傘
トリスと過ごす時間は少しずつ減っていたが、ベルの外への好奇心は相変わらずだった。黎明の湖の貸本屋へは定期的に通っていたし、その時には必ず外との取引を許されている商店の前を通っていた。
そのようなことを話した記憶もなかったが、自明のことであったのだろう、貸本屋の主人からの頼まれ事をきっかけにベルはコリンと出会ったのだ。
「イザベル(彼はいつもベルを正式に呼んだ)、ウィル商店を知っているかい?」
真っ黒の髪を後ろで無造作に束ねた貸本屋の主人、ファリアスはそう言った。その声は低いが良く響く美声で、ベルは一瞬うっとりと聞き入り、それから頷いた。
「町の外のものを扱っている商店でしょう、ウィンドウに本物の羊の毛皮の飾ってある…」
この都市の中に羊はおらず、羊毛と言えば高級品であり、その加工前の毛皮となれば一見の価値のある品物だ。
「あぁ、知ってるなら話が早い」ファリアスは渡りに船とばかりに続けた。「あそこは草原の民との関わりが深くてね、若主人がもっと彼らの事が知りたいと本を探していて」
「届け物?」
「ただとは言わないよ、若主人に一筆書くから」
「ふぅん」
あまり気の無い返事を返しながら、ベルは胸を押さえずにはいられなかった。外との取引をしている店の中ではウィル商店は比較的入り易い庶民的な店ではあったが、見習いであまり余裕のないベルには敷居の高い店だった。店頭にある美しい羊の毛皮に一度触れてみたいと常々思っていたのだ。
「何がいいかね」
そう言いながらファリアスは何事かを一筆箋に書き付け、それを一冊の本に挟むと袋に入れて、ベルに手渡した。
「ま、今日の本は半額にしとくよ」
それだけで十分にも思えた。ベルはにんまりと笑って貸本屋を後にしたのだった。
ウィル商店は町の中央区、黎明の貸本屋とベルの住む黄昏の森のちょうど真ん中にあった。外との取り引きを許された店が5軒連なり、その一番西の端がウィル商店だ。ベルはウィンドウから羊の皮をひとしきり眺めた後、黄色い扉を押して中に入った。あわよくば、自分が羊の皮に興味があることを店の中の者に感づいてもらえないかと願いながら。
しかし、あいにくと店の中は無人だった。番頭は奥で作業でもしているのだろう、がさごそと音だけはしている。ベルは少し躊躇った後、これ幸いと店内を見学することにした。
決して大きい店ではないが、毛皮の飾られたウィンドウの傍に商談用のテーブルセットがあり、大ぶりの棚に覆われた壁面には少量の品物がサンプルのように飾られていた。庶民向きの店とはいえ、都市に五軒しかない店だ、あるものを売るというよりは客の探し物に番頭が応じるという商売なのだろう。それでも並べられている商品は、普段訪れる雑貨屋とは違っていて興味深かった。貴重な革や木を使った出来合いの雑貨の作りは素朴だったが作り手の美意識が感じられるものであったし、布を棒に巻き付けたまるで用途のわからない道具もあった。
本を抱えていなければちょっと触ってみるところなのに、とベルが良識と好奇心を戦わせているところで、店頭に人が戻ってきた。ベルと同じくらいの青年で、振り向いたベルを見つけるとニッコリと笑った。
「カサが気になりますか?」
「カサ…?」思わずおうむ返しに返した後、あっと気付く。「傘!雨の日に使う?」
青年は面白そうに目を見開いて、先ほどの笑顔はあくまでも外向きの笑顔だったのだとわかるほど、今度は親しみの籠った笑顔を見せた。
「それは陽射しの強い時に使う日傘ですが、防水加工をすれば雨の日も使うことができますよ」
ベルはもはや好奇心を抑えることができなかった。雨の降らないこの都市で廃れた道具の一つが傘なのだ。
「どうやって使うのか…あの、見せてもらうことはできますか?」
「もちろんですよ、開いてみましょう」
「ひらく…」呟いてベルは思い返す。そう、傘は開いて傘をさして使うものだ。
青年は棒を手に取ると、小さなボタンを押してから筒状の部品を持って押し込んだ。押し込むにつれ、棒に巻き付いてた布が広がり、小さな屋根のようになった。布は白く大きく赤い花の模様が鮮やかだった。
「ポピー…」
「おや、この花の名前までご存じとは」
「刺繍で縫い取ったことがあります」
そこまで答えて、ベルは自己紹介もまだであったことを思い出す。慌てて青年に向き直った。
「初めまして、わたしは黄昏の森の翡翠で刺繍見習いをしているイザベル・ジュテーと申します。今日は仕事とは無関係なのですが、貸本屋のファリアスに頼まれて、コリン・ウィリアムス様に本を届けに伺いました」
「イザベル嬢、私がコリンです。それではそのお持ちの本が例の本ですね」
「あら」ベルは青年は番頭だろうと思っていたので、つい声を挙げた。「すみません、まさかご本人だとは」
「なじみのない商品ばかりでしょう、人を雇ってもあまり長続きしなくてね、私が修業がてら番頭をしているのですよ」
「そんな、こんな面白いものばかりですのに」
ベルには、外の品物なら一回の解説で覚える自信があった。それでも刺繍見習いとして働いている以上、出来心でここの番頭の職に応募することはできない。刺繍見習いでいいのか、と翡翠の店主である父親に聞かれたときはまだ外の世界に興味がなく、ただ姉と同じことがしたいと当然のように頷いたのが、つい悔やまれる。
コリン・ウィリアムスはそんなベルを青い目でしみじみと眺めた後、ぽつりと聞いた。
「外の世界に、興味がおありなんですか?」
ベルは躊躇い、だが一拍置いて頷いた。外の世界に興味を持つのは変わり者だが、ここは外の世界の商品を扱う店だ。
「ええ、本を読んでいるだけですけれど」
「あぁ、それで貸本屋に」
頷いて、ベルは胸に抱えていた本の包みを差し出した。
「こちら、お届け物です」
「ありがとうございます、イザベル嬢」
受け渡しの際、コリン・ウィリアムスの指が一瞬止まり、丁寧にベルの指を避けた。女性として意識されたのだとベルは顔を伏せた。体がさっと熱くなっていた。
そんなベルに気づいたのか、気付かなかったのか、コリン・ウィリアムスは何でもないことのように言った。
「せっかくですから、お茶でもいかがですか?」
「ありがとうございます、でも、私…」火照った頬を見せたくなくて、ベルはかぶりを振った。「今日は貸本屋に行くと言ってきたものですから、もう時間が…」
「そうですか」残念な面持ちでコリン・ウィリアムスは言った。「では次回に」
次回は無いと思うわ、そんな心の内はさすがに隠して、ベルは辛うじてニッコリと笑った。
「ありがとうございます、それでは次を楽しみにしています」
「お待ちしております」
コリン・ウィリアムスもニッコリと笑った。それが二人の出会いだった。