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 その日、ベルはポピーの赤い花を刺していた。リボン状の布に延々と続くその刺繍は、オーダー品ではなく量販品として出す見習い仕事だ。この布を手に取ったいずれかの職人が、洋服のアクセントにするか、カーテンの裾に留めるか、あるいはクルミボタンにするかは分からない。翡翠の名を関するがあくまでも二級品だ。

 隣に座る四つ上の姉アリシアは彼女指定のオーダー品、百種の花の咲き乱れる豪華なテーブルセンターに取り組んでいた。アリシアの刺繍には緻密さと、たまに現れる驚くほどの大胆な色使いが人を惹きつける。彼女が刺したそれを広げれば、生けた花など置かなくても見る人を楽しませる完結した飾りになるだろう。同じ下絵を使っても、教科書通りにしか刺せないベルとは大違いだ。覗き込んだベルはこっそりと自分の腕に対する溜息をつき、それからアリシアの手によって描かれるであろう色とりどりの花を思って作業の手を止めた。この都市では百種もの花を見ることはない。自分の手元にあるポピーの赤い花もそうだ。刺繍などの意匠や絵画に描かれるばかりで、本物を見て模写した人はいないはずだ。

 アリシアがふと顔を上げた。

「ベル、手が止まってるわ」

そこに咎める調子はない。

「お茶にする?」

「さっき飲んだばかりだわ」

自分の刺繍に目を戻してベルは答えた。趣味で仕上げたにしては上等だろうが、それ以上ではない、見習い仕事だ。刺繍の腕は遠く姉に及ばないが、生まれた時から刺繍に囲まれてきて見る目だけはさすがに肥えている。

「私にアリシアのような才能があればねぇ」

仕事を決めるときに、アリシアの手がける刺繍を見て漠然とそのような物が作れたらと思ったものだ。だが、残念ながらアリシアはどんどんと先へ行き、ベルは趣味の域から出る気配がない。これはもう職人として生計を立てるのは諦めた方がいいのではないか。

「ベルに足りないのは、才能ではなく情熱ね」

ベルの仕事を覗き込んで容赦なくアリシアは言う。この姉は間違ったことも言うが、刺繍に関してだけは絶対的に正しい。彼女は初代翡翠と並ぶ情熱を持っているのではないかと、ベルは思う。初代翡翠の店主は、一針一針を水面にカワセミが飛び込むような、と言ったらしいが、アリシアもたまに獲物を狙う目をして針を操っているのだ。

 ベルは刺繍が好きだと思う。無心に針を動かしている時間は楽しい。そこには穏やかさがあると思う。でもそれだけなのだ。母の手伝いで帳簿の数字を追いかけている時の方が、ずっと獲物を追う目をしていると思う。あのカチリと数字が嵌る瞬間、嵌めて見せる瞬間には快哉を叫びたくなるし、日々の帳簿つけもまったく苦にならない。本を読むこともそうだが、紙の上の方がベルと相性がいいのかもしれない。

 とはいえ、見習い期間の終了まであと二年ある。それまで量販品であれきちんと仕事はおさめなければならない約束だ。しかし、見習い期間が終わっても翡翠の名で仕事ができるほど上達しなければ、どうしよう。外注を受ける職人として名を残してはもらえるだろうが、翡翠の店直属にはなれない公算が高くなってきた。帳簿付けが必要などこかの店に雇ってもらい、時々刺繍の注文を受けるのがいいかもしれない。

 …たとえばウィル商店とか。


 物思いに耽る妹に、アリシアは手紙を取り出した。

「ベル、ウィル商店を知ってる、わよね?」

ベルは心臓が飛び出るかと思った。手から針が弾け飛び、赤い刺繍糸がその後を追った。アリシアはその針を拾って、ピンクッションに収めた。

「手紙が来ているのよ、翡翠に注文を出したいって」

 ベルは、そういうこともあるわよね、と内心取り繕いながら、アリシアが手にしているものを見た。何の変哲もない封筒だったが、ウィル商店の扉の色と同じ黄色で縁取りをされている上等のものだ。店同士がやりとりをする公式な書類だろう。私的なものではない、断じてない、と必死に心臓を宥めながら言った。

