わたしと庄司くんがキスをするまで 後編
庄司くんが海外へ行ってしまうかもという話は、どうやら本当みたいだった。
それを相談するために職員室にいたり、昨日わたしが傘を返そうとした時も、女の子と帰ったわけではなくて先生と話をしていたらしい。
学校を休んだ日も、両親ともめたり、話し合いをしたりしていたと聞いた。
「なにそれ? マジで?」
佐奈にそれを話すと驚いた顔をしていた。
庄司くんはクラスの誰にも、まだ話していないようだった。
「学校辞めるって、卒業まであと一年じゃん? なのに、ついて行かなきゃいけないの?」
「一人暮らしは親が許してくれないんだって」
「えー?」
「頼れるような親戚も近くにいないし、仕方ないかもって言ってた」
そう言ってわたしはため息をつく。今日は朝から何回ため息をついたんだろう。
そんなわたしを見て、佐奈が言う。
「じゃあ、あんたんちに呼んじゃえば?」
「は?」
「ほら、あんたのお兄ちゃん、東京に行っちゃったでしょ? 部屋ひとつ空いてるし。あんたの家から学校通えばいいじゃん」
「な、なに言ってんの! ありえないでしょ! そんなの!」
思わず声を上げてしまった。
佐奈はにやにやと笑っている。
できるわけない、そんなこと。現実的にありえない。
それ以前にそんなこと、庄司くんが嫌がるに決まってる。
昨日。教室でプリントを折り終わったあと、わたしたちは何となく一緒に学校を出た。
この前の雨の日とは違って、やわらかな夕陽が校舎や校庭やわたしたちを包んでいて、吹く風は春を感じるようなあたたかさだった。
庄司くんはわたしに遠慮するように、少し距離をあけて歩きながら「ひとつだけ言い訳させて」と言って話し始めた。
それは庄司くんなりの「キスの持論」というものらしい。
「おれの中でキスは二種類あって……」
わたしは真面目に、庄司くんの声に耳を傾ける。
「ひとつはやっぱり挨拶みたいなもんで。おはようとかありがとうとかバイバイとか。そういう意味」
わたしは庄司くんの隣で曖昧にうなずく。
「で、もうひとつのキスは……おれもまだしてなくて……」
「まだしてない?」
ちらりと隣を歩く庄司くんを見る。庄司くんは前を見たまま言う。
「もうひとつは……好きな子とするキスだから」
急に恥ずかしさがこみ上げてきて、あわてて庄司くんから目をそらす。
「す、好きな子とは……まだキスしてないってこと?」
「そう。そっちは特別だから。まだしてないよ」
「そ、そっか」
わかったようなわからないような気持ちで答えた。そしてなぜわたしが庄司くんとこんな話をしているのか不思議になった。
そのまま駅まで歩いて、改札を抜けて別れた。わたしと庄司くんは反対方向の電車に乗るから。
階段をのぼってホームに出たら、向かいのホームに庄司くんが立っていた。
庄司くんは何も言わずにわたしのことを見ていて、わたしはまた恥ずかしくなった。
すぐにホームに電車が来て、庄司くんの姿は見えなくなった。
「あー、庄司来たー」
「お前、もう昼だぞ? 何しに来た?」
静かだった空気がざわりと揺れて、わたしは顔を上げた。
大遅刻で教室に入ってきた庄司くんが、男子にからまれながら、いつもみたいににこにこ笑っている。
「委員長に会いに来たんじゃないのぉ?」
佐奈がにやにや笑ってわたしに言う。
「まさか。そんなのあるわけないじゃん」
さりげなく佐奈から目をそらしたら、なぜか庄司くんと目が合ってしまい、あわててまた視線をそらした。
その日はなぜだか落ち着かなかった。
どこかそわそわして、午後の授業は頭に入らないし、気がつくと窓際の席を見てしまう。
ぼんやりと教科書を眺めている庄司くんの横顔。
なんだ? おかしい。わたし、庄司くんばかり見てる。
放課後、わたしが帰る支度をしていたら、卒業式の実行委員長がうちのクラスに来て言った。
「三組の実行委員の人ー? できあがったプリント、会議室に運んでおいてー」
わたしは席を立って、その人に伝える。
「あ、うちの委員さん、もう部活行っちゃって」
「じゃあ悪いけど、誰かに運んでもらって」
実行委員長はそれだけ言うと、忙しそうに行ってしまった。
仕方ない。わたしが運ぼう。
