満園という女
「あれって……誰?」
満園は目を細めて八重葉を確認する。しかし目が悪いせいで、誰かを特定する事が出来ないでいた。
「ね、ねえ、あれ誰だか分かる?」
「わ、私も見えないのよ……」
満園が問うが、三澤もまた然り。二人して必死に目を凝らすが、一切そこにはピントが合わずにいた。
しかし八重葉はと言うと、
「あんたのせいで……見られちゃったじゃないのよ! この! この!」
すっかり気を失っている山之内を、何度も何度も踏みつけた。
「ダブルクローバ、案外セーフかもしれません」
ペットはスカートから取り出した双眼鏡で、満園と三澤をチェックしている。ペットが見たその二人の表情は、目を凝らしてこちらを伺うものだった。
ペットは更に続ける。
「あの二人、目が悪いらしく、こちらを見てはいますがサッパリ分かっていない様子です」
「それは助かったわ。満園さんに見られたら、“ケンリョク”とやらで体育祭にすら出させてもらえなくなりそうだもんね」
八重葉がそう言うと、ペットは八重葉をジーッと見つめた。
「……何よ」
八重葉は不機嫌そうに、眉間にシワを寄せる。
「体育祭、出たくなかったのでは?」
「初恋を吸う為よ!」
八重葉がムキになる様を見てペットは「はい」と小さく頷き、微かに笑った。
八重葉が満園たちの方をもう一度見ると、由里子が二人を解放しに行っているのが見えた。そばにいた須藤も、いつの間にかどこかへ行ってしまったらしい。
セレブのお二人様は、相変わらず八重葉を指さして由里子に何やら言っている。
きっと私が誰なんだって聞いてるんだろうな。八重葉は思った。
狐のお面を拾い上げると、八重葉は帰路に着いた。
翌朝、八重葉は布団からなかなか体を起こせずにいた。何だかいつもより眠いのだ。通常であれば起きてすぐは、目がパッチリと覚め、夜になるまでは全く眠気は来ないのだが、この日だけは違った。理由は八重葉も分からない。
食卓のテーブルに着くと、八重葉は左手首の数字が目に入った。「ムムッ」と、寝癖のまま、ムキになってその数字を擦る。しかし手首が赤くなるだけで、数字は一向に消えない。
格闘するその数字は、「ー2」。先日の表示より、1つ下がっている。この数字の意味するころは全く分からないが、その答えはすんなりと分かる事となった。
「何なのよこれは!」
「……何でしょうね。数字が下がっていますね。……あ、もしかして」
ペットが半開きの目のままそう言うと、スカートから、A4サイズが二つ折りになった厚紙の様な物を取り出した。そしてそれを広げ、「やっぱり」と呟いた。
「それなーに?」
八重葉が目を丸くしてそれを覗き込む。
「修行の評価記録簿です。ダブルクローバの行動の加減点がこちらにリアルタイムで表記されます。項目によって細かく分けられてはいますが、そちらの手首の数字は、この総合点と同じようですね」
「記録簿って……そんなのあったなんて聞いてないんですけど!」
八重葉が声を荒らげると、ペットは困った表情を浮かべた。
「あらあら、それはいけませんね。記録簿の存在を修行者へ事前に知らせるよう、私から幹部へ言っておきますね」
「あんたに言ってんのよ……。てかさ、何で評価がどんどんマイナスになっていってるのよ。私何も問題起こしてないじゃない」
ペットは記録簿へ視線を落とし、目を細めた。
「トイレの破壊、他校生徒とのトラブル……とありますね」
八重葉はそれを聞き、憤慨した。
トイレの破壊は由里子を守る為にやった事だし、後者においてもケンカをしている仲間と、満園らを助ける為にやった事なのだと。それを聞くやペットはこう返した。
「ダブルクローバが頑なに二人三脚の為だと言っていたので、誰かを助けた評価とはならず、結局は利己的な行動だと取られてしまったのでしょう。ま、これからプラスへ上げていきましょう」
そして記録簿をポムッ、と閉じた。
「何だか納得いかないわね……」
八重葉は口をへの字に曲げ、鼻から息をフンっと出しつつ腕組をした。
「ダブルクローバの気持ちも分かりますが、気持ちを切り替えるしかありません。……あ、ちなみに、ー5ポイントになると強制永住が決まりますので気をつけて下さい。書いてありました」
