プロローグ・聖書の逸話「エントバラル」
チヨジは、共和国の中でも最大規模と言われる港街、モーイツ生まれの娘だ。
王国と定期船で結ばれたこの街で、誉れ高い商工会長の座を預かる父の名前はオートン。働き者の父は、若いころ田舎から人夫としてモーイツに出てきてほどなく頭角を現した。当時は、いつか南下ハルンまで出せる船主になろうと志を立てたものの、王国の有力者に見込まれ、貿易商人としての道を切り開く。
一緒に貿易会社をやろうと誘ったが、夢を捨てずにがんばったコイダリおじさんとは、それでもずっと付き合い続けた親友だ。当時同じ人夫であったが地道な努力を続け、船乗りの道に徹した彼は現在船舶管理委員会会長であり、今も週に何度も父と飲み歩いている。
他にも父が見出し、商工会メンバーと、ほとんどが管理委員会のメンバーで構成された船舶組合が推して当選した二代目の市長。二年前に就任したセイノチョも市街警備長タルーデとともに、毎週一度はわが家に遊びに来ていた。
だが、ほぼ一週間のあいだ、チヨジの家を尋ねてくる者はない。それどころか、母と一緒ににぎやかな市場へ買い物に行くことすらできなくなった。やっているのかどうかわからないが、初等教育機関へは、自分だけでなく弟妹たちも休み続けている。王国では聖堂で開催される読み書き教室というものだ。身分制度のない共和国では、どんな家の子でも男女とも四才から通うことが出来た。
父はあの日、すでに名前の挙がった者たちを含む街の有力者八名で行なわれていた、街年寄りの会合に出掛けた商工館から帰らない。代わりに巌のようなならず者三名が家に上がりこんで、自分たちを軟禁した。その後男たちの口から、船舶組合員や聖堂の若い司祭見習いが逆らったため、命を落としたと脅される。
コイダリ家の長男ナンパも組合で働き始めたので、ひどい目に遭ってはいないか心配でしかたがない。ナンパはチヨジと、来年の年明け祭りに、二人だけで出掛ける約束をしたところだった。
(でも、こんな状態では、『年明け祭り』なんてできないかも ───)
チヨジたちは母の計らいで、できる限りならず者の目に触れないよう、子供部屋一つに押し込まれている。
長姉である自分は、毎日二人の弟妹の勉強を見てあげたり、聖書を聞かせてやった。なかでも、二人が毎日一度は読んでほしがるお気に入りは、『バラルの箱船』だ。幼児向けの童話として『タイ焼きと急速接合糊』というタイトルが知られる物語。
毎日読まされるので、チヨジもすっかり覚えてしまい、今や夢に見るほどにもなっていた。
── ・ ── ・ ──
── それは神がまだ、回心の場所というものを作っておらず、地上が大きな二つの大陸に分かれていたころのお話です。
長らく、すべての聖霊が仕える大地神が、創造したのではない民の巣くってきた両大陸。魂の浄化を受けることのなかった民はあらゆる不逞に反省を持たず、年月を重ねるうちに、道徳を忘れた存在となっておりました。
その不道徳な民の行ないが地上の疲弊から、ひいては宇宙の不和を産み、天神様の力にかげりが見え始めるに至ったのです。
ついに、魂が輪廻の起点とする煉獄の前に魂へ、回心を促す別世界が設けられ、大地神は地上の魂を浄化する準備を整えました。
たとえ不道徳な存在であっても、そこで浄化された魂は清らかな人間として生まれ変わる。それも大陸とは切り離された、海の彼方『楽園』に再誕できるというのです。
そんな噂を耳にし、疲弊しつつある大陸に見切りをつけた、神をも恐れぬ、ふとどきな民の一部は黙っていません。彼らは、われ先にその楽園に向かおうと考えました。
でもなぜ民はそこまで熱狂したのでしょうか。それは、楽園において不老不死の祝福がすべての民に恵まれる、と云う噂が人々の口を伝う過程で加えられてしまったからかもしれません。
民はだれしも、泳ぎが不得手ではありませんが、大海のかなたにある未知の場所、『楽園』へたどり着くのは大航海。しかも数多の怪物が泳ぎまわり、大海に珍しい餌が泳いで来れば、残らず食いつくされてしまうのも知られておりました。
ただ海で働く民たちは、食べられない船に乗った者までを、怪物が襲って来ないとわかっていたのでしょう。大海も航行可能な大型の船を造れば、大勢の民が乗船し楽園へ乗り込める、と多くの者が考えます。
ですが二つの大陸には、それぞれに大きな船を造れない技術的な問題がありました。
まず船を焼き物で作っていた一つの大陸。その大陸には神から与えられた、焼けば頑丈で軽く水も吸わない、タイ粘土という良質の土がふんだんにあったのです。職人の手によって精密なものはできました。でも入れる窯の大きさが限られ、それほど大きな船は作りようがありません。
