後継
ベルとコリンの結婚生活は穏やかだった。
ベル自身はそれまで生活の中心であった刺繍を手にする暇も無いほど、ウィル商店の仕事に没頭し、コリンとは夜更けまで外の世界と、この都市ついて話し込む日もしばしばあり、眠い目をこすりながら帳票と見たことも無い商品と格闘した。
それでも、刺繍に情熱が持て無いと悩んでいたのが馬鹿らしいと思えるほど、ベルはコリンを愛し、同じくらい仕事を愛し満ち足りていた。
刺繍の見習いを途中で放り出す形になったことに負い目は感じていたが、外の世界の刺繍を探しあてると目を見開いて喜ぶ姉、そして父の様子に、少しずつこれで良かったのだという気持ちになっていった。形式的とはいえ見習い引き抜き料としてウィル商店が翡翠に一般的と言われる額以上に支払っていたのも、ベルの心が早く軽くなった一因かもしれない。形を整えることはとにかく大事なのよ、とは姉の弁だ。
その姉は、ベルよりも早く身籠り、男の子を出産した。結婚はせず、相手が誰であるかは明言しない。体調が優れない様子に心配した両親を前に、さらりと店主になる前に産んでおこうと思って、と告げたとか告げないとか。形は大事と良くその口で言ったものよ、と母は愚痴ったが、おそらく彼女に取って早めの出産は仕事の形を整える一環だったのではと、ベルは思う。
相手はトリスかと思って赤子を見舞ったが、まるで分からなかった。生後数ヶ月を経てふっくらしてきた赤子はどこから見ても姉にしか似ていなかった。
「神様は親切なのか意地悪なのか、分からないわね」
少し寂しげな呟きを、ベルは忘れることができなかった。
そんなベルも子供を身篭った。結婚してから2年、仕事にも余裕が出てきた頃だ。結婚当初に時間を惜しんで話し合ったあれこれも何となく一巡していたから良い時期だったのだろう。産まれたのは娘、顔立ちを祖母のメリダから引き継いだ美しい娘だった。
コリンは生まれたばかりで真っ赤な猿のような娘と恋に落ち、名をアネラと名付けた。1年ほどの成長で、整った顔立ちだとわかるにつれ、その恋は少し穏やかなものになった。恋というよりは庇護欲だったのかしら、とベルは苦笑した。
コリンは良き父だった。メリダに、もういっそベルに店を任せて主に子守をしたらいい、と言われ、半ば実行に移したくらいだ。午前はベルが子守をし、午後はコリンが子守をした。おかげてベルは店の仕事も継続できたし、コリンも娘と蜜月を楽しんだ。一人で歩き回れるようになると、店の中でウロウロとお散歩したり、ベルやコリンを見つけては抱っこをせがみ、やってくるお客に愛想を振りまいた。
「うちの子は人見知りなのよねぇ」
アネラを見てファニエは溜息をつく。
「時期的なものもあるし、性格もあるし…でもアネラとは遊べるのだから大丈夫でしょう」
ファニエの娘イブリンを見てベルは慰めた。ファニエも同時期に子供を産み、一週間に一回は必ず暇を見て遊びに来ていた。
来客用のテーブルにまた頬杖をついて、ファニエは言った。
「ねぇ、この前の集まりには来てなかったわよね?」
「ええ、アネラが熱を出して」
「じゃあ、コリンから聞いたかしら、門を開けるかもって」
「門?」
ファニエは一瞬躊躇し、聞いた。
「聞いてないのね?」
ベルは頷いた。
「コリンに聞くべきなんでしょうけど…同じメンバーだから良いわね。伝達の不備だもの。次の集まりは明後日、それまでに心算はしなくてはならないし」
ファニエは一通りブツブツと独り言ちた後、ベルを見て話し出した。
その日は特に議題もなく、定例の報告だけで済む見込みだった。それが覆したのは王からの親書だった。
王曰く、以前より希望のあった外界訪問について前向きに検討している。ついては各商家一名ないし二名を選定し、次の集まりで纏め報告するように。
ベルは言葉もなかった。
ファニエは肩をすくめて言った。
「イブリンとアネラ」
「え?」
「イブリンとアネラよ。ルプランテもムッツィ、ジャンベも跡取りが居るわ。イブリンとアネラが生まれたことで五商家全ての跡取りが揃ったことになる。そして現当主たちも概ね若く、先代達もまだ元気よ。冒険に出るなら今がいいと判断されたのでしょう。外へ行きたいと進言していたのはこちらだし」
「そんな…」
ベルはアネラを見た。色々な思いが湧き上がっては散り散りになる。外への憧れと、畏れ、コリンの眼差しにアネラの湿った手、ふと壁を磨くと言った幼馴染の顔も。
黙りこくったベルの肩にファニエは手を乗せた。
「コリンと良く話しなさい。外への旅は一ヶ月足らずよ、案内役も居ると言うし、危険なことばかりではないはずよ」
「ファニエは…」
「私はティレルと一緒に行くわ。イブリンは義母さんと義妹が見てくれるから」
「ファニエ…」
ぼんやりと見返すとファニエは笑った。
「大丈夫よ、必ず帰るわ。それに、なんならベルも一緒に行きましょう」
ベルは微かに頷き、なんとか微笑んだ。
「ありがとう、ファニエ。考えてみるわ」
それでも、漠然とした畏れが自分の中に満ちていくのを止めることはできなかった。