坊ちゃんと女中
「坊ちゃん。良い加減になさりませ。」
かちゃりとカップを置いた主を見据えて、私は努めて冷静に語りかけた。
「このベスティモーナ、もう我慢がなりませぬ。」
騎士団長を務める主人の眼光は射殺すように細められ、その苛立ちを隠そうともしない。この場に他の騎士が居たならば、涙を流して逃げ出すことだろう。
とは言え産まれたときから世話をしていた私にとっては、何の障害にもならない。溜息を吐きたくなるのをぐっと堪えながら、もう何度繰り返したか分からない言葉を、今日も今日とて絞り出すのだった。
「さっさと結婚なさりませ!」
主家の命運は、女中たる私の双肩に懸かっているのである。
・・・・
「何度も言わせるな。私は見合いなどしない。いくらベスの頼みと言え、私は考えを変えない。」
怜悧な口調で切り返すのは、私が仕えるバルフォン伯爵家の御子息、ギース坊ちゃんだ。坊ちゃんと言っても先日二十歳を迎えた立派な青年であり、その若さで第四騎士団団長を射止めた鬼才であられる。
白銀の御髪と冷ややかな性格を指してか<氷の剣帝>などと恐れられてはいるが、その強さと美しさの虜になる女性は後を絶たたない。ちなみに新しい扉を開いてしまった男性も後を絶たないらしい。最近の若者の言葉で言うならば「ちょーかっこいいんですけどマジやばいイケメン!抱いて!」と言ったところである。
「いいえ坊ちゃん、ベスは何度でも申し上げます。旦那様と奥様から、坊ちゃんのお世話を仰せつかっている身です。決して引きませぬ。さあ、この目録に目を通すのです!」
バシンと執務机に叩き付けられた、辞書の様に分厚い目録を前にして、彼は大きな溜息を吐いた。
伯爵家に仕えて二十五年。今年で三十になる私ことベスティモーナは、坊ちゃんのお世話係として長らくそのご成長を見守ってきた。貧乏商人の末子を引き取って下さった旦那様に、何とか御恩を返そうと死ぬ気で磨いた技術のお蔭か、婚期などとっくに逃した私は気付けば女中長にまで上りつめていた。
周りからは同情の目で見られるが、伯爵家に死ぬまでお仕えするつもりの私は寧ろ婚期が過ぎたことに安堵していたくらいである。坊ちゃんが強く美しくご成長遊ばれるのを我がことの様に喜んでは、忙しなく日々を過ごしていた。
「奥様から送られた名簿を基に、ベスが厳選に厳選を重ねて作成した候補者百人リストです。どの方も次期バルフォン伯たる坊ちゃんに相応しい、魅力的な女性ですよ。幼女から熟女まであらゆる嗜好を補完しておりますので、坊ちゃんのお眼鏡に適う方が見つかること間違いありません。ええ、ベスが保証致しますとも。さあお読みになって下さい。」
そんな生活が大きく変わったのは五年前のこと。
本邸から王都別邸へと移り住むことになった坊ちゃんに従って、私も別邸女中長として王都で暮らすこととなった。人嫌いの激しい坊ちゃんを心配された奥様が、いちばん信頼出来る使用人をと言うことで私を遣わして下さったのである。その期待に応えるべく新しい使用人達にびしびしと檄を飛ばしては、別邸を整えていったのだった。
「昨日も言ったが今は騎士団を優先させる。縁談は全て見送るよう、母上にも申し上げた筈だ。」
それから五年の月日が経ち、少年の面差しは消え逞しい青年へと成長された坊ちゃんは、それはもう引く手数多だった。パーティに出席すれば忽ち女性に囲まれ、御前試合では観覧席を巡って女たちの仁義無き戦いが勃発する。
男なら誰もが羨む環境だが、当の本人は真面目を絵に描いたような仕事人間であった。故に社交界に浮名を流すことなく、縁談ばかりが舞い込んでくるようになったのである。
