第〇一七六話 名誉な汚名
幸運なことに、放たれた蜘蛛からミリンまでも距離はあった。構えていたクラサビが、目の前のテーブルからテーブルクロスを引き抜いたと思うと、ミリンに覆いかぶせて守る。もちろんその外を結界で包んだはずだ。
同じタイミングでアーニャは、両手を広げて蜘蛛とミリンの間に立ちふさがる。さらにはそのスピードよりも早く、マーガレッタが短剣を抜き、最初に襲って来た三匹を、次々と切り裂いていった。
しかしそれが限界で、同時により高く飛んできた二匹は防ぎきれず、マーガレッタとアーニャの顔に取り付いてしまう。
思わず怯んで後ずさりする二人。
不死身のマーガレッタはよろめきながらも、片手で蜘蛛を捕まえ握りつぶした。
だがもはや、いったんアーニャにとりつき、そのまま跳び上がって彼女を飛び越える蜘蛛。真上からテーブルクロスに包まれたミリンを襲おうとした空中で、クラサビの揮ったフォークに突き刺され地面に落ちる。
一方何十匹もの蜘蛛を結界の中に閉じ込めたラーゴのほうも、すでにナズムのかけた幻術により勝負がついていた。体中にとりついた蜘蛛に刺され、行商人はショック死してしまったからだ。
もはや蜘蛛の中に埋もれて見えない行商人が蜘蛛を放つ寸前、彼がミリンと認識されるようナズムが蜘蛛に幻術をかける。おそらくそれに向かって攻撃するよう仕込まれていた蜘蛛たちが、一挙に彼に攻撃を集中した。
もちろん蜘蛛が出現した時点で、大きく退いた周りの客にはその幻術は見えない。おそらく出てきた蜘蛛が、バナナを叩かれた腹いせに襲って行った、と思ってくれただろう。
(─ さてこの何十匹もの蜘蛛たちはどうしたらいいか)
そのまま人のいない足元を狙って、屋外へ導けるよう結界でトンネル状に延ばした。そしてそこへ、ラーゴがクモを追い立てる。無数の毒蜘蛛が、足元へ走って来ると知ったゲストたちは逃げ惑うが、蜘蛛は外へ向かって、一目散に逃げ出しているとしか見えまい。
ラーゴが追うのは会場出口までであり、千里眼で見ながら結界を動かして、どんどん城の外まで追い込んでいき、人気のない場所にまで連れ出した。半魚人のときと逆に閉じ込めた物理結界を急激に縮める。
中では蜘蛛同士がおしくら饅頭状態となり、共食いよろしくお互いに攻撃をはじめ、しだいにおとなしくなった。結界は元に戻してしばらく様子を見、動きがなければ結界を解くとしよう。
会場は騒然としているが、暗殺と呼ばれる幹部はこれで片付いた。
ようやくこのタドゥーカにも安息が訪れそうだ。よほど横の連絡がとれない組織体でもなければ、暗殺薬の他に、城の近くまで潜り込んできている仲間はいないだろうと思えた。
そしてこれで、アーニャも敵ではないとみんなに認めてもらえただろう。実は蜘蛛は針を突き立てたようだが、ヴァンパイア化のおかげで、毒に耐性もある。だから無事だったのを、運よく刺されていないと周囲が理解したからだ。
(─ え、じゃあ毒味してたのは ── ? まあ、いいか)
クラサビが介抱し、ミリンがマーガレッタと同様に気遣っているが、アーニャの態度はお芝居に違いない。なかなかラーゴの魔族部隊の一員として、将来有望と思えた。
混乱した会場を収拾するのは、公爵といえどもたいへんそうだったが、すでになんとか落ち着いてきている。パニックが起こらないよう、ナゴミに鎮静化を施してもらっていたからだ。
ほっとしてラーゴは、野暮用を思い出す。
{クラサビ。後でラベルや銘のない、空いたワインボトルを二、三本もらってきてくれる?}
すべてが収束し、今夜はクラサビがミリンの部屋で寝ずの番をすることとなった。まだ残党が、どこかに潜んでいるかも知れないからである。
部屋の外や建物の周りなども、ゴードフロイの手の者と城の衛兵が、見張る厳戒態勢だ。ハーンナン公爵領、始まって以来の事件の夜ということで、仕方ないだろう。
軽い夜食を取り、早めに休まされたミリンは、まだ眠りに就いていないようだ。さきほどその様子を確認した影鍬ヒカゲが、ミリンの枕元でアーニャの私室の探索報告を、行なう内容も漏れ聞いた。もちろん怪しいものなど、髪の毛一本見つかるわけはない。
ラーゴもいささか興奮が冷めやらぬのか、ふりはしているが寝つけなくなったため、千里眼パトロールを行なおうと思い立った。
ミリンの部屋のすぐ外で、守りをかためているのはゴードフロイに近い者たちだ。そこへ外回りの守りを確認してきたマーガレッタ、ヨセルハイそしてゴードフロイたちが戻ってくる。
「しかし今日のトカゲの働きには驚いた」
「ええ、ラーゴがいなければもっと毒蜘蛛の接近を許し、殿下もただでは済まなかったでしょう」
「あんなにバナーニが、好きだったとは知りませんでした」
(─ はあ?)
