第〇一七八話 アーニャ◆闇に葬った半生
アーニャはそもそもこの領府にある高級娼館で産まれた。娼館で生まれたのは、彼女の母がそこで娼婦として働いていたからだ。
そんなアーニャがハーンナン公爵の先輩に当たる貴族、今は亡き先代ゴンゴード男爵の落としだねという触れ込みで、公爵の侍妾として引き取られたのには理由があった。
それは今から三十年近く前、北ハルン王国が、大陸の中でもひときわその繁栄を誇っていたころのことである。
当時ちょうど妻を亡くしたばかりの、先代ゴンゴード男爵を元気づけようと、先代ハーンナン公爵が領内一の娼館に連れて来た。男爵の亡き妻は先代公爵の妹であり、つまり二人は義兄弟だったらしい。このときあてがわれたのが、それまで客を取っていなかった母親で、いわゆる水揚げというものだ。
先代ゴンゴード男爵は、その後も公爵領をお忍びで訪問した際、必ずといってよいほど立ち寄ってくれたと云う。アーニャはそんな母の、だれの娘かも分からない境遇に生み落とされ、すぐ母親には死に別れた。高級娼館『バルの館』というところで育った私生児で、しかも運の悪いことに、王国はそのころもっとも衰退していた時期である。
国が荒れ不作と不景気が続いた時代のせいも相まって、アーニャは聖堂で行なわれる読み書きの教室 ── スカラにも、通わせてはもらえなかった。それは、娼館の出自ではいじめにあうという心配もあったのだが、客が激減した娼館で、ただ飯はもらえない ── 働かねばならなかったからだ。
年端の行かないころから水くみ、火起こし、洗濯、掃除はもちろん、娼婦や客の身体拭き。待合やことの終わった後のお茶出しやベッドメイキングなども、すべて彼女の仕事である。待合で控えていて、客からの注文があればタバコを買いに走ったり、乾きものや軽食を提供したり店屋物の注文にも走らされた。
そのうち、簡単な食事は自分で作れるようにもなったが、それは専ら娼婦上がりの年寄りの仕事であり、よほど手がないときに見様見真似で手伝いをするくらいだ。そんな間は客の手がついてはいけないため、少女時代のアーニャは丸刈りに近い頭で過ごさなければならない。しかも客の来ない時間に、先輩娼婦から閨のテクニックを覚えさせられた。
ものごとがわかってくると、自分がそんな仕事をすることに嫌気がさす。だがその暮らしから逃げようにも、国の制度がそれを許さない。
娼婦は高級娼館でも、身分は平民以下の準奴隷扱いだ。一方『付きだし』などとも言われる、ちゃんとした民家などから売られてきた者なら、条件付きで元のさやに収まることもある。とはいえ、アーニャのような出自の者には、生まれつきの奴隷という烙印が、永遠に付きまとうのだ。
そして三年前ついに水揚げされたが、いまだ王国は復興の真っただ中で、地方の娼館には満足な収入もなかった。それまで下働きだったアーニャには、十分な栄養も摂らせてもらえなかったため、水揚げ後も、なおやせっぽちで魅力に欠け、馴染みと言われるお客がまったく付かない。世の中がよいときであれば、年若いころからその肉体の艶めかしさを誇った、母親の資質を継ぐと期待され、将来の投資としてたっぷりと、栄養や教育も与えられただろう。
しかしアーニャが直面した現実は厳しいものだった。
男を知ると、ぽっちゃりした幼児体型の女の身体も、女性ホルモンのバランスが整って、不要な贅肉が減っていく。いずれは凹凸のある娘らしい形に変わることが多いが、まずアーニャには余分な肉などない。とくに食に窮する地方において、男も女も痩せているよりは肉付きのいいほうが魅力的とされるのだ。
そんなとき、先代のゴンゴード男爵が水揚げした娼婦はいないかと、尋ねてきたのがゾルゲルであった。
お目当ての娼婦 ── 母親はすでに死んでおり、アーニャはその娘だと差し出される。ゾルゲルはアーニャと母親の身の上を聞き、ある嘘話に口裏を合わせるよう吹き込んだ。それはアーニャの母親が水揚げ以降男爵以外に客をとらされず、アーニャの父親はゴンゴード男爵に間違いないというものだった。それと同時にゾルゲルから、魔法の効果のあると称した、さまざまな薬が提供される。
一つは自分の貧弱な体型を魅惑的なものにする薬だ。そしてもう一つは客を増やすために使う惚れ薬と言われて渡された。
自分で飲む薬は、一週間ほどで効果が現れる。やせっぽちで凹凸の少なかった身体が、女特有の部分に膨らみを持つ、娘らしい体つきへと変わってきた。ただそれを服用すると、自身も男を求めずにはいられなくなり、毎日何人も客があるわけではないアーニャは、使用する気が起こらない。
また客用の薬を飲ませると、少量で陶酔感に浸れるようで、一度使うと必ずもう一度、あるいは二度、三度と繰り返してしまい、結果上得意の客が増えて行った。もちろん飲みものを頼む客ばかりではないので、怪しまれないようにゾルゲルが勧めてくれた薬を、自分の体の、男の唇が這いそうな部分に塗っておいて摂取させる。今朝まで公爵に与えるためにも、使っていたスタイルだ。
指名がかかるようになったアーニャは、自分が興奮して男を求め、満足する痴態を見せることで、相手の男がより喜ぶという性癖も覚えた。こうして自分の薬も、しばしば服用するように変わっていく。
次第に稼ぎに応じて食生活も改善される一方、薬効でどんどん体形についても進境著しいアーニャ。ほどなく、ほとんどの男が見れば目を奪われたという、母親に匹敵する魅力的な体を手に入れた。こうして半年もたつと、まだまだ王国では厳しい状態が続く中、しだいに経営難の高級娼館を、支えられる一本の柱にまで成長していたのである。
そんな経緯から、庶民に高嶺の花となった以降のアーニャを知る者はほとんど、こうしたところに出入りしていることがはばかられる、世間体を持つ者ばかりとなった。だから今のアーニャを見て、もし当時の面影をほうふつとするも者がいても、面と向かって指摘される気づかいなどない。よしんば飾り窓で見た娼婦に、似ているなど噂しようものなら、領内であれば不敬罪で投獄、悪くすれば死ぬほど叩かれて領内追放という可能性もあるだろう。
それからしばらくして、自分の指名に店内最高の金額がつくようになったころ、ゾルゲルにより高額で身請けされることが決まった。