「知ってる、わよ」

なぜこれほど自分が動揺しているのかわからず、さらに狼狽えながらベルは言った。

「この前、貸本屋のお使いでお邪魔もしたわ」

そこでようやくアリシアの解せないという表情が和らぎ、ようやく笑みが浮かんだ。

「普通の注文書なんだけど、追伸欄でお礼をしたいのでイザベル嬢に用伺いに来てほしいと書いてあってね、なんのことやらと」

アリシアは封筒から便箋を取り出し、追伸欄をベルに見せた。

「一応、父さん宛てなんだけど、わけがわからないってことで、私に一任された注文よ。悪いけど今日の午後でも早速行って、注文を取ってきてくれないかしら?このテーブルクロスの次は特に差し迫った注文は入ってないから、早めに段取りだけつけておきたいの」

「でも…」

ベルは口籠った。コリンの親しげな笑顔と、触れるか触れられないかのところで避けた指が思い起こされて胸が塞がれたようだった。なぜか会いたいと言うよりも逃げてしまいたい気持ちだった。


視線を彷徨わせ続けるベルに、アリシアは微笑み、少し首を傾げて言った。

「ねぇ、ベル。私が翡翠を継ぐことが決まったの」

ようやく姉を見て、ベルは不思議な気持ちになる。アリシアは、ベルと同じ茶の混じった金髪に薄い茶色の瞳をしている。だが、全体的にふっくらしていて童顔で優し気な雰囲気の持ち主だ、店主というのは父のように厳ついもののように思い込んでいたのだ。

「それは…そうでしょう」

しかし、ベルはそう言った。他に何人か見習いや弟子はいたが、アリシアを上回る腕の持ち主はいない。当然と言えば当然だった。

「でね」

ウィル商店からの手紙に向き直り、アリシアは言った。

「私、あなたほど外に興味はないけれど、刺繍だけは別なのよ」

ベルは頷く。頼まれて貸本屋から古い刺繍の本のみならず、服飾の本に文様の本まで借りてきたことがある。

「私、ウィル商店とは繋ぎをつけて置きたいのよ、割としっかりと。あそこは特別な店よ。他の店は基本的に材料を取り扱う、でもあそこだけは生活用具そのものも扱うの。あなたが何らかの恩を売ったのは渡りに船なのよ」

ベルにも、アリシアが言わんとしていることがわかってきた。騎馬民族と親しいウィル商店なら、例えば外の刺繍を手に入れられるのではないか、そんな思惑だ。ちらりと先日店先で見た傘に描かれたポピーを思い出す。あれは布に描かれた絵だったが、布を装飾する発想があるなら刺繍もあるだろう。

 すうっとベルは頭の中が仕事仕様になるのを感じた。アリシアの言うことは今後の翡翠の仕事に関わる重大事だ。ベルは落ち着いた声で応えた。

「今日の午後、行ってくるわ。とりあえずは注文を受けてくれば、いいのでしょう?」

「助かるわ、トリスに伝言でもする?」

唐突に出てきた幼馴染の名前に面食らいつつべルは言った。

「私たち、そんなにいつも一緒にいるわけじゃないわよ?」

「そうなの?」

意外そうな目を向けられて、ベルは一瞬考え込む。トリスとは幼馴染で暇があれば森の広場で会っているが、約束したりしたことはない。

「夜さ、居間にいけば母さんがいるじゃない?あんな感じだから、居たら居るなぁ、居ないなら居ないなぁくらいで、伝言とかしたことないわ」

「そうなの」

ベルは頷く。

「もし、トリスに会いたいなら三時くらいよ、森の広場の奥のテーブル」

 アリシアの顔にさっと朱が差した。ベルは知っている、姉のほんのりとした恋心を。でも彼女は行かないだろう、恋心と刺繍を天秤にかけると刺繍が勝つ人だ。そして、トリスも幼馴染で悪い男ではないと思うが、義兄と呼ぶのは躊躇う。姉には悪いが積極的に応援したい恋ではない。

 とりあえず、とベルはピンクッションから針を引き抜き、刺繍に向き直った。午後の自由を手に入れるために、今日のノルマを果たさなければならないのだった。

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