「たしかに。あのトカゲが意地汚くバナーニをかじってくれていなければ、本当に危なかった」
(─ ええーっ、そういうこと?)
周囲からは、そのように見えたらしい。
「しかも、ラーゴが無事でなりより。殿下がご寵愛ですので、また悲嘆に暮れられてしまいます。でもよく蜘蛛に襲われませんでした」
マーガレッタの言葉を聞きながら、ゴードフロイは気の抜けたような返事をする。
「襲われたかも知れんが、しっかり見ていなかったからな」
「えっ、でもそれでは……」
「いやマーガレッタどの、あの蜘蛛の毒は人間やモンスターにしか効かないのです」
ヨセルハイが言葉をはさんだ。続けてゴードフロイも解説を加えた。
「そうだ、冷血獣や鳥には効かないと言われている。だから、蜘蛛はトカゲに追われて逃げ出したんだろう」
「そうでしたか、幸運ではなかったのですね」
(─ なるほど、そんなことだったんだ。そう言えば刺しにも来なかったな)
「あのバカな暗殺者の鞭が、トカゲを追い払うために揮われたから、バナーニの中で休んでいた蜘蛛の怒りをかいました。結果矛先が、あいつに向いたので自滅しましたしね」
(─ 違うんだけどなあ、 ── まあいいか。ボクは意地汚いトカゲってことで)
国元に帰ったら、バナーニを送ってやろうと意気込むゴードフロイに、早く忘れてほしいと祈るしかない。
次はあの蜘蛛を閉じ込めた、結界に視点を移す。蜘蛛たちはもう動きがなく、千里眼の調査でも『蜘蛛の死骸』としか出ないため結界を解除した。夜明けごろには巡回の衛兵に見つかるだろう。
クレナイを探すと、まだ生き残った間者ゾルゲルを見張っている。ほかのマフィアたち関係者の接触を期待してのことだが、ゾルゲルは結局役には立たなかった。マフィアの一員ながら本体の情報はそれほど持ち合わせないようだ。今のところヴァンパイア化も予定していないので、放置すると将来、心配の種になるだろう。
このまま公爵城内に、後々の禍根を残したくはないし、行商人の関係者だなどと自首などさせると、アーニャの身辺にも及ぶ話に至りそうだ。といっても、こんな事件が起こって急に出奔すれば、それも疑われる元になる。
魔族に生まれ変わったアーニャには、今後とも公爵の傍に侍り、これからは我々の情報源として、できるかぎり活躍してほしい。
(─ ゾルゲルは自然に消えてもらうか、養蜂の場所ででも働かせるかだな。そうだ、アーニャはどうしただろう)
真夜中に申し訳ないが、あの後の公爵とアーニャの様子も気になっていた。
{ナオコ、ナツミを呼んで}
{はい、ナツミです}
{アーニャはどう? 公爵はいっしょ?}
報告によると、麻薬の切れる前の公爵はアーニャにべろべろだったと聞いていたが、薬の効果も無くなってはそのあたり、大丈夫なのだろうか。
{はい、ご一緒だったのですが ───}
口ごもるナツミに不安を感じた。
{なにかあったの?}
{あ、いえあの薬は麻薬だけではなく、先ほどの蜘蛛からとった成分が混ぜられていたようで、それを提供しないと公爵はどうもダメなようなのです}
{ダメ? 蜘蛛の成分って ── ?}
相続者の記憶によると、先ほどの蜘蛛、クロドクシボグモに噛まれると勃起したまま昇天するという、おかしなニュースを読んだことがある。たしかそれを基に、勃起不全の対処薬開発が進んでいるとか。
{はい、あちらのほうが}
なるほどトリップするだけではなく、ED改善も図る優れものだったんだと理解した。
{公爵は今、アーニャに対してはどうなの?}
{アーニャへの気持ちはお変わりないみたいですよ。ただもう、身体が付いてこないのでしょう。それを薬のせいだと知らない公爵はショックのようで。アーニャは、今日の事件の精神的なものと慰めていますが}
{困ったね。 ── もしよかったら、ナツミの能力を使えば?}
そうだ、きっと機会がないと思っていたが、役に立つなら活用してもらおう。
{え、いいんですか? ぬふふふ……じゃあ腕によりをかけて、がんばらせてもらいます}
{ま、ほどほどにね}
少し嫌な予感がした。しかしまあ、夫婦の仲は悪いより良いほうがいいだろう。たまたまであったが、ナツミの能力は『強壮』である。
こうしてようやくハーンナン公爵領の夜は更けて行った。