第〇一六七話 クレナイ◆汚名は返上するもの
いったん外に出ると、先ほど自分を誘いたいとほざいたほうの衛兵が、立っていたためそこまで行き、また声をかける。
「すいません。公爵様はお仕事、お済みになりましたでしょうか」
「いやそれが……」
中身を知っているだけに、何とも歯切れが悪い返答だ。
「なら、もう結構です。殿下は直接、宴会のほうでお話しするとおっしゃっておりましたので。では私はこれで失礼します」
そういって、しかし少し色目を使いながら立ち去ろうとすると、男のほうから声をかける礼儀は、持ち合わせているらしい。
「ねぇ、君」
「何でしょう。まだ何か御用が ── ?」
「俺はクレナール。この衛兵隊の中で、妾館の警備を任されてるんだ。きみ、名前はなんて言うんだい?」
まあ、これだけ公爵が妾館に入り浸るというなら、それはそれで大事な仕事なのだろうが、普通に考えて日の当たらない職場であろう。偉そうに自慢するほどでもない。
しかも男の名が嬉しくないことに、どことなく主様からいただいた尊い名前と被っているので、思わず偽名を使うクレナイ。
「カミラと申します」
どうせ二度と言わない名前である。適当なものだ。
「カミラか、いい名前だね。どうだい? 今日の仕事が済んだらちょっと。俺はもう、ここは一時間ほどで終わりなんだが、その後、城下でも案内してやろうか」
見た目の年回りでいうと、ハッチくらいの年齢の子供がいてもおかしくないおっさんで、公爵の城勤めとはいうものの閑職のうえ、先ほどの話から恐妻家の衛兵である。そんな男に言い寄られたクレナイは、嫁さんの尻に敷かれているくせに、大胆なやつだと感心した。
だがそうそう邪険にも出来ず、ここは調子を合わせなければしかたない。まだこれから、ゾルゲルという男にアタックしなければならないクレナイは、ここで問題を起こすわけに行かなかった。
「まあ、うれしいですわ。私、こちらは初めてですから」
「そうなのかい? いやー、楽しいところがいっぱいあるんだ。じゃあ是非行こう。絶対だぜ」
「あーそうですわ、私一つ用事を思い出しました。それを済まさないと、遊びに行けないですわ」
「用事ってなんなんだい?」
「こちらのゾルゲルという人が、王城のえらい方とご友人で、そちらから預かりものをしてきていたのです。早くお届けしないと」
「なんでぇ、ゾルゲルか。あいつ、そんなところに知り合いがいたんだな。そういやこないだも、アーニャさまについて、王都へ行ってたんだったか ── どうも、得体の知れないやつだ」
「え? なんですって?」
やはり、ここでも『得体の知れないやつ』として見られているらしい。王都にも、アーニャについて来たようだから、グラリスが目撃したという、不審者と断定して間違いないだろう。
「いやいや、こっちの話だよ。そうかい。ゾルゲルなら、アーニャさま専用の馭者でキャリッジの保守係だから、車庫のほうへ行けばいると思うぜ」
「ありがとうございました」
「じゃあ、宴会が終わったら、城の西出口で待ってるからな。必ず来てくれよ」
「はい、わかりました」
だれがお前のような、うだつの上がらない男とうれしそうに行くもんかと思いながら、もらった情報は笑顔でお返しし、有り難く頂戴する。万が一、約束の時間に来ないからといって部隊のだれかに、カミラという女を知らないかと聞いて回っても、この男が恥をかくだけだ。
(まあ、口が堅かったら血を吸って調べないといけなかったから、男のおしゃべりも役に立つこともあると思ってもらわなきゃね)
だがクレナイのあっさりした態度に、クレナールは不安を感じたのだろうか。立ち去って行きかけた細い腕をつかんで言う。
「まあ、そんなにさっさと行っちまわないで、そのゾルゲル宛の手紙とやらは俺が託けてやるから、もうちょっと話していきなよ」
