拝啓、××な君へ
少年王に対する周囲の認識。
「――いいえ、エイルハーレ殿。あの方は、弱い者が大嫌いなのですよ」
静かな眼差しで告げられた答えに、淡色の髪を持つ背の低い魔術師は、一瞬言葉を飲み込んだ。
――良い国だな、と思った気持ちは、魔術師――エイルハーレの掛け値なしの本音だった。
フルーウヴェトという名で呼ばれるこの岩地の王国が戴く王は、出身すら定かではないと噂される、一人の黒髪の少年である。人々の間に根強く残り、また決して否定されることのないその噂が存在して尚、彼が変わらず王として立ち続けることができるのは、その有り余る才能によるところが大きいだろう。
――ナツ・キリミエ。それがこのフルーウヴェトの頂点に立つ少年王の名前だった。
かの少年が王となってからは未だ二年しか経っていないらしいが、そのたった二年の間に、少年王は数多の施策を以てこの不毛の大地を立て直した。元より閉鎖的な国だったこともあり、ほとんど明確な状況など国外に知られることのない中で、ただ時折思い出したように零れ出してくる些細な情報が賛否両論揃った批判と共にひっそりと周辺国の間を這い回る、そんな奇妙な状況を作り出している当の少年王こそがつい最近旅先で出来た新たな友人だと知った時は、流石のエイルも言葉が出なかったものである。
あの怜悧で愛らしい知人の人間性を疑っていたわけではない。けれどエイルが初めて足を踏み入れたフルーウヴェトの街は、旅を続ける中でそれなりに多くの国を見ているエイルが驚くほどに、他に類を見ない『健全な』様相を呈していた。
子供は学び舎へ、大人は仕事場へ。そこに薄暗い闇など何一つとして存在せず、国と民は強靭な兵によって他国の侵略から守られ、また一切の侵略行為を行わない。貧富の差や身分制度は未だ根強く、努力は必ず報われるなどという綺麗事こそ通らないにしても、少なくとも努力する場と機会は誰しも平等に与えられた。国は自らが奴隷を作り出すことを禁じ、時折何らかの事情で国外から買い取られてくる奴隷は自身の対価を払う形で雇われて、年季が明けると同時に自由になった。傷病者は安値で病院に行けて、町はさり気なく子供や老人も歩きやすい造りになっている。
それなりに税は取られるが、支払ったものに相応する見返りは確実にあった。決して豊かに富んだ国ではないが、明日がまた少し良くなることを信じ、自らの足で歩いていく人々をそっと支えてくれる国だった。
――良い国ですね。ここには全ての影を打ち消すような強い光はないけれど、優しくて穏やかな気遣いに満ちている。
そう感想を言った魔術師に、『王の知人』の案内役として付けられた艶やかな青い髪の青年官吏がしばらく黙って返した言葉は、だからそれだけ意外だったのだ。
「……ナツさんは弱い人が嫌いなんですか? でも、それにしては随分この国は、そんな人たちに優しく見えますよ」
「そうですね」
青年官吏は頷いて、そうして続けた。
「けれどそれは、あの方が『王』である故に。あの方は基本的に寛容ですが、本当はとても好き嫌いが多いのだそうですよ」
「ナツさんが?」
エイルはきょとんと首を傾げて聞き返す。
「ええ。甘いものは好き。苦いものや味の濃いものは嫌い。料理をするのは少し苦手。他人の作った料理は好きじゃない。人間が好きじゃなくて、煩いのが嫌いで、動物はわりと好き。――弱い者が嫌いで、無知な者が大嫌い」
「…………」
エイルは思い出す。どんな小さな町や村にも、しっかりと整えられていた教育の場。勉学だけではなく、あちこちに武道や剣術を教える道場があって、多くの人間が通っていた。――あのほとんどは国営なのだと、目の前の青年が教えてくれた。
「弱いままでいる人間が嫌い。弱いと分かっていながら、成長しようとしない人間が嫌い。力が無いが故に、ただ踏みにじられるのを待つばかりの人間が嫌い」
温度のない目で民を見ていた。旅から戻った王の帰還を祝う祭りの中で、口々に己の名を呼んで称える人々を、ナツはまるで他人事のように頬杖を突いて眺め下ろしていた。
「――けれどね。もっと嫌いなのは、弱者を踏みにじって笑う強者なのだそうです」
――それでもあの少年王は、ただ『善き王』であり続けた。
兵には過酷な訓練を強いた。能のない官吏は容赦なく馘首した。国の守り手たる役職へと自ら就きに来た者たちに、 地位に相応しい役目を果たせと背中を蹴り飛ばした。――その理想を最も体現してみせているのが、当の少年王だった。
子供を好かなかった。大人を好かなかった。男を好かなかった。女を好かなかった。
それでも彼は、当たり前のこととして彼らを守った。何故なら、それが『王』の在るべき姿だったから。『王』である彼にとって、それは食事をするのと同じくらいの、そこに存在する上での義務だった。
「あの方は、弱者が幸せに生きられない社会が嫌いです。弱い者の存在を許さない社会が嫌いで、弱い者を踏みにじることを良しとする社会が嫌いで。何よりも、己が強さを振りかざし、弱者を虐げて笑う強者が大嫌いなのです」
「……ええ。僕もナツさんは、きっとそんな人なんだろうと思いますよ」
エイルは微かに笑った。
彼と道を共にした、決して長くはない旅路の間、あの夜色の少年はいつだって無感動に淡々とした態度だったけれど、弱い者を疎ましがったり辛辣な言葉を投げたりしたことは一度もなかった。盗賊を狩り奴隷狩りを狩り、そこから金品を巻き上げたりすることはあったけれど、だからと言って被害を受けた者たちを疎かにすることは断じてなかった。決して無条件には優しくも暖かくもない人だったけれど、必死で足掻く者たちが手を伸ばす道を、掴むこともできずに壊されそうな未来を、黙って静かに支えてくれる人だった。
――嗚呼、とエイルは小さく呟いた。
「ナツさんは、弱い人が弱いままでいられない世界が嫌いなんですね」
「そうだと思います」
青年官吏は微かに目を細め、苦く笑った。好きだ嫌いだとぼやきながらどこまでも公正に『王』として立つ少年王を、彼は誰よりも敬愛し、理解したいと思っていた。
――それを少年王本人は望んでなどいないのだろうと、心の中で分かっていながら。
「だから多分、あの方の行為は、優しさなどではないんです。そんな綺麗で柔らかなものと、一緒にして欲しくない」
王の側近として仕えている彼は、その王の過去を何一つ知らない。きっとそれを知っているのはただ一人、少年王の傍らにいつも控えている、あの真白の青年だけだ。寒気がするほど美しい、人形じみた容貌の――。
(――……嗚呼、けれど)
けれど、もしもそれでも推察できることがあるとするならば。
「――きっとあの方は、誰かに言って欲しかったんです」
――弱いままでも良いんだよ、と。
そんなにもがかなくても、強くならなくても、ちゃんと幸せになれるんだよ、と。
「あの方にそれを言ってくれる人間は、誰もいなかったのでしょうけれど」
誰も言ってくれなかったから、自分が言った。足掻いてもがいてそれでも弱い人々に、少年王は言葉にせずに無言で告げる。それはどこか、かつての少年王自身への手向けにも似て。
――温もりのない眼差しを、それでも彼は逸らさない。
何故なら、あのまだ幼い少年王が今より更に幼い頃。青年官吏もこの魔術師も傍にいなかった、守るべきものも守ってくれる者も誰一人持たなかったいつかの日に。
それでもきっと夜色の子供は、優しい世界を願ったのだから。