氷雪の王
主人公→友達:絶対の友愛と依存。
友達→主人公:ひたすら重苦しい執着。
BL表記だけど直接的な表現はありません。
ほんの一瞬鳴り響いた轟音は、余韻を残してふつりと消えた。
とりどりの花が咲き乱れる奥庭に、佇む影は一つだけ。文字通りの消し炭となって消えた人影が成り代わった人形が、硬い音を立てて彼の足元に転がった。
――はふ、と。
如何にも面倒臭そうに溜息をついて、この奥庭の主である彼――ナツ・キリミエは瞳を細めた。黒い髪に黒い瞳、実年齢よりも幾分か幼く見られる整った容貌は、一見少女じみていながらもどこか刃物のような鋭さがある。ばさりと衣装を翻して人形に歩み寄る少年は、その優美な仕草と裏腹に、ついさっき自身の支配する王宮に入り込んできた侵入者を容赦なく始末したところである。仕留めた人間が成り変わったと思われる人形を爪先で蹴り上げて掴み取れば、不快な魔力の残り香がした。
(またリエム・ファダルのスパイか……常々しつこくうろついてるとは思ってたけど、最近大胆になり過ぎだろ。いい加減邪魔になってきたなぁ……)
色々と謎の多いあの宗教国家。目障りな気配が近くにあるだけでも鬱陶しいのに、禿鷹の如く群がってくるとなればより一層気に食わぬ。単なる中継ぎのつもりと言えど、仮にも王と呼ばれる身なれば、うろつく害悪には対処をせねばならないだろう。
(分かっちゃいたけど、ストレスが溜まるよ)
望んでこの地位にいるとは言え、元より自分がそんな器たるような生まれ育ちをしていないことなど、ナツ自身が誰よりもよく分かっている。何故ならナツはこの国どころか、この世界の出身ですらない人間なのだから。
――ナツ・キリミエ。本名、桐宮夏。今年で十七歳になる彼は、今から五年前、己が生まれ育った世界から突然この世界へと落とされた、れっきとした地球産の日本人であった。
己の根本を形作る常識であった生まれ故郷を徹頭徹尾失って、望んでもいなかった新天地へと落ちた当初、ナツは自分の頭がおかしくなったのかと真剣に疑ったものだ。けれど存分に思い悩む時間すら許されず、流されに流されるばかりであった当時のナツに、冷静に状況と向き合い最善の選択を探すべきなどという批判が如何に軽薄で理不尽なものであったかは言うまでもない。何せこのナツの故郷とは似ても似つかぬ新たな世界は、何の意味も、何の意図も、理由も脈絡も因果すら無くただ不運が故に放り出されたナツに対して、決して優しいものではなかったのだから。
虐げられたこともあった。絶望に叫んだこともあった。
けれどそんなナツが、紆余曲折あった末にこのフルーウヴェト王国に根を下ろし、あまつこの国の王という至高の座にまで就いたのは、今から一年ほど前の話である。
勿論、ナツ自身が私欲のために国を欲したわけではない。その原因は、ナツがこの世界に来てから唯一共に居たいと願った友人が、この国の王の手に囚われてしまったことにあった。歴史の影に存在する異界からの『稀人』として莫大な魔力と夜色の髪眼を有するナツが当時のフルーウヴェト国王にその存在を知られてしまった時、ナツを庇って捕まったのがその友人だったのだ。
唯一無二の友を奪われて、ナツは激怒した。狙われたのは己の身柄ばかりではない。厄介なことにその友人というのが、訳あってその体機能を解明するだけでも充分に強力な兵器となり得る特異な身体を有しており、そのことを知った王が友人の身までも強欲な手に欲したとなっては、最早寛容でいてやる理由などどこにもなかった。王を排し、国ごとその手に落とすと決めたナツは、当時はまだ小さな燠火だったクーデター勢力に接触し、その中枢に入り込んだのだ。
――フルーウヴェトを落とすのには一年かかった。何せただ殺すだけなら己が手一つで事足りるものの、必要なのが後々重罪人として追われることのない立ち位置、そして『王位』と来れば、ただ王の首を手に玉座に座って継承を宣言するだけで済むという話でもない。幸いなことに当時の王の評判は最悪で、スラムで実父に対して憎悪と怨恨を燃やしていた王の落とし胤を見つけ、悪政に疲れ切っていた国民を味方に付けた後は、実にとんとん拍子で事が進んだ。クーデターのリーダーとして国民の期待と崇敬を一身に集めながら、その一方雑草でも刈り取るかのように微塵の温情もなく王族貴族の首を残らず切り落としてみせたのは、やはり友を奪われた苛立ちが自覚以上に大きかったためだろう。
