壁
都市ウィンダリットは…いや、ベルの知っているこの都市は、周囲を壁に囲まれていて自由に出ることが叶わない。都市防壁とは違う、天まで伸びるつるりとした壁だ。
その壁の近くで育ったベルに取っては在って当たり前の、茶色い壁。それは見上げるほどに高く、足元は黒味がかっているが上に行くほど透けるように色が薄くなっており、空が見える。それが本当の空のように見えるが、実はドーム状にこの都市を覆う壁越しの空であることをベルはよく知っていた。
何しろ、この都市は霧に覆われることはあっても雨は降らない。古い文学書を眺めていて、雨に打たれるという表現に首を捻ったのも懐かしい。ベルに取って雨とは、真上近くの壁の向こうを伝っていく水なのだ。
そのくだりをふと口にしたところ、聞き咎めたのが傍で木材にやすりをかけていた幼馴染のトリスだった。
「雨に、打たれる?」
そこには面白がる響きがあって、ベルは本から顔を上げた。
「また黎明の貸本屋から借りてきたのか?」
ベルは頷いた。子供用の絵本で飽き足らず、文字だけの本を好んで読む者は珍しい。そんな本を手に入れるためには黄昏の森とは逆の端、黎明の湖の貸本屋まで行かなくてはならなかった。特に技術書ではなく娯楽書となれば尚更だ。
「主人公が雨に打たれてずぶ濡れになったところよ」
「霧も濡れるけど、打たれはしないなぁ」
「雨だれが屋根を激しく叩いて煩いくらいだそう」
「…外の世界の話なんだろうな」
ウィンダリットは壁の中の都市、何人たりともその向こうへいくことは許されない、それがこの都市の不文律だった。
「外の世界…」
トリスの言葉を繰り返して、ベルは目を伏せた。外の世界があるのは誰でも知っているが、そこに関心を持つ者は少ない。都市の中に思いつく限り殆どのものがあったし、日々を暮らすのに不自由はなく、かといって何もかもが自由になるわけではなく、やはりそこには日々の暮らしと糧を得るための十分な苦労があったのだ。かくいうベルも、刺繍を専門とする家の見習いであり、トリスは木製品を加工する家の跡取りである。学ぶべきこともあり、またこうして余暇を過ごすにたる趣味も仲間もあり、不足は無かった。
それでも、ベルの心を掴んで離さないのが外の世界の話だった。馬と一体となって草原を疾走するという騎馬の民や、太陽が昇る海に潜り魚を捉える海洋の民の物語はもちろん、刺繍の図案で見た花の名前一つ、雨に打たれるという描写一つがベルを惹きつけて止まないのだった。
チラリとトリスを見ると、彼は趣味のやすりがけの手を止め、何か考え込んでいるようだった。自分と同じように外の世界に興味でも惹かれたのでは、と期待を込めて見つめるも幼馴染は無邪気に言った。
「壁がね、気になるんだよ」
「壁」
「そう、この都市の壁」
壁の外側ではなく、外と内を区切る壁そのもの?ベルは首を傾げて続きを待った。
「この壁、この都市をぐるりと覆ってる、それは知ってるだろ?」
ベルは頷いた。それは子供の頃、誰もが試してみる冒険だ。壁がどこまで続いているのか確認するために、子供の足で丸3日はかかるが、親同伴でベルとトリスは5年前に歩き通している。その壁を木々の間に確認できるその道は、所々休める場所もあり、実はこの都市で人気のある娯楽だと知ったのはそこそこ大人になってからだった。
「雨が入ってこないということは、この壁は上も完全に覆ってるってこと。しかも雨が見えるような透明な壁。ガラスでできてるのかな」
「そんなガラスあるかしらね?」
「でもほら、見た感じ、レンガとか土じゃない、あそこのは」
二人のいる森の広場からも僅かに見える壁をチラリと見て、トリスは言った。
「ガラスなら、割れるかなぁ、って思うんだけど。例えばそこから出られないかなぁ、って」
「出られるわけないわ、だって壁だもの」
畏怖に似た怖い気持ちが突如湧き上がって、ベルは理由にならない言葉を返した。トリスの中にも似たような気持ちがあるのだろう、少し青ざめた唇で言う。
「触ってみない?」
「いやよ」反射的にベルは答えた。「絶対に嫌」
うん、小さい声でトリスも言ってそこでその話は終わりになった、その日は。
結論から言えば、二人は壁に触ったのだ。何日かに渡って触る触らないの押し問答を繰り返し、だがふと、トリスが言ったのだ。
「こんなに怖い気持ちになるなんて、変だ」
その言葉を聞いた時、すっとベルの中の恐れが冷えた。無くなったわけではなかったが、何かその恐れが自分のものではないように遠退いたのだ。
「そうね」
そして、トリスの手を取って、ベルは壁に向かって歩き出した。いつだって、言いだすのはトリスで、動き出すのはベルだった。
壁の前に立って二人は顔を見合わせる。しばし、躊躇い、そして握ってない方の手を壁に向ける。
「いっせいのーせっ」
壁は、ほんのり温かく、ざらりとしていた。丁寧に塗られた漆喰の壁のようだった。
拍子抜けした二人はまた顔を見合わせた。
「もう、怖くないね、全然」
「催眠術みたいなものかな…ふぅん」
トリスはベルから手を離すと両手で壁を撫で回し始めた。ベルは暖かな壁に両手を添えて、ふと考える。生きてきた中で、今が一番、外に近いのだろうな、と。この壁の向こうには外が在るんだな、と。
雨が降り注ぎ、草原を駆ける馬が居て、果てるともなく波が打ち寄せる浜辺が、この向こうに。音の一つも聞こえないかと、つい耳を寄せたが無論聞こえるものはなく、ただ壁の温もりが頬に伝わってきただけだった。
感慨に耽るベルにトリスが声をかけた。
「ねぇ、ベル」
振り向いたベルを壁から引き剥がし、一歩下がると、トリスは腰に下げていた道具入れからナイフを取り出すと力を込めて壁に向かって投げつけた。止める間も無かった。
キィン、という高い音がしてナイフが弾かれた。壁には小さな傷。どうして、そうベルが咎めようとした矢先に壁が震えた。まさかと凝視する二人の目の前で、表面の砂状の部分がフルリと震え、小さな傷を埋めてしまった。
なんなの、とベルは口を動かしたが、声にはならなかった。トリスは小さく、アハ、と笑い損ねた乾いた声を上げた。
壁には傷一つなかった。
さすがにトリスももう一度試すつもりにはならなかったのだろう、ナイフを拾い上げると、呆然とするベルの手を引いて元いた広場まで戻ってきた。当然のようにベルを座らせて読みかけの本をその手に乗せ、自分はヤスリをかけていた木材を拾い上げると再び作業に戻った。壁に向かった一連の出来事は無かったことのようだった。
実際、それから二人の間で壁の話題が出ることは無かった。たまにチラリとトリスが壁を見ているとベルは気付いていたが、気付かない振りをした。
なんでも気軽に話していた二人の間に初めて出来た溝だったように思う。その頃から自然と二人で過ごすことは減っていったのだ。