「いえ。私、急がないと……」
周りには人気がないが、見通しのいい往来の真ん中である。隷属するために吸血行為に及んでいるとき、それを通路に出て来ただれかに見咎められるかも知れないと思うと、とてもクレナイも本性は現せない。魅了の力で一瞬目眩を起こさせ、その間に立ち去ることはできるが、血でも吸わなければなんらかの力で黙らされたという、記憶は残ってしまうだろう。
そんなやり取りに窮するところへ、奥の扉が開いて女の声がかかった。
「何をしているのです? クレナール」
「これはアーニャさま。どうも今日お着きになった、ミリアンルーン殿下一行の従者という、この女カミラが公爵様とゾルゲルにそれぞれ、ことづけを持って来たらしく、車庫への行き方を教えていたところでございます」
「そうですのね。わたくしもちょうど今、公爵様からゾルゲルに申し付けがあったのを、伝えに行くところでした。カミラさんですか? 公爵様へのおことづけとやらもお伺いしながら、ご一緒いたしましょう」
「それでは小官もご一緒に……」
「何を言うのですか。まだ奥で公爵がぐっすりお休みです。お前はここでだれが来てもしばらく通さないよう、しっかりお役目に努めてくださいね」
「はっ、はいわかりました」
アーニャが先に立つ形で、クレナイは車庫のほうへ行き、周りにだれもいなくなったのを確認して、再びカマールに変身だ。
{助かったわ。あのままだと渡すものなんてないし、めんどうなことになるところだったから。でもどうして?}
{あの後身づくろいをしてたら、クレナイのことをご覧になってらした主様から、連絡があったのよ。困っているみたいだから助けてやってと。それにゾルゲルという男を呼び出すのも、アーニャがいないとたいへんでしょ}
{そうなの。主様、見ていてくださったのね}
{でも今からちょっと忙しくなるようなので、それもあって二人行動のほうがいいって。期待されてるからがんばらなくちゃね}
{ええそうなのよ。昨日の汚名を挽回しなくちゃ}
{ ── それって本当は、汚名返上って言うらしいわよ}
なかなかナツミは噂にたがわず、勉強家だと感心するクレナイである。もともとやる気に欠け、ダレダレの親衛隊メンバーの中では、クロスと競合する向上心の持ち主だった。
(後、協調性があれば、みんなを引っ張って行けそうなのにね)
車庫にはたくさんのキャリッジが止められており、何人かの男がそれを拭いたり洗ったりしている。その向こうには多くの鹿が並び、餌や水を与える厩舎があった。先ほどのところと違って、かなりざわざわした場所だ。あの兵の話だと、こちらのキャリッジのほうにいる一人がゾルゲルなのだろう。ここでナツミがコントロールしているアーニャの出番だ。今のアーニャは操られるまま、ナツミの言うなりに動く意志のない人形状態である。
「ゾルゲル、ゾルゲル、どこにいますか」
「おいゾルゲル、アーニャさまがお呼びだぜ」
「そんなはずは? いや、たしかにアーニャ ── さまの声だな」
公爵より、少し上くらいの年格好に見える、眼光が鋭く、姿勢のよくない男がゾルゲルのようだ。もちろん、彼らから見通しのきかない位置で声をかけたため、キャリッジの間の奥まったところにいるのだろうと、ゾルゲルは覗き込んで言う。
「こんなとこまで来るんじゃねえよ、怪しまれるじゃねえか」
聞こえるか聞こえないか程度の声で、ブツブツ言いながら歩いてくるゾルゲル。
「ごめんなさい、ちょっとこっちまで来て下さる?」
「どうしたんだ。声まで出しながらそんな奥まったところで……」
このゾルゲルという男、なかなかに鋭いと見た。あるいは、かなり自分に後ろ暗いところがあるのだろう。仲間であるはずのアーニャにも、まったく気を許していない。だがカマール姿のままで、隷属するほど吸血するのは不可能だ。人目の立たないところまで、踏み込んでもらわなければ ── と考えていると、ナツミが一か八かの手段に出る。