もう一つの大陸が、航海技術として持っていたのは、単に木々をつなげた『いかだ』。実は奇跡の錬金術で急速接合糊なるものを合成、丈夫な木々をくっつけて船としておりました。でも焼きものとは違って、いびつな自然物である、木々の間に間隙ができ、水が入ってしまうため巨大船は作れません。
そのうち両大陸で、それぞれの技術に通じた知恵ある者が、民同志力を合わせればうまくいくと言い始めたのでしょう。漁場の取り合いでギクシャクしていた代表が話し合った結果、お互い協力して楽園へこぎ出せる、大型船の建造を目指すまで関係改善がなされたのです。二つの大陸で、小さい船のままでも貿易は盛んになり、まずは接合糊とタイ粘土の物々交換が盛大に行なわれ始めました。
あるとき、そうして仲良くなった、賢明な民たちは気づきます。いままで別々に進化してきた文化を持つ、二つの大陸の民が力を合わせれば、地上の疲弊も克服できるかも知れない、という希望に。
なにより、地上の民たちすべてが仲良く暮らすことで、宇宙全体の不和の改善が伺われ、わずかでも戻り始めた天神様の力。このままならもはや、楽園を目指す必要はないとも思われました。
ですが、どこの世界にもならず者と呼ばれる者はいるものです。彼らは反省を嫌い、回心の場所を作ったといわれる、大地神の導きに従おうとはしません。二つの大陸、どちらにも棲む横暴な者たちはそれぞれ決起。そんな中にも神の怒りを買うことになると、最後までならず者たちに平和な共栄を唱える懸命な民もいました。でも彼らは一つの建物に閉じ込め、あるいは暴力でねじ伏せられたのです。
精密な焼き物で作られた板と、それを接合する強固な接合糊。手に入った両大陸の技術を結集、融合し、楽園へ向かう二隻の大型船が出来上がると、両大陸から船出の日が表明されました。ならず者たちは、船が完成すれば両大陸で培われた航海術を交換し、共謀して楽園を目指そうと打ち合わせていたに違いありません。
しかし、そのとき神は言われたのです。
「民は言葉が同じなため、このようなことを始めたのだ。人々の言語を乱し、通じない違う言葉を話させるようにしよう」
── と。
すぐにお互いの言うことが判らなくなったならず者たち。それでも港に集まったならず者の集団は、すべて船に乗り込みました。横暴な民はその手で楽園を支配することしか頭になかったのでしょう。大海原に向かって出帆、未知の大海に漕ぎだします。
二隻はまもなく、二つの大陸境海の中間地点で合流しますが、いずれも乱暴で不道徳な民。言葉の違いを発端に仲たがいとなり、ついには海の上で闘い始めることも避けられません。闘いは何人もの犠牲者を出します。海に沈んだ穢れた魂が、海底の神聖な炎に触れたとき、水中で炎は猛り狂い始め、そのあたり一帯の海は沸騰しました。
それを知った、お互いの技術に詳しい者から悲鳴が上がります。
「待て! 闘いを辞めろ、タイ粘土は熱い湯に触れると重くなって水に沈むぞ!」
「ダメだ! すぐに陸へ戻るんだ、急速接合糊は熱湯につけると固着力がなくなってしまう!」
しかし、彼らの言うことを他のだれもが理解できません。二隻の巨大船は解体して、バラバラになった残骸は海に沈んでいきます。
ついに大海原に放り出されたならず者たちは、残らず怪物に飲み込まれたのでした。
── ・ ── ・ ───
物語はここまでだ。だが教会で、神の教えを身につけた初等教育機関の教師は教えてくれる。
ならず者たちが船に乗る前に結集し、そこで異を唱えた者たちが閉じ込められた建物。それは平和を提唱する賢明な者たちが集い、手を取りあえる場所として、混乱の入り口と名付けられた。往々にして、その教えを踏襲した建築物は都市の創成期、モニュメント的に建築される。あるいは、教会の教えが後に導入された場合、都市の由緒ある建物にこの名前が付されることもあった。
それは無血革命をもって共和国が独立する以前、創世期より、帝国の支配を受けてきた土地柄である、モーイツにおいても同じ。現在父オートンが、ならず者の仲間によって監禁されているはずの、街に聳える由緒ある建物、商工館につけられた名前でもある。
ならず者たちはいつかエントバラルから海に繰り出し、神の怒りで海の藻屑と消えていくという身も蓋もない物語。これに弟妹が食いつくのも、そんなはかない望みを託していればこそのことなのだろう。
物語が終わると、三人は神に祈るのだった。
(聖書の物語のようにはいかなくても、どうか神様、ならず者たちをこの街から、海の向こうへ追い返してやってくださいませ ───)