わたしと庄司くんがキスをするまで 中編
次の日雨は止んだけれど、庄司くんは学校を休んだ。その次の日も。
……また明日って言ったのに。
わたしは鞄の中に入っている庄司くんから借りた傘を、何度も見ながら心配になる。
風邪でもひいたのだろうか? 庄司くん、雨の中濡れて帰ったから。
だけどわたしの心配をよそに、次の日庄司くんはケロッとした顔で登校してきた。
具合が悪かったわけではないらしい。なにやら家の都合だとかなんとか話しているのが聞こえた。
そしてその日わたしは、朝から庄司くんに傘を返すチャンスをうかがっていた。
だけどなかなかタイミングがつかめなくて、結局放課後になってしまった。
授業が終わり、教室を出て行く庄司くんを見つけた。
わたしは傘を取り出し、急いで追いかける。
「庄司く……」
名前を呼びかけて口を閉じた。廊下で女の子が庄司くんに声をかけて、何か話している。そしてそのまま並んで歩き出し、廊下の向こうへ消えていった。
わたしは小さくため息をつく。そして黒い傘をぎゅっと握りしめる。
何やってるんだ。何やってるんだ、わたし。
いつの間にか庄司くんに振りまわされている自分に嫌気が差して、傘を持ったまま教室へ戻った。
するとクラスの女の子がわたしに声をかけてきた。もうすぐ行われる卒業式の実行委員の子だ。三年生を送るために、わたしたち二年生がいろいろ準備している。
「ごめん、委員長。今日何か用事ある?」
「え、別にないけど」
「お願いがあるんだ。あたしこのあと部活のミーティングがあって……でもこれ、明日までに終わらせなくちゃなんないの」
彼女が印刷してきたプリントには、卒業式で歌う曲の歌詞が書かれていた。それをすべて半分に折る仕事が残っているのだという。
「いいよ。わたしやっとくよ」
「ほんとに! たすかる。ありがとう!」
こういうことはよくあることだった。学級委員は実行委員と協力して、いろいろな行事をこなしていかなければならない。
貧乏くじ引かされている気がしないでもないけど、密かに誰かのためになるのなら、このくらい簡単なことだ。
ひと気の少なくなった教室で、席に座ってプリントを折り始めた。
量は多いけれど、どうせ家に帰ってもやることないし、のんびりやるか。
そんなことを考えながら、黙々と紙を折る。いつの間にか教室内には誰もいなくなり、窓からは夕陽が差し込んできた。
こういう静かな教室が実は好きだ。こういう地味な作業もけっこう好き。
その時いきなり教室のドアが開いた。
少し驚いて顔を上げると、真っ直ぐこちらへ向かってきたその人が、わたしの前の席に座った。
「庄司くん? なんで?」
「なんかさっき、委員長に呼ばれたような気がしたから」
庄司くんはそう言ってわたしに笑いかけると「これひとりでやるつもり?」なんて言いながら、プリントを半分に折り始めた。
わたしはしばらくぼんやりと、庄司くんの指先を見つめていた。けれどハッと思い出して、自分の鞄の上に置いてあった傘を手に取った。
「庄司くん。これ」
庄司くんが顔を上げる。
「ありがと。すごく……助かった」
折りたたみ傘を差し出すと、庄司くんはそれを受け取ってわたしに笑いかけた。
「どういたしまして」
わたしはあの日のことを思い出して恥ずかしくなる。あの日、庄司くんの前で泣いてしまったことだ。
傘を自分の鞄へしまうと、庄司くんは黙ってまた作業を始めた。
「あの……手伝ってくれるの?」
「うん。だってこんなにたくさん、ひとりじゃ大変だよ。みんな見てみぬふりしてひどいよな。てかおれもずっと、委員長に任せっきりだったけど」
ちらりとわたしのことを見て、庄司くんが言う。
「ごめん。今までもわかってたのに、手伝ってあげなくて」
机を挟んで向かい合う、庄司くんとわたしの距離は近い。
どうしたらいいのかわからなくなって、わたしも黙ってプリントを折った。
夕焼け色の静かな教室で、わたしと庄司くんはただ黙々とそれを続ける。
「委員長はさ、おれのこと怒ってるよな?」
突然庄司くんの声が響いた。
「え?」
「おれのこと、ムカついてるだろ?」
顔を上げて庄司くんを見る。庄司くんも手を止めて、わたしのことを見ている。少し真面目な表情で。
「別にムカついてないよ?」
「嘘だ。おれのことなんか嫌いだろ? おれとのキス、全力で拒否したし……」
「そ、それは……別に嫌いなわけじゃなくて……」
「それにおれの前で……泣いたし」
言葉に詰まった。わたしがあの時、泣けてきたのは……。
庄司くんが黙ってしまった。わたしも黙ってしまった。
ふたりでしばらく黙り込んだあと、また庄司くんが口を開いた。
「おれさ、小六まで海外に住んでたんだけど」
「えっ?」
思わず顔を上げて庄司くんを見る。
聞いてない。そんな話聞いたことない。
でもそう言われれば、やけに英語の発音がよかったような気がする。
「ちょっと待って! 庄司くんって帰国子女だったの?」
「そんなカッコイイもんじゃないよ」
「だからキスは挨拶みたいなもんとか、そんなこと言ってたの?」
「まぁ、そういう環境で育ったからね。それにうちの両親、息子の前でも平気でベタベタちゅーちゅーしてるし。だからそういうのに抵抗ないっていうか」
庄司くんは確かめるようにわたしを見て、それから言った。
「でもそれって、ちょっと普通じゃないのかもって最近気づいた」
確かに庄司くんは普通とは違う。わたしにとっては理解できない人間だ。
だけど庄司くんが生きてきた環境の中で、それが普通のことならば、わたしがとやかく言うことではない。
「おれとキスしてた女の子たちも、わかってたんだろうな。おれがちょっとおかしいこと。だから面白半分で『キスして』なんて言ってきて。おれも軽い気持ちでしてたけど」
少し笑った庄司くんがわたしの顔を見て言う。
「でもおれ、嫌がる子にはしなかったよ?」
うん。わたしにはしなかった。
クラスの女の子とはしたのに。隣のクラスの子ともしたのに。野球部で坊主頭の山田ともしたのに。
――するわけないじゃん、委員長とは。
だけどわたしとはしなかった。わたしが嫌がっていたから。
また涙が出そうになって、あわてて庄司くんから顔をそむける。
「あー、ごめん! やっぱり委員長、こんなおれのこと嫌いだよな? でもおれ、もうすぐここからいなくなるから……だから許して!」
「え?」
わけがわからなくて思わず庄司くんを見る。
庄司くんは最後の一枚を半分に折ると、それをわたしに差し出しながら言った。
「たぶんおれ、学校辞めて海外に行く」
「な、なにっ? 意味わかんない」
庄司くんは少し笑って、わたしの手に無理やりプリントを渡す。
庄司くんの指先とわたしの指先が、ほんの一瞬だけ触れ合う。
「おれの父親、また海外赴任になってさ。ほらうちの両親ラブラブだから、母さんも絶対ついて行くって。そんで自動的にお前も一緒に来いって。息子の都合なんか全然考えてないんだから、うちの親」
「い、行くの? 庄司くんも……」
庄司くんはなにも答えなかった。答えないでただわたしを見て、そしてちょっと寂しそうに笑った。