第〇一七九話 アーニャ◆公爵に捧げる愛
奴隷の身分に変わりはないが、急いで一応の教育を受けさされ、衣装や化粧の仕方も高貴な婦人たちのそれとなり、当時の面影は見られない。美顔に効果のある高価な魔法の道具も与えられ、奴隷や娼婦には許されていない眉の形や髪型も取り入れて、すっかり貴婦人アーニャが出来上がった。
その後引き合わされたゴンゴード男爵から、先代の落とし子というふれこみで公爵家へ嫁がされる。同時に母親が死んでからの親代わりに務めた功で、ゾルゲルも公爵家に勤められることになった。
その後はゾルゲルから言われるままに公爵の交情を得るため、あの手この手で籠絡しようと再度始めた体型改善の薬。しかし侍妾として引き取られたにもかかわらず、公爵は自分との年齢差などを理由に、夜伽は申しつけない。
他に公爵の、寵愛を受ける術がないアーニャは、ある夜公爵を自分の寝室に引きずり込んだ。『それほどわたくしには、なんの魅力もございませんか』と涙ながらに迫って、無理やり姦通に及ばせる。
そのときに初めて公爵にも、娼館で行なったのと同じように薬の混ぜられた酒を飲ませ、後は自分との情事から、薬で離れられなくしていったのだ。こうして姦通を重ねるたびに公爵への愛情が深まってきたころ、いままで使ってきた薬が軽い麻薬であることが明かされた。
そしてゾルゲルはアーニャに言う。奴隷制度のある国において多くの奴隷たちが酷使される中、寄り縋るものを求めずにはいられないのだと。
タバコや酒など、国が統制する嗜好品は奴隷には高価で入手しづらい上に効能が低い。そのため、こうした拠り所が彼らの不満を抑えて、内乱の危機から国を救っている必要悪なのだとも諭される。
国が荒れ、辛い時代に育ったアーニャは、生まれてこの方ずっと辛酸をなめてきたと言ってよい。教会の教えにも触れず、身をもって治世の不安が、平民やそれ以下の奴隷に与える、過酷な運命を知っていた彼女は、そんなものの必要性も素直に飲み込めた。実際なんのもバックも才能もない自分には、間違いなく必要な寄る辺の品だったからでもある。
そしてその薬を手に入れるのと引き換え条件であったのが、麻薬を流通させているマフィアについての、王国側の情報を提供することだ。
他にも怪しい薬などを扱う、素性の知れない行商人を出入りさせるため、賄い方に裏から手を回し、入札価格を漏洩したりもした。
それらはゾルゲルから、毒によって国難を救う、いわば善行であるように思いこまされる。
思えば、紹介した行商人というのが秘密の薬を提供し、裏からゾルゲルを操ってきた者ではないかと感じていたが、やはりそうだった。
そのときは、この薬が手に入らなければ、なんのバックも持たない自分に、いつまでも公爵を繋ぎ止められるはずはない。それを恐れるあまり、間者を続けてきたアーニャである。
一方、麻薬の流通を阻止しようとする殿下が、自分には邪魔な存在にしか感じられなかった。
しかしアーニャは、自分の肉体を求めてやまなくなった公爵に対し、いつからか本当の愛情を抱いてしまったのだ。公爵の愛情というにはおこがましい、卑劣な手段で手に入れたものである。
その一方で、彼の庇護を手放したくない拙劣な思いと同時に、この薬を使い続けて、公爵の身体は大丈夫なのだろうか、という不安も募ってはいた。
それが今回、主様の親衛隊ナツミの下僕になって、公爵の体が危険な状態にあったということも知る。
そして、アーニャは心を入れ替えたのだ。
ヴァンパイア化して使役されたからではなく、決して愛する人に対して、やってはいけない罪に手を染めていたことが、初めて理解できたからといえる。
今は公爵の、ひいては王国と殿下のために、なんとか役立ちたいと思えてくる。それは自分を支配する吸血マスター・ナツミの絶対主でもある、ラーゴの願いだからだ。昨夜自分の身を挺して、ミリンを守ろうとしたのは、その気持ちの表れである。
しかし、自分が信じてきたものは、あんなとんでもない人殺しであった。
もし、あのまま行商人の側についていれば、自分もああした毒蜘蛛の餌食になっただろうと思うと、恐ろしくてたまらない。
今はもう、不死身の体と永遠の若さを手に入れたので、そんなものは恐くなくなったはずなのだが。
そしてアーニャは、ナツミの能力も一部引き継いでいることがわかった。
昨日ナツミが、公爵に付与した一時的な力を、自分にも授かったようなのだ。
いずれナツミがその行使の方法を教えてくれるだろう。主様が発たれた後も、しばらくは吸血鬼見習いとして正体がばれないように、力の使い方、隠し方を伝授してもらえるらしい。
しかしナツミの能力は、あの薬よりも効果絶大だ。今朝公爵は夜が明けて随分なるが、まだベッドから起きあがられるけはいがない。衛兵たちやグラリスには、昨日の気疲れでと言っておいたが、半信半疑の顔で流されてしまった。
これまでの悪行が響いているのは間違いないし、実際のところ閨ごとによるお疲れなので仕方ない。起きあがって来られた公爵の目の下に、隈のないことを祈るばかりだ。
ところでゾルゲルが今朝、昨日取り逃がした毒蜘蛛が死骸の山として見つかった場所で、やはり死体となって発見された。
真夜中、酔って躓いたところに蜘蛛の死骸があり、毒が身体に入ったせいで大事な部分だけが、硬直状態で息絶えていたと云う。
南からきた兵士によれば、あの蜘蛛に刺されると数十分ほど苦しんで、勃起したまま死亡するらしい。かわいそうだが、こうした事故で死ななくても、マフィアの手先として断罪されていただろう。アーニャにとって、そんな死に方でゾルゲルが、いなくなってくれたことは幸運だった。
その蜘蛛が隠されて持ち込まれたバナーニを、ゴードフロイたちがご褒美にと主様へ山ほど届けたため、殿下と朝から口論になったらしいと報告を受けている。なんと危ないものを持ってくるのか、あたったらどうするのかと。
あのお姫様も、偉大な支配者主様の威厳に、あるいは近い将来地上の支配者として君臨されるご威光を感じ、心底まいってしまっているのだろう。欲目かも知れないが、たしかに殿下を守るため、毒蜘蛛に果敢に挑んで行かれた雄姿は素晴らしかった。
その殿下は、朝食後すぐにまた広場へ出掛けてしまったらしい。
一緒に行きたかったのだが、アーニャの目覚めた時間は遅すぎたようだ。
行き先は解っているものの、アーニャには別のあてがある。
そこへ向かうことにした。
今朝、自分専用の馭者が死んでしまったところなので、荷物用の鹿車を出させる。
その馭者に、アーニャ専用のキャリッジを牽かせればよいとは言うものの、キャリッジの馭者としては身なりも悪いし、今日の目的地には荷鹿車のほうがいい。
アーニャの目的地が、それはもう二度と足を運ぶことはないはずの、元の古巣、生まれ育った高級娼館であるからだ。




