溜息
ウィル商店を訪れた翌日の午後、ベルは森の広場にいた。手元には本を持っていたが、開く気はなかった。ただ、簡易水筒に入れてきたお茶と、昨日コリン・ウィリアムズから手渡された焼き菓子を交互に口に入れ、あとは黙っていた。
隣にはトリスがいた。ベルの様子を伺う気配はあるが、基本的には持ってきた木片にやすりをかけている。ベルは変だと思うが、彼は『波に洗われたガラス』のように木片を磨き上げるのが趣味だ。家業の木製品を手掛けるうちに、やすり掛けの心地よさにはまったらしい。ベルが知る限り、十代になるころには様々な木片を磨いていたのだから筋金入りだ。粗いやすりから始まり、だんだん目の細かいやすりをかけ、最後には砥の粉を塗り、ニスで仕上げる。何に使うでもないが、以前もらったそれは良い仕事で、すべすべとしていて気持ちよく、時々手にとっては弄んでしまう。癒しの木片、など名づければ売れるのではと思ったが、ベルは黙っていた。趣味のものを売りに出すには、相応の覚悟がいる。別にお金に困っているのでなければ、わざわざ商売品に仕立てる必要はないだろう。
ベルの胃が縮こまった気がした。昨日に引き続き、貰った菓子は美味しかった。自分で淹れたお茶も菓子に合って大変満足のいくおやつだった。だが、自分の刺繍へかける情熱の無さを恨みつつ、昨日のことを思い出し溜息を吐く。それ以外の時間の過ごし方は思い浮かばなかった。
……昨日、コリン・ウィリアムズに会ったのは、楽しかった。お礼と出された美味しいお菓子は今日もベルの胃に収まったし、頼んで毛皮に触れさせてもらった時の興奮とともに、未だ手のひらにその触感が残っている。棚に並んだ商品の説明はほぼ覚えてきたと思うし、さらに本で読んだことを元に確認もできたので大変満足だ。そして自分が知っているのは海の一滴に過ぎないのだと思い知らされもした。
さらに、コリン・ウィリアムズは言ったのだ。
「ここだけの話ですが、私は外へ出たいと思っています」
呆気にとられた。外への探究心は人一倍と自覚しているベルでさえ、外へ出たいと思ったことはなかった。正確には思い付くことすらなかった。
「道は、あるのです。役所には外の商人がやってきて、帰っていくのですから」
当たり前と言えば当たり前だった、外からの品物を仕入れる商店だ、外と接点はあるだろう、だが…
「外の人に会ったことが、あるの」
ベルはそう言うのが精一杯だった。外の世界に興味関心を向けながら、ベルはどこかそれらがお伽話のような決して自分の世界と交わらないものであると思い込んでいた。憧れはする、でもまさか。
コリン・ウィリアムズは微笑んだ。
「私とあなたと変わらないですよ、服装や喋り方は違いますけどね。あなたは外へ出たいと思いますか?」
「いいえ」
驚いたことにベルはそう答えていた。花を摘み雨に打たれて海を見て馬に乗って風を感じる…憧れだ。見てみたい。だが物語の主人公のように住んでいる場所を飛び出して冒険を始めるのは、ベルには到底無理なことのように感じたのだ。
「わからない…見てみたいとは思うの、でも出たいわけではない気がするわ」
コリン・ウィリアムズは頷いた。
「それが普通なのです、イザベル嬢。それでもあなたの目は外を見ている、私はその眼差しに勇気付けられます。イザベル・ジュテー、私のそばにいて貰えませんか?」
振り返ればとんだアホ面を晒したのではないかと思う。しかし、外に行きたいだのそばにいて欲しいだの、いきなり言い出す方がおかしいのではないだろうか。
「即答はしないでください、イザベル・ジュテー。でもまた遊びにきてください、来週の水曜日にはまた外からの品物が入りますから是非に」
コリン・ウィリアムズが好青年なのはわかっていた。ベルの外への関心も笑ったり馬鹿にしたりはしない。幼馴染のトリスもしないが彼は外に関心はない。少し先鋭的だが、初めて出会った同じ視線を持つ相手である。
躊躇ったが、ベルは頷いた。そして刺繍のオーダーを聞き、ついでに外の刺繍に興味を持っていることも伝える。
そして、帰途に着いた。店で注文書を記入しつつ姉にオーダーのニュアンスを伝え、夕飯を食べて寝た。今朝はルーティーンの刺繍を終えて、昼を食べて、何か聞きたそうな姉の目から逃れて、おやつを持って森に来たのだ。そこにはトリスがいたけれど気にしない。
溜息をつく。
「刺繍が天職ならなぁ…」
コリン・ウィリアムズの言葉に動じたり、迷ったりすることはなかったはずだ。姉ならば、でも私には刺繍がありますから、とひらりと躱すだろう。
溜息が聞こえる、ベルのものではない。
「刺繍が天職なら、コリン・ウィリアムズはベルを気に止めなかったろうよ」
そう言ったのは勿論トリスだった。面倒臭そうな顔でベルを見ている。
「惚れられたんだろ?コリン・ウィリアムズに」
ベルは答えず、訊ね返した。
「私、コリンのこと、あなたにしゃべったかしら?」
トリスは言葉に詰まって、短く、いや、と言うと木片磨きに戻るために視線を落としてしまう。ベルはふと思いつく。
「アリシア姉さんね?」
まさか刺繍一筋の姉がトリスに話に来たとは思わなかったが、ほかに可能性が思いつかない。
トリスが小さく頷いた。
「そう…」
驚きのあまり、ベルは木片を磨き続ける幼馴染にかける言葉を思いつかなかった。代わりに溜息をつく。
溜息、そして溜息を。