わたしと庄司くんがキスをするまで 前編
渡り廊下の真ん中で固まった。
わたしの行き先は、ふたりの人間にふさがれている。
……マジかよ。
この時間この場所を、偶然通りかかってしまったことに激しく後悔する。
くるりと回れ右をして元の校舎へ戻ろうとした時、わたしの背中に声がかかった。
「あっ、ごめん。どうぞ?」
もう一度振り返り、声のする方向を見る。
いたずらっぽく肩をすくめている女子生徒の隣で、にこにこと笑っている男子生徒。
「どうぞ? 通ってください、委員長」
「あのね、庄司くん」
こほんとひとつ咳払いしたつもりが、ごほごほとむせてしまい、ちょっと笑った女の子は「じゃあね」と一言残して去ってしまった。
「大丈夫? 委員長」
「だ、大丈夫。てか、あの子いいの?」
「あー、いいの、いいの。お別れのキスしてただけだから」
またむせてしまいそうになり、それを必死にこらえる。
「あ、あのね、庄司くん」
「はい? なんでしょう」
「ここ学校だよ。しかもここ渡り廊下だし。そういう公共の場で、そういうこと普通しないでしょう?」
「そういうことって? キス?」
自分の頬が熱くなるのを感じたけれど、当の本人は全く悪びれた様子もない。
「付き合ってもいない子と、よくそういうことできるよね?」
「ああ。でも口にしてたわけじゃないよ? それにおれにとってはアレ、挨拶みたいなもんだし。『また明日』みたいな」
挨拶って……あんたは外国人ですか?
「委員長もする? おれと」
「けっこうです!」
ふざけんな! バカ、バカ、バカ!
心の中で叫びながら、その場を早足で通り過ぎる。
けれど両足の動きが、妙にぎこちないのが自分でわかる。
「委員長」
そんなわたしの背中にかかる声。
「また明日」
ゆっくり振り返ると、夕陽を浴びた彼の背中が、校舎の中へ消えていくところだった。
高二から同じクラスになった庄司くんは、キスが好きらしい。
クラスの女子の頬やおでこにちゅっとしたりして、キャーキャー言われている。
それはたぶん良い意味で。だって庄司くんは顔がイイ。だからすごくモテる。それなのに彼女はいない。
「お前っ、バカ! 寄るな! キモい!」
でも時々男子にまでキスしようとして、ヘンタイ扱いされている。
だけど友達は多い。きっと性格がイイんだろう。キス魔なところをのぞけば。
「気になる?」
お弁当を広げながらぼうっと窓際のほうを見ていたら、その視線を遮るように親友の佐奈が現れて言った。
「気になるって、何が?」
「庄司のこと」
佐奈はにやにや笑ってわたしの前に座り、ちらりと窓際の席を見る。何気なくわたしも視線を追うと、そこには男子とふざけ合っている庄司くんの姿。
どうせまた男子にキスをせまって、嫌がられているんだろう。
「まあ少しはね。わたしにとってあの人は、全く理解できない生物だから」
「ははっ。あんた昔から謎の生物観察するの好きだったもんね」
幼稚園からの幼なじみでもある佐奈は、そう言って笑ったあと、良いことでも思いついたように言った。
「じゃあさ、あんたも庄司とキスしてみれば?」
「は?」
「そうすれば理解できるかもしれないよ? あの生物のことが」
「あんたの言ってることも理解不能だわ」
佐奈がおかしそうに、けらけらと笑う。わたしは弁当のふたを開けながら、もう一度窓際を見る。
するとなぜかこちらを見ている庄司くんと目が合って、わたしはあわてて目をそらした。
それからも庄司くんは、同じクラスの女の子とよくちゅっちゅしていた。教室でも廊下でも帰り道でも堂々と。
それは一見、見境ないようにも見えるけど、だいたいキスする子は決まっていた。
明るくてちょっと派手でノリが良くて、庄司くんのキスも笑って受け入れてくれるような子。