「はぁ?! そんなの聞いてないんですけど!」
「あらあら、それはいけませーー」
「あんたに言ってんのよ!」
またしても怒鳴られると、ペットは静かに目を瞑り、食卓のテーブルに置かれたトマトジュースを一気に飲み干した。ケプっと小さくおくびをもらす。
先日の騒動の後、八重葉がスーパーで血と間違えて買い占めた物だ。棚に並んでいた物を買い占めた為、現在冷蔵庫はこのトマトジュースで埋まっている。
人間界に降りてからは何も食べていなかったペット。彼女の空腹もいよいよ限界となった昨晩は、このトマトジュースを喜び勇んで飲んだが、途端に八重葉の顔へと吹き出してしまった。
八重葉も「この血そんなに不味いの?」と味見をしてみたが、こちらも「腐ってるぅ!」と、ペットの顔へと吹き出してしまった。
その後結局腐っていないと言う事と、飲めるようにした野菜だという事が分かったが、何とも味が受け付けない。
八重葉曰く、味は違うくせに口当たりと喉越しが血液に似ているせいで、かえって飲みにくい。との事。
どうあれ、支給されている分のお金は、殆どをこのトマトジュースへつぎ込んでしまったせいで、これを消費する他空腹を満たす術は残されていない。チョコミントを買うお金を残してはいるが、ペットへは伝えていない。
八重葉も思い切り目を瞑り、トマトジュースを一気に呷った。
顔を真っ青にした八重葉とペットは、這う様にして教室へと入った。トマトジュースの飲み過ぎで気分を悪くした事と、もう一つ、「血を吸えていないので、貧血気味になっているのでしょう」との事。
血を吸えていないだけで貧血になるという、そんな吸血鬼の単純な造りに八重葉は怒りを覚えたが、頭に登る分の血液の量が足りずにイライラはしなかった。が、これがかえって、彼女をイラつかせ……ようとしたが、やはり血液が足りずに気分は穏やかなままであった。
「おいおい、大丈夫かよ八重葉!」
四つん這いで教室に入った八重葉を見て、由里子が驚いて駆け寄った。
「あ、ああ、由里子? 血が吸えてなくてフラフラよ。貧血気味みたい。朝も起きれなかったから、低血圧になってるっぽい」
「吸血鬼ってそんな単純な造りなのかよ」
「……」
八重葉は何を言われても、もう何も感じない。
その後授業が始まる前に、由里子に連れられて保健室へと向かった。肩を担ぐ由里子に「お前、何だか妙に重いな」と言われたが、これはペットのせいであった。由里子に連れられる八重葉の片足にペットが掴まっており、そのままズルズルと引きずられていたのだ。
由里子は、保健室のベッドにドサッと八重葉を投げた。
「ま、ここでしばらくゆっくりしてろ。気分良くなったら戻ってくるといいから」
「血吸わなきゃ気分良くなんないよ。由里子、ちょっと吸わせて……」
「はあ?! 嫌だよ、怖いじゃん!」
「大丈夫大丈夫、ちょっとチクってするだけだから。少しでいいから、ね」
「……じゃ、じゃあちょっとだけだからな」
由里子はそう言うと、首筋を差し出した。そこにカプっと噛み付く八重葉。
「いただきまー……まずっ!」
八重葉はすぐに口を離して、窓から顔を出すとぺっぺっと唾を吐き出した。
「一体何食べたらそんなに不味い血になるのよ!」
「血吸っといて失礼なやつだな! 手料理を不味いって言われてる気分だぜまったく。もう私は教室戻るから、じゃあな」
由里子は首筋を押さえつつ保健室を後にした。
残された八重葉と、床に野垂れるペット。今ばかりはトマトジュースでもいいから飲みたい。そう頭に過る。
もう誰でもいいから、血を吸いたい……。
……ん、誰でも?
八重葉は仰向けのまま、自分の腕を見つめた。
「……」
そしてその腕に噛み付いた。
カプっ。
……。
「まっずぅ!!」
またしても唾を吐く八重葉。そして思う。一体何を食べたらこんなに不味くなるのだろう、と。何よりも、由里子の血よりも不味く泥味があった事が許せなかった。もっとも、許せないだけであって、言わずもがな頭にはきていない。
八重葉は仕方なく、自分の血をそのまま飲み続けてみた。
お、
おおお?!
