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準備

 外へ行こうと考える時に襲われる言いようのない恐怖は、壁に触れようとした時に感じたものに似ていた。しかしはるかに強く、ベルの心を竦ませた。

 その晩、倉庫から帰ってきたコリンにベルは開口一番、聞いた。

「外へ、行くの?」

 コリンはハッとした表情を見せた。

「ファニエから聞いたの」

「そう…」

 コリンはいつもの溌剌さに欠ける返事を寄越した。言葉を選んでいるのだろう、ベルから視線を外し、スヤスヤと眠るアネラのベッドの上で止める。

「倉庫番をしている父に、話をしてきた。僕が外へ行ってる間、店に戻って貰えるように」

 ベルは頷いた。

「それから、母には泣かれた」

「私も泣くわ…」

 ベルの口から思わず言葉が溢れる。コリンは椅子に座るベルの肘に手を添え、引き寄せ、抱きしめた。

「ベル、僕は行くよ、そして戻ってくる。良ければ一緒に行こう」

「無理だわ」

 反射的に答える。

「怖いの、考えるだけでどうしようもないくらい」

 コリンはベルの頭を撫でる。

「それが普通なんだ。ベルは悪くない」

「ファニエは行くって笑ってたわ」

「彼女はちょっと特別。父親がね、外界貿易の責任者で外界人とも子供の頃から会ってる」

「そうだったの…」

 昼間のファニエの笑顔を思い出して納得する。コリンの温もりに自分が驚くほど冷えていたことを知らされる。

「コリン…」引き止める言葉は出てこなかった。彼の外への思いを一番良く知っているのは自分だという自負があった。精一杯の一言は。「愛してるわ」

 コリンは一際強くベルを抱きしめる。

「僕も愛してるよ。大丈夫、戻ってくるから」

 眩しい気持ちで見上げると、滲んだ涙の向こうでコリンは笑っていた。


 それからは忙しかった。

 まず行ったのは外へ持っていく物の準備である。せっかく外へ行くのだから、この都市で作られた品物を売りたいと考えるのは商人なら当然のこと。今まで買い入れメインで、外への売り出しは細々とやっているに過ぎなかったウィル商店では、外界向けの販売を主に行ってきたカオ商店のアドバイスを仰ぐ。

 ティレル・カオいわく、ウィンダリットの物は手間暇かけて端正に作られた物が多いから、販売層は主に富裕層になる。もし草原の民など普段の取引相手への販売を検討するなら小物を主にするのが良いだろう。

 とはいえ、あからさまに品物を集められる訳ではない。ベルは実家の翡翠に、アネラの二つの祝いに配りたいと刺繍の入ったハンカチやブローチを発注した。2歳を特別に祝う風習などなかったが、五商家ともなれば違うのだと納得してもらう。それから、トリスの家具細工店にも封書を送る、端材で作った置物が売られるともなく置いてあるのを知っていたのだ。他にベルの伝手で黄昏の森の職人たちが本業の傍に手がけている細かな物が集められた。それらを見てティレル・カオとファニエは歓声をあげた。

「こんなものがあったなんて!」

「お前の最大の強みは奥方だなぁ!」

 そうさ、と言わんばかりにコリンは傍に立っていたベルの肩を抱いた。


 王からの通達で、一ヶ月の外界行きの間は外から持ち込まれた流行病で隔離されている、こととなった。むしろ外との接触のある全五商家から人が居なくなるにはそれしかない。否応もなかった。

 なので、そのための準備も密かに進められた。密かに、というのが曲者だった。普段は倉庫番をしている先代当主とのやりとりは封書か、週に一度の運搬日となる。倉庫番を新たに選定しておく必要もあったが、内密に進めるには難しい問題だった。それを解決してくれたのは、五商家で一番規模の大きいムッツィの店主リブリムだった。

「うちのとこで一人追加募集して置くから、その時が来たら一人手伝いに出すさ。ちょうど最年長が引退を控えてて良い頃合いだ」

 金属材料や木材など重量物をメインに扱うムッツィには運搬を兼ねた倉庫番が五人居てシフトを組んでいるので、問題ないとのことだった。


 勿論、外へ行くための衣服と食料も用意された。ウィンダリットから出て人が定住しているところまでは半日程だが、そこは交易路の枝分かれの終点であり、規模が小さい。10名弱の旅人が次の町までの旅食を十分に購入できるか不明であり、珍しい品物を持った人間がそんなことをすれば目立ち過ぎる。交易路上にある町までの食料一週間分は食べ慣れた物を各自用意することになったのだ。

「これなら一週間くらいは持つわね」

 そう言いながらベルはリンゴを荷物の中に加える。馬車を用意して行くのでそこそこ重さのある物でも問題ない。なので、漬物の瓶も一つ入れる。煮炊きはできるだろうと米も入れる。野菜はさすがに入れられないが、鶏肉の燻製に栄養が詰まっていることを祈る。

 常温では日持ちのしないチーズを入れて、ベルはさて、と腰に手を当てた。

「他に入れ忘れたものはないかしら?」

 出発は明日に迫っていた。


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