わたしみたいに、彼の行動を理解できない堅物な人間に、そんなことはしない。
けれど同じ教室内でそういうことをされると、目のやり場に困るのだ。
周りのみんなは、もうそれが当たり前のようになってしまって、特に騒ぐ人もいないけど。
それとももしかして、彼は病気だからしょうがないと、あきらめられているのかもしれない。
その日は職員室の片隅で先生の手伝いをしていて、帰るのが遅くなった。
学級委員長なんてずいぶん偉そうな肩書だけど、やっていることはただの雑用係だ。
佐奈から「この子は真面目だけが取り柄だから」なんてクラスのみんなに推薦されて、こんな役をやる羽目になった。
まぁ確かに真面目なことくらいしか取り柄がないし、他にやりたい人もいないようだから、わたしがやるしかないのだろう。
昇降口で靴に履き替え外へ出ると、雨が降っていた。
しまった。わたしとしたことが傘を忘れてしまった。
今朝の天気予報で、午後から雨になると言っていたのに。傘を忘れてしまった自分が情けなくて嫌になる。
佐奈も帰ってしまったし、校舎の中は薄暗く静まり返っていた。
仕方ない。駅まで走って帰るか。
そう決心した時、わたしの背中に聞き慣れた声がかかった。
「委員長」
心臓がドキンと鳴る。なぜか胸の奥が騒ぎ出す。それを隠すように、平然とした顔で後ろを振り向く。
「庄司くん? どうしたの?」
部活をやっていない庄司くんは、授業が終わるといつもさっさと帰るはずなのに。
「おれも職員室にいたんだけど」
職員室に?
学校内でキスしていたところでも見つかって、注意されたのかな?
「委員長はえらいね。人の嫌がるようなこと、文句も言わずにやって」
「仕事だから」
そっけなく言って顔をそむける。わたしと庄司くんの前で、雨がしとしとと降り続く。
気がつくと、腕と腕が触れ合いそうな距離に庄司くんがいた。その気配に、なぜか胸がドキドキする。
ああ、早くどこかへ行ってくれないかな……そう思ったわたしの前に、黒い傘が開かれる。
「委員長。入りなよ」
「え?」
折りたたみ傘を開いた庄司くんが、わたしを見てにこにこしている。
「い、いいよ」
「なんで? 駅までどうせ一緒だし」
すっと伸びた手が、わたしに傘を差しかける。
近い。向き合ったわたしと庄司くんの距離は、息がかかりそうなくらいすごく近い。
「や、やだっ!」
目の前に伸びた手を思わず振り払った。ころんと足もとに庄司くんの傘が転がる。
「わたしにキスしようとしてるでしょう!」
「は?」
「わたしを傘の中に入れて、そ、それで、わたしにキ、キスしようと……」
そこまで言って我に返った。わたしは何を言っているんだろう。頭がのぼせたように熱くなる。
そんなわたしの前で、庄司くんが声を立てて笑った。
「ははっ、なに言ってんの? するわけないじゃん、委員長とは」
何だろう。その瞬間、冷たい雨の中に突き飛ばされた気になった。
「……委員長?」
ぽたぽたと落ちる雨の音に混じって、庄司くんの戸惑うような声が聞こえる。
庄司くんの行動は意味不明だけど、今のわたしはもっと意味不明だ。
だってわたしは……庄司くんの前で泣いていたから。
「あ、あの……委員長?」
庄司くんは困っていた。こういう時、他の女の子にはどうするんだろう。
慰めのキスを、してあげたりするんだろうか。
「ごめん。なんでもない。帰る」
自分で自分がわからなくて、わたしは逃げるように雨の中を駆けだした。
「あ、待って!」
けれどわたしはすぐに庄司くんに追いつかれて、腕をつかまれた。
「これっ、嫌じゃなかったら使って!」
「え……」
「じゃあ! また明日!」
庄司くんが雨の中を走って行く。わたしの手に黒い傘を握らせて。
わたしはそんな庄司くんの背中を、ただ呆然と見送っていた。