第〇一七三話 怪しい湯沸かしシステム
冬の日暮れが迫って来るが、ここは公爵領府タドゥーカの居城に与えられた、暖かいゲストルーム。ミリンに抱かれたラーゴは、そろそろミリンの歓迎会が開催される時間が、近づいて来た緊迫感を覚えている。
(─ で、いったい暗殺者はどこにいるんだ?)
前回の経験によれば本人は姿を見せぬまま、あるいはこの地にすらおらず、麻薬で操った人間などに、毒を入れさせる手段も想定された。
以前から不思議に思って来たが、麻薬に犯された人間からは悪意のオーラを強く感じない。
悪いことをしてやろうと考える人間と違い、自分自身は正常な善悪の判断能力を失って、言いつけられた命令を実行しているだけなのだ。だから、罪悪感を抱かない、つまり悪意を持たないのである。これは非常にタチが悪い。さすがに前回ミリンと間違えて、クラサビに毒を口移ししようとした者については、彼女が抵抗した瞬間、悪意のオーラを感じられたのだが。
どのような手段で、あの命令を受けたのかわからない。だが毒の効能が本人に知らされていないものをはじめ、他人の飲み物や食べ物にふりかける程度のことだ。使われた人間が、もともと悪人でなければ余計、それほど強い悪意を覚えないらしい。
本人の資質にもよるのだろうが、アーニャはそのよい例である。自分の主人の関心を引きたいがゆえに、投薬という手段を使う行為が、プチ整形して周囲の異性の関心を集めようとした程度の行為と、比較して罪悪感を持たなかった彼女と大差ない。
その薬を与えてもらう見返りとして、ハーンナン公爵に持ち込まれる情報、とくに闇の組織に不都合な話題を漏洩したようだ。これには本人も罪悪感を抱いているものの、非合法な薬を手に入れるには、やむない手段とあきらめて来た節がある。同時に、社会の底辺を支えるため不可欠な薬が、日の当たらない貧民まで行き渡るには、マフィアも必要悪だ。だからそれを排斥しようとするミリンは、弱い民をいじめる、横暴な君主なのだと吹き込まれていた。
ゾルゲルに血潜りの術をかけて調査したクレナイによると、この屋敷の中でアーニャ以外に、彼が麻薬を与えた人間はいないようだ。二人の記憶などから薬を提供してくれたルートは、アーニャの推薦でハーンナン公爵家へ、出入りするようになった行商人であり、おそらく暗殺薬と言われる幹部であると思われる。アーニャがマフィアに漏らしたそのルートにおいて、ミリンはここに来るまでに前回のように狙われ、命を落とす運命と聞いていた。ゾルゲルはアーニャに、ミリンを殺すのは闇の組織などではなく、王国への恨みを持つ他国の有志だと教えられて来たらしい。それほど王家は周囲から恨まれていると。
つまりアーニャは、そこまで深く組織の活動と、関わることがなかったようだ。アーニャは公爵以外のほかのものに与えられた薬を使って、同じような手口で自分の言いなりになる、人間を作ったりはしていない。ともあれナツミが、とっさの判断でアーニャをヴァンパイア化させたのも、あながち失敗とは言いにくいだろう。今回の暗殺計画が不首尾に終われば、ミリンがこの地を去った後、寝返ったと見られたアーニャは、裏切者や失敗者として命を狙われ続けるだろうし、今のタイミングでいなくなったらなったで、だれの手によるものかを疑われる。そればかりか、アーニャとマフィアの関係が露呈すれば、王国の将来に必要な公爵の地位も危ぶまれるとも思えた。
さらにはこの後の宴会でも、大量殺戮を予定している外道たちだ。アーニャとゾルゲルの糸が切れたら間違いなく、ミリンを亡き者にしようと考えたのと同様、ハーンナン公爵やその周囲の者の命も同時に危ない。
(─ では、暗殺薬のやつ、この後どう仕掛けてくるんだ?)
城の中には、かなりの人間が働いている。そこに領地中の名士や豪農などもぞくぞくと集まってきており、そういったものには従者連れも多い。そのあたりにいる人間の意識を、すべて読んでいくのは、それほどたやすい作業ではない、と思われた。またそんなことを一人一人している間に、悪意のない者がコトを起こしてはたいへんだ。
まもなく宴会が始まる。どことなく翳りのあった頭脳戦士が、アーニャとグラリスの二人を連れ、一転清々しいキレる男になって、ミリンの部屋へお誘いに訪れた。
「ミリアンルーン殿下、お迎えに参りましてございます」
扉が開くと、この日のためだけに運ばれて来た豪華なドレスに、着替えたミリンが部屋から出てくる。
「お待たせしました」
「ではお父様。殿下は、お父様がエスコートを」
グラリスが公爵に声をかけた。
「わかってるよ、どうぞ殿下」
「殿下、私にも」
グラリスが公爵の反対側に立ち、ミリンの反対の腕を取る。
その腕に抱かれていたラーゴは、仕方なくミリンの肩まで上がってそこに捕まろうとしたが、すぐ後ろから『しばらくお預かりします』と言って、ラーゴを取り上げるマーガレッタ。
ミリンの後方にアーニャとマーガレッタ、さらに先ほどまで部屋に一緒にいたクラサビが、その後ろを付いて行く。
アーニャの髪の毛から、ナツミがカマールの顔を出した。
クラサビはちいさくウインクをして、{わかってるわよ}と返している。
{主様、クラサビさまはじめ親衛隊の皆様、アーニャでございます。このたび、ナツミさまの隷べにしていただきました。若輩者ではございますが、これから末永くよしなにお願いいたします}
そうだ。すでにアーニャは、ナツミがヴァンパイア化してその絶対支配下にある。ナツミがラーゴと全員に感応通信をつないだのだろう。アーニャからの仲間入りの挨拶が流れて来た。
{こちらこそよろしくね。とくに今はミリンを守ってあげて}
{すべてはラーゴさまの仰せのままに}
(─ まあヴァンパイア化したんだから、その若さが永遠に続くというメリットで、あきらめてもらったほうがいいかな)
ただ聖水には、決して触れることができない体になってしまっている。
そういうルールがわかるまで、しばらくナツミはつけておいたほうが、いいかも知れないと思われた。
急にいなくなったら公爵の心の痛手が大きそうだし、とんでもないところでアーニャが吸血鬼だったとバレると、魔族が生き残っていると云う噂が流出しかねない。