「いいえ、殿下はきっとここまでたどり着けないって言ってたのに。 ── とすると、麻薬や毒を使うあの男がやってくるのかしらと思って」
「なにぃ? お前、暗殺薬様のことを。さては裏切りやがったな!」
ナイスだ。ゾルゲルはアーニャのところまで走り寄って腕を掴む。次の瞬間、男の後ろについて来たクレナイは、人の姿に変わり羽交い絞めにした。一瞬驚いて、抵抗しながら声も漏れるが、すでにクレナイの掌は、ウイプリーの怪力で男の口をふさいでいる。表では複数の使用人が動き回り雑音の多い中、その程度の物音や声なら、気にする者もないだろう。
(それでも、自分一人でやると音が出てしまうわ)
たてた音は目立っていないようなので、身動きできないゾルゲルの首筋に針を突き立て、吸い込んだ血をまた戻す、血潜りの術にとりかかった。ただ、主様から隷属、ヴァンパイア化の指示はまだないので、アーニャ同様最低限の吸血である。
「うっ……」
くぐもった声をあげて、男の身体から力が抜けた。だが、同時にアーニャもへなへなと倒れ込みかける。後ろにすぐナツミが現れ、崩れ落ちそうになったアーニャを支えていた。
{どうしたの?}
{この男、あの一瞬でアーニャの腕に毒針を指したみたいだわ。ほら、その手に持っているもの ───}
たしかにゾルゲルの右手の中に、小さな針がついた物体がみえる。正体はわからないが、命を奪うために用いられたのは明らかだった。ナツミはすぐ、アーニャの腕の傷から血を吸い出そうとしているものの、身体全体に毒がまわったのは、もう一目瞭然だ。クレナイを一瞥すると、意を決したかのように、アーニャの口へ自分の唇を合わせる。
{どうするのよ?}
{もう、ヴァンパイア化するしかないわよ。今アーニャが死ぬなんて事件が起きたら、暗殺者が出て来なくなるわ}
たしかにそうだ。それはこの後、いつまでも禍根を残すことになる。舌下から差し込まれた針を通して、身体の血のほとんどすべてを吸いあげられ、人としての命の終わりとともに、魔のものとして蘇るアーニャ。クレナイも今は自分の仕事をやりぬくのみだ。
(この男はアーニャとは違って、かなり組織の動きを把握している)
アーニャを使って、公爵に麻薬を摂取させた張本人は、ゾルゲルの上にいるマフィア幹部、暗殺薬と言われる殺し屋ということがわかった。
正体はアーニャにも明かされてはないようだが、アーニャにその男を行商人として推薦させ、ハーンナン公爵家へ出入りさせているらしい。すぐに主様に詳細を報告する。
{そいつは半魚人たちが船を襲撃する直前、ゴードフロイに毒を仕込もうとしたエージェントの黒幕と、同一人物ではないでしょうか。そして、今から開催されるはずの宴会でも、殿下だけでなく、大量の人命を奪おうと画策しているようです。そのときは、公爵やアーニャも、道連れにするつもりではないかと ───}
{わかった。なんてやつらだ。じゃあクレナイは、このままゾルゲルをおよがせて。その幹部から、スケジュールのいったんでも知らせて来ないか監視していてほしい。宴会のほうは、クラサビたちに任せておいて大丈夫だろう}
アーニャのこともとくにお叱りはなかった。たとえ暗殺薬とやらを退治できても、領府を我々が退いた後にアーニャが生き残っているとわかれば、裏切ったのがばれてマフィアから、執拗に命を狙われるのは間違いなく、公爵家の者たちまで巻き込みかねない。アーニャを生かしておくなら、それに対抗するため、なんらかの力が必要だとお考えだったようである。
これでようやく、昨夜の『汚名は返上』できたと、ほっと胸をなでおろすクレナイであった。