それから首尾よく王座を簒奪し、無事に友人を取り戻した今になってもナツがこの国に留まっているのは、偏にその友人のためである。そも彼らがこの国に訪れた理由こそ、通常の医者や魔術では治せない異常を抱えた友人の身体のためであり、そのために国王という地位は何より都合が良かったのだ。
今もナツが纏うひらひらとした白い衣は、国の頂点に座る者に相応しく、よく見れば輝く青銀の糸で豪奢な縫い取りを施された非常に壮麗な一品だった。寒冷な気候の土地柄に合わせて何枚も重ねた衣は、一枚残らず肌に優しい最高品質。幾重ともなく手足に填められた銀の細輪はしゃらしゃらと涼しげな音を立て、大粒の碧玉をあしらった首飾りが光を弾いて胸元で揺れる様は、それこそ真昼の日差しの下にあってさえ夜の化生が顕現したかのように美しい。一見シンプルに見えて実際は国で一番金がかかっているだろうこの衣装は、内心故郷の実家で愛用していた芋ジャージよりはナツの気に入らなかったが、頂点に立つからには通さねばならない筋があることを知っていた。
じゃらじゃらと鬱陶しい装飾も我慢し、荒れた町を復興させ、農地を整え医者を育て学び舎を作り、けれど自身の顔を晒すのは最低限に。そうしてそれなりに苦労して、一つの国を纏めているというのに。
(どうしていらんもんが次々寄ってくるのかなあ……)
悪態を吐かれているわけでもないのに異様に腹が立つしょんぼり顔の描かれた身代わり人形を見下ろして、ナツは深々と息を吐き出した。確かリエム・ファダルは、ナツがやって来る前からこの国をちょろちょろしていたと分かっている。大方この国の魔術的素養に利用価値を見てでもいたのだろう、与し易かった愚王が斃れたことによりそれが潰えて、今度は新たに生まれた国と、治める王に目を付けた。
嗚呼、実に目障りだ。自分たちは何の利も提供しない癖に、使えるものがあると見ればどこからともなく湧いてくる。国も個人も関係なく、ただ自らの渦巻く欲望に巻き込まんとして。忌々しい、実に忌々しい――
「――――蛆虫共め」
ぐしゃりと握り潰した手の隙間から、小さな破片がぱらぱらと落ちた。砕けた人形が炎に包まれ、灰も残さず消失する。氷のように冷ややかな目でその光景を眺めていたナツは、ふと、くすくすと含んだ笑声を聞きとがめて視線を動かした。耳を撫でる響きは最高級の銀紗を想わせながら、その最奥に底知れぬほどの魅了と蠱惑を閉じ込めた美声。年の頃は十代後半から二十代程度か、小道の向こうから姿を現した白い髪の青年が、硝子細工のような透き通った美貌に穏和な微笑を刷いてナツを見ていた。
「随分と機嫌が悪いね。あの黒い集団が嫌いなのは同意するけど」
銀灰色の双眸をゆるりと瞬かせ、囁く美しい青年に、ナツの眉が顰められる。
「アルト。もう出歩いていいのか?」
「うん。朝から大人しくしてたから、大分具合は良くなったよ。やっぱりこの王宮は魔力に溢れてるね、外よりもずっと回復が早い」
にこりと笑って、アルト――ナツのこの世界唯一の友人であるアルトゥール・ラシャはそう答えた。白い指をすいと伸ばし、ナツの眉間をぐりぐりと刺激する。
「また皺。可愛い顔が勿体ない」
「嬉しくねーよ?」
分かって言ってるよねお前と言いたげにじっとりした目で見上げるナツは、年の割に小柄で幼く見えることを常々気にしている。この世界に来て数年はまともな生活を送れなかったこともあるが、ナツ自身が故郷特有の典型的な童顔民族の特徴を兼ね備えていたせいもあるのだろう。大丈夫だ人生死ぬまで成長期と自己暗示をかけて自分をごまかしてはいるが、多分それこそ魔術でも使って身長を伸ばした方がまだ希望があるに違いない。尤もナツがそれに気付いて試そうものなら、アルトがにこやかかつ強硬に制止を入れてくるに違いないが。
「回復するって言っても、調子が良くないことに変わりはないだろ。スパイだってここ最近増えてるんだ、出くわしたらどうすんだよ」
「スパイ――ああ、間諜のことだっけ。大丈夫だよ、僕だって多少は戦えるし、そうでなくても逃げるくらいなら何とかなるさ。それもできないくらい調子が悪いなら、ちゃんと部屋に籠ってるしね」
「……確かに、倒れたことはないけど」
むすり、と下唇を尖らせるナツの頬を、アルトは楽しそうに突いた。
「ナツが心配してくれるのは嬉しいけど、僕だってナツが心配なんだよ。僕に魔力を回して、研究も政務もしてじゃ身が持たない」