教室の中にはまだ何人かの生徒がいたけど、みんなそれぞれおしゃべりをしたり、部活へ行く準備をしている。
わたしは黒板の前に置いてあった、プリントの入った段ボール箱を持ち上げようとした。
んんっ、けっこう重い……。
そう思った瞬間、ふわりと箱が軽くなる。
「おれが運んでおくよ」
顔を上げると目の前に庄司くんがいた。庄司くんはわたしから箱を奪うと、すたすたと歩いて教室を出て行った。
「あ、ちょっと待って……」
庄司くんを追いかけながら、おかしいほど心臓がドキドキしているのに気がついた。
「ごめん。でもわたし持てるから大丈夫だよ? これでも力あるんだ」
庄司くんに追いついて、その隣を歩く。
「いやコレ、力がある女の子でも重いから。こういうのは男子に頼んだほうがいい。全部自分でやろうとしないで」
「でもそれがわたしの仕事だから」
ちらりと庄司くんがわたしを見る。そして前を向いていつものように笑った。
「ほんと、委員長は委員長なんだよなぁ……」
「なにそれ。意味わかんない」
おかしそうに笑った後、庄司くんはもう一度わたしを見て言った。
「たまには岡崎真結に戻ったら? そんでもう少しわがまま言ったら? いつも頑張ってるんだから、それくらい許されるでしょ?」
久しぶりに学校で自分の名前を聞いた気がする。だってみんな「委員長」って呼ぶし。
それに庄司くんがわたしの名前を知っていることに少し驚いた。
顔が赤くなるのを隠して早足で歩く。会議室のドアを開いて庄司くんを待つ。
庄司くんは「ありがと」と言って部屋に入って、机の上に段ボールを置いた。
「ごめん。重かった?」
「だから大丈夫だって。これでも一応男だから」
ははっと笑った庄司くんを見る。
誰もいない部屋。窓の外から運動部の声がかすかに聞こえる。
「あ、あの……昨日の話なんだけど」
わたしは思い切って庄司くんに聞いた。
「ほんとに行っちゃうの?」
笑うのをやめた庄司くんがわたしを見る。頬を夕陽の色に染めて。
「な、なんとかならないのかな? 卒業まであと一年なんだし。せっかく入った高校辞めちゃうなんてもったいないし」
庄司くんは何も言わない。わたしはさっきの佐奈の言葉を思い出し、それを思わず口にする。
「一人暮らしが駄目なら、うちに来てもいいよ? お兄ちゃんの部屋が空いてるんだ。タダじゃ気が引けるって言うなら、下宿代ちょっともらうし。一人暮らしより安心で、うちのお母さんの食事付きだよ?」
一気にそこまで言ってめちゃくちゃ後悔した。何を言ってるんだ、わたしは。
庄司くんはわたしの前で目を見開いて、ぽかんとした表情をしている。
「そ、それは無理として……でもどうにかならない?」
「ほんとうはおれも……行きたくはないんだけど」
庄司くんがつぶやいて、今度はうつむいてしまった。見たこともないような、つらそうな顔をして。
そんな顔を見ていたら、どうしようもない想いがこみあげてきて、止まらなくなった。
「わたしも行ってほしくない」
ゆっくりと顔を上げた庄司くんがわたしを見る。
「行ってほしくない。ここにいてほしい。庄司くんと離れたくない」
「委員長……」
頬が熱くなる。声が震える。自分勝手なわがまま言ってるってわかってる。
だけどこれがわたしの、いまの素直な気持ちだから……。
震えながら手を伸ばし、庄司くんの袖口をつかむ。
泣きそうになるのをこらえ、声を振り絞るようにつぶやく。
「行っちゃ……やだよ」
授業中も、休み時間も、放課後も……ずっと庄司くんの姿を目で追っていたこと。ほんとうは自分でも気づいてた。
それからあとの行動は、きっとわたしじゃなかった。
普段のわたしだったら絶対あんなことはしない。しないはずなのに……あの日のわたしは、自分でもよくわからない謎の生物だったんだろう。
少し背伸びをして、ぎゅっと目をつぶり、庄司くんの唇にキスをした。
ふわっと触れたその感触に、どうしたらいいのかわからなくなって、すぐに離した。
恐る恐る顔を上げると、庄司くんはかわいそうなくらい真っ赤な顔をしてわたしを見ていた。
「今の……挨拶なんかじゃないから」
もういい。どうにでもなれ。
「もうひとつの、ほうだから」
わたしの声に、ずっと黙っていた庄司くんが嬉しそうに笑った。