それを良いことに、早く孫が見たい奥様と早く爵位を譲って隠居したい旦那様が、坊ちゃんの結婚を画策しはじめた。
そして、その大役を担ったのがこの私なのだ。
「旦那様も奥様も、坊ちゃんを深く案じておられるのです。私のように婚期を逃してしまえば、お二人に要らぬご心配をおかけすることになるのですよ。」
この、背筋が凍りそうな美丈夫にここまで強く言えるのは、ご両親を除けば私くらいだろう。私にとっても坊ちゃんは掛け替えの無い、弟のような存在なのである。だからこそ早く奥方を迎えられて、可愛いお子を授かる姿を拝見したいと言うのに。
「聞いておられるのですか?坊ちゃん!」
すっかり閉じられた瞳は、聞く耳も持ってはくれないようだ。きっと明日も同じように流されてしまうのだろう。心が折れそうになるが、一流の女中として、必ずやこの任務を成功させるのだと強く自分を奮い立たせたのだった。
・・・・
「こんな所でどうかされたのですか?ベスティモーナさん。」
「これはグレイズ様。ご機嫌麗しく。」
貴公子の名高い第三騎士団団長が親しげに声をかけていたのは、私の女中だった。
「カーレルで良いといつも言っているじゃありませんか。」
「騎士団長様のお名前を一介の使用人がお呼びするなどと、恐れ多いことです。お許し下さいませ。」
産まれたときから傍にいる、私だけの女中。
母のように温かく、父のように厳しく、姉のように優しい人。
「相変わらず真面目ですね。まあ、そこが魅力的なんですけど。」
「ふふ、グレイズ様も相変わらずお世辞がお上手ですね。」
誰よりも私を理解してくれる人。
「主人に届けものがあったのですが、会議に呼ばれているようなので。一度邸に戻ろうとしていたところですの。」
「ふうん。バルフォン団長も酷い人だね。こんな美人の女中さんを置いて会議だなんて。僕なら、可愛い貴女を寂しがらせることなんて絶対にしないよ。」
誰よりも愛しい人。
「嫁き遅れの身にそのような言葉は勿体のうございますわ。貴方様をお慕いされる、可憐なお嬢様方にこそ相応しいでしょう。」
「貴女は自分の魅力を理解していないんだよ。貴女が許してくれるのなら、僕はいつでも貴女の夫になりたいと思っているのに。」
「…あまり、この年増をからかわないで下さいまし。」
誰よりも、憎い人。
予定より早く会議を終えて戻ってみれば、愛しい彼女が虫に集られている。何とも不愉快な光景に、思わず口角が上がった。
とうに盛りを終えた筈の花は、それでも男を惹きつけて止まない。王都に連れてきたことを少しばかり後悔するが、彼女のいない生活など耐えられる訳がなかった。それに王都で名声を得ることは、私にとって必要不可欠だった。
(私に女を勧めておいて、自分は他の男にそんな顔を見せるのか。ああ、なんて悪い女中だ。でも、もうすぐ終わる。こんな歯痒い思いをするのも、後少し、後少しで終わるのだ。)
頬を赤く染めた彼女を見送って、執務室へと戻った。
蝋燭に灯る炎に分厚い目録を翳すと、勢い良く燃え上がっていく。
愛しくて憎くて愛しいベス。私だけのベス。
貴女の<坊ちゃん>は、貴女に相応しい<男>になれただろうか。
貴女の為に強くなったこの身と、貴女の為に得た名誉。
何年もかかったが、これでようやく貴女に言える。
「結婚してくれるよね?私の可愛いベス。」
貴女の気持ちを踏み躙ってしまうことが、少しだけ苦しいけれど。
すっかり灰になった残骸を尻目に、うっとりと瞳を細めるのであった。
さらっと執着でした。個人的には楽しかったです。
7/14、続編<貴公子と女中>を投稿させて頂きましたのでそちらも宜しければ是非。