嘘の様に気分が回復していく。ただ単に、血を胃袋に入れて吸収すれば良かっただけらしい。
気分が優れた八重葉は、ベッドから起き上がった。が、若干ふらつく。結局自分の血を吸っているので、貧血は治まっていないらしい。吸血鬼の体の仕組みなんて分からないけど、とにかく血を吸う行為自体が大切のようだ。八重葉はペットにそれを教えると、ペットもすぐに立ち上がった。
「我々吸血鬼は、そんなにも単純な造りなのでしょうか?」
教室へ戻る道すがら、ペットはスカートから取り出した医学書の様な物を眺めていた。
八重葉が教室へ着くと、一限目を知らせるチャイムが鳴った。
先生に頭を下げつつ席に着く八重葉。すると由里子がコソコソと声を掛けてきた。
「おい、もう大丈夫なのかよ? まだ十分くらいしか経ってねえぞ」
「大丈夫! 自分の血吸ったから!」
親指を立てて見せる八重葉。それを見て、由里子は「自分のぉ?」と訝しげな表情を浮かべた。
一限目が終わると、満園が声を掛けてきた。
「九家月さん、昨日はありがと」
「っ!?」
八重葉は「まさか昨日のケンカの事か!」と驚いて言葉も出なかったが、満園は続ける。
「素暴さんが言ってたの、『八重葉が来てくれなかったらやばかった』って」
やっぱり昨日の事だ! 何喋ってくれてんのよぉー! 八重葉は噛み締める様に由里子へ訴えかけた。すると由里子はその訴えに気付いて八重葉を見る。が、目を丸くしており、その頭上にはいくつも「?」が浮かんでいる。
「何だ八重葉、何言ってんのか全然わかんねーよ」
……こいつはダメだ。八重葉は諦めた。
「あの、満園さん、よく聞いて」
八重葉は姿勢を正した。
「昨日の件は私は知らないの。私は学校が終わったらすぐに帰ったし、帰ってからはトマトジュースしか飲んでいないの」
「トマト?」
満園と由里子は互いに首を傾げた。
「昨日のあれがお前じゃなきゃ、あれは一体誰なんだよ」
「だーかーらー! 何であんたが騙されてんのよ!」八重葉は満園には見えないように、由里子へ口だけを動かしてそう言ってみせる。
「ああ?」
尚も理解出来ていない由里子。八重葉は痺れを切らして、由里子の胸ぐらを掴んでグイッと寄せると、耳打ちをした。
「私がバカみたいに強いって事と、吸血鬼ってのがバレたら二人三脚出られなくなっちゃうかもしれないじゃない!」
「別に大丈夫だろ、昨日はトイレの壁もぶち抜いてないし、人並みの力しか出してないだろ」
「山之内ってやつの攻撃を弾き飛ばしたじゃないのよ!」
「……そうだったな、なんならお前の動き、弾くとこまで見えなかったからな」
そこまでコソコソと会話をすると、二人は所定の位置に着いた。そして由里子が切り出す。
「あ、ああ! 思い出したけど、昨日は八重葉じゃなくて私の空手仲間が来てくれたんだ!」
演技臭い言い回しに反吐が出るわね。八重葉は思ったが、そのまま自分も便乗する。
「そ、そうよ! 私何の事だかサッパリダモーン! HAHAHA!!」
「……」
由里子の演技よりも酷い八重葉の演技に、一同は目を丸くした。そして満園は「フフッ」と吹き出した。
「可笑しな二人。なーんだ、九家月さんじゃなかったのか。昨日は本当に殺されるって思ったから、パパに言って感謝状でもって思ってたんだけど」
満園はそのまま「人違いでごめんね」と席へと戻っていった。
「あぶなー! 由里子気を付けてよ、二人三脚は絶対なんだから」
「悪い悪い、うっかり喋っちゃったわ」
ーー キーンコーンカーンコーン
放課後、八重葉と由里子は二人三脚の練習の為職員室で紐を借り、二人でグラウンドへと向かっていた。
「あれ」
自分の下駄箱を開け、何かに気付く八重葉。由里子はそちらを覗き込む。
「お、何だ? 何か入ってるな。手紙、か?」
下駄箱の中には花柄のあしらわれた可愛いレターセットが入っていた。八重葉は取り出してそれを見つめる。そこには「感謝状」とだけ記されている。
「……何これ?」
「……お前手紙を知らないのかよ。中にお前に向けた事が書かれてる筈だから、開けて見てみ」
八重葉はそれを開けて中を確認する。そこにはこれだけ書かれてあった。
ーー 昨日はありがとう。
満園美和ーー
「……え、バレてたのかな?」
八重葉がそう言うと、由里子は微笑んだ。
「さあな、でもまあ“そういう事”なんじゃねぇの! あいつも粋な事するねえ!」
由里子はどこか嬉しそうにグラウンドへ出ていった。
八重葉はその感謝状へもう一度目を戻す。
「……しかしあの時のビンタは痛かったなぁ。
……ありがとう。か、フフ」
嬉しさで頬が緩んだ。
ーー続く