿下の部隊に合流し、まず『殿下をお連れできるような場所ではないのですが』と断らなくてはならない。そのうえで『必ず有益な情報があるはずなので、だれか代理の者でもよこしていただきたい』と懇願する。
ああいう店にくる三流以下の著名人は、枕語りに重要な情報を、ついひけらかしてしまうのだ。女のほうも話題には飢えたもので、根ほり葉ほり探り出すのも常識だった。別の店でも、その男が通ってきたと認知されるなら、裏事情が漏れているのは間違いないだろう。
来てくれるのは、クラサビやゴードフロイの部下でもよいと思った。
しかし、自分が行って直接聞くのだと言いはり、頑としてきかないミリン。
マーガレッタがどこへお連れするつもりかと質すので、アーニャは素直に答える。
それを聞いて、とんでもないとマーガレッタが抵抗した。
「ではこうすればいかがですか?」その間に入って、クラサビが提案する。「自分が殿下の代わりにそこへ行ったことに致して、すり替えたらどうでございましょう?」
「何い? そのような謀、万が一にもリムルどのの耳に入ったら……」
国許の偉そうな人の名前を出して、マーガレッタはまたしても抵抗するものの、そこまでよい提案が出ては殿下が折れてくれそうにはない。間違いなく聖女マーガレッタとしても、クラサビに化けたミリンに付き合って、そんな汚らわしい商売が行なわれる場所へ出かけるなど、不本意中の不本意に違いないのだ。
(無垢な、天使のごとき潔癖さとは、まさにこのことね)
仕事柄、しかも同じ女性として、金で男に媚び、色を売りものとする生業に、嫌悪感を覚えるのは仕方ないかと思えた。それでもミリンは頑として譲らず、勅命とあってはマーガレッタもどうしようもない。曲げて曲げてマーガレッタも、アーニャの案に乗ってもらえることになった。
クラサビはミリンにお化粧を施し、そのまま公園に兵士たちと残る。一方、アーニャの乗ってきた荷物用の鹿車に、ラーゴを抱いたミリンと二人で乗りこんだ。マーガレッタとヨセルハイが、騎士の鹿を借り受けて守りにつきながら、下町の歓楽街へとひた走る。
(主様がいらっしゃるのなら、間違いありませんわ)
さすが、連れてくると伝えていた高貴な方に、安娼館の敷居は高いと察したのだろう。気を利かせたバルの女将が、高級娼館まで担当した娼婦を呼んでくれていた。
まだ高級娼館であれば、高貴な方を連れ込むにも、見た目だけはみっともないところが少ないというものである。
呼ばれていたのは、化粧する間もなくやってきたと見えるやせっぽちの娘で、ぎすぎすした卑しさが昔の自分を思い出すようだ。
「この人が、その魔術師のことを聞きたいんだって。あんたがいつも相手したんだろう?」
ママがミリンを最低限紹介する。お互いに名乗りっこなしという約束だ。
「あー、アタイが相手したよ。シブちんのいいかげんなやつだった。でもまあ二回来てくれたけどね……」
そこで得られた情報は、その名がディーキチと言う魔術師だということ。
そして彼は、シーヴァ裏のギェーモンという、大魔法使いに師事していた過去などがわかった。
タネは明かしてくれなかったらしいものの、あの二人は何度でも殺して、また生き返らせるのだと、豪語したようである。
「そのディーキチという方は、どこにいるのでしょうか?」
「あーもう領府っていうか、この領内から出たと思うよ。昨日の夜ちょうど三度目、遅い時間にうちへ来たんでね。少し待たせてたら、会うなり『ヤバくなったからずらかる』って帰っちまったんだよ」
残念なことにもはやこの都市にはおらず、ハビキーノ子爵領か、ボコボの港から共和国へ渡って行くと告げて、引き払ったと云う話だった。いつも蘇生芸をやりながら移動するように聞いたので、今から追えば追いつくのではないかとほのめかす。
ミリンは、その男が弟子とするなら、師匠であるギェーモンという男のほうに会いたいと希望した。魔術師と魔法使いの、圧倒的な能力差を知っているからだ。
「そんなんでもういいかい?」
けっこう態度の悪い娼婦であったが、ミリンは嫌な顔一つせず丁寧に礼を言い、謝金を渡す。
「最後に……」アーニャが付け加えた。「そのディーキチという男は、なぜ急に出て行ったかご存知ですか?」
「それは ── まずアタイの身の安全を、保障してもらわないといけないね。しかももう少し、袋の中身も弾んでいただかないと」
「なにぃ!」
マーガレッタがあまりの態度の悪さに、堪忍袋の緒が切れたようだが、これを抑えて発言するミリン。
「よろしい。そこに入った倍、差し上げましょう。そしてその理由をあなたが知っていたことも口外しません」
「オーケイだよ、お嬢様。それで、そっちのあばずれが聞きたいのは?」
喧嘩を売りたいのか、自分の値打ちが急に上がったのを読んだのか、ここに至って異様に態度がでかい。
少なくとも、アーニャの素性は薄々知っているようだ。
「お姉さん。悪態つかないで、教えていただけませんかぁ? どうしてその男が、『慌てて』出て行ったのか!」
同じ穴の狢にしかわからない威嚇をこめてアーニャは迫る。穏便に済ませてほしかったら、さっさと吐けといった気持ちを込めた。
「ふん、 ── 昨夜お城で、とんでもないもめごとがあったらしいじゃないか。うちに来た田吾作が、ほざいてたんだよ」
(くっ! こちの人 ── 公爵様が、事件については口外無用とおっしゃっていたのに。どこの田舎っぺだ、口の軽い!)
「それをあいつも聞いたんだね。あいつは前から城におさめる、燃料圧搾瓶とかを提供してた行商人がいたらしくてね、その伝手でうちへも来たらしいんだ。だから行商人が悪いやつだったと知ると、自分までまきこまれちまうとかで、あわてて逃げ出したんだよ」
それだけ言うと、マーガレッタが用意した倍の金包みをひったくるように受け取り、一目散に帰って行った。
「ごめんよ。あの娘昨日から月のものでさぁ、ご機嫌悪いだろう。しかも今日も予約が入ってるらしいから……」
昨日も、たまに領府に出てきたおのぼりさんたちのため、忙しくて眠っていないなどと女将がフォローする。
こちらの店もかなり立て込んだようだ。しかしあれは、どう見ても今日だけのご機嫌ではないように見えた。
とはいえ、もしアーニャが彼女の立場だったとしたら、おそらく似たような態度しか取れなかっただろう。
つい少し前まで自分と同じ泥に使ってきた女が、王国の宝 ── 王女殿下とおぼしき貴い方の横に、貴婦人然としてしゃあしゃあと立っていたら ── 。