「オレは馬鹿みたいに魔力高いから平気なんだよ。政務だって半分以上アルトがやってくれてる」
異世界間移動の副産物である膨大な魔力は、そんなものが欲しいとすら思ったことのなかったナツにとって、アルトのために使うからこそ意味があるものだった。民や官吏からは画期的と称えられる数々の政策だって、ナツが故郷の知識を漁っては持ち出すアイディアを現実に当て嵌めて調整してくれるアルトがいなければ、早々に行き詰まっていたに違いない。
――ナツとこの世界を繋いでいるのはアルトだった。
初めて会ったその時から、アルトだけがナツを冷たい目で見なかった。この世界が大嫌いなナツに、それでも笑って頭を撫でてくれた。手を繋いで、名前を名乗って、ナツの名前を呼んでくれた。ナツのために泣いてくれたのは、アルトだけだった。気付いた時にはもう、ナツにはアルトしかいなくなってしまった。
――だって桐宮夏は、ただの小学生だったのだ。
本を読むのが好きだった。体育は好きだったけど、マラソンは毎年憂鬱だった。一緒にゲームセンターで遊んだりバッティングセンターに行ったりする友達が何人かいて、来年には一緒に中学生になる予定だった。志望していた公立中学は合格圏内に入っていて、入学したら携帯電話を買ってもらう約束だった。両親との折り合いも悪くなく、三つ年下の弟は最近生意気になってきたけれど、時々ゲームで対戦をしたりして遊んでいた。花見をするのが好きだった。日本の国花である桜は、自分にとっても世界で一番好きな花だった。
当たり前の幸せを生きてきた子供だった。親の庇護のもとで、暖かい灯の下で守られてきた子供だった。今日と同じ明日が来ることを、ごく普通に信じてきた子供だった。
――その全てを奪ったのが、ナツの大嫌いなこの世界だった。
平凡な日常を、平穏な未来を、何の意味もなくただ失って、『桐宮夏』は『ナツ・キリミエ』になった。喉が枯れるまで叫んでも、返ってくるのは奪われていった世界ではなく、モノでも見るような人間たちの冷たい眼差しだった。伸ばした手は踏み躙られた。人間を捕まえて首輪を付けて、金で売り買いするなんて、ナツの知っている『人間』ならば絶対にしないことだった。
暖かい灯はナツ以外の誰かのためのものだった。好きだった桜はどこにも無かった。息をするのと同じくらい当たり前に愛していた故郷の土も海も風も、千年歩き続けようが辿り付けない場所に行ってしまった。――この世界で、ナツにとってアルトだけが『人間』だった。
度を過ぎた依存だ。そんなことは分かっている。けれど、悪夢のような世界の中でたった一つ手に入れた温もりに縋ることの、一体何がおかしいのだろう。少なくともナツはおかしいとは思わない。この感情を否定する者がアルト以外にいるのなら、ナツは己の心を殺そうとするその言葉を全力で叩き潰すだろう。
「――お前を失ったら、もう本当にオレには何も無くなってしまう」
へにょり、と眉を情けなく垂れて、ナツは俯いてそう呟いた。
「――……、」
――ほんの一瞬、アルトの唇が弧を描いた気がした。けれどそれはナツが顔を上げる前に掻き消えて、薄桃色の唇はいつもの優しい微笑を形作る。そっとナツの頬を撫で、アルトはゆるりと眼を細める。
「――僕は居なくならないよ。ナツの傍にいる。友達だもんね? ずっと一緒にいるって約束した。世界で一番大切なナツ、僕のこの身体が壊れるまでは」
「死なせない!」
ぐっとアルトの腕を掴み、顔を跳ね上げたナツは睨むようにアルトを見据えた。
「おかしなこと言うなよアルト、絶対に死なせない! 絶対に! そのためにこの国を手に入れたんだ、この膨大な魔力があるんだ! この国に集まる大量の魔力を流用すれば、その器の寿命も延びる。完全に壊れ切る前に、オレが必ず治癒の方法を探し出してみせる!」
必死で訴えるナツを、アルトは苦笑しながら撫でた。まるで生に執着していないかのような態度に、ナツの苛立ちが募る。
――アルトゥール・ラシャの身体は、今もゆっくりと壊れかけている。
ナツはそれが許せない。友達だから、だけではない。ナツには、全力を持ってアルトを助ける権利と義務がある。
――だって、アルトをこんな身体にしてしまったのは、他ならぬナツなのだから。
忘れるものか、あの日のことを。奪われ続けた日々の中でたった一つ手に入れたと思った温もりすら、目の前で奪われようとした呪わしい日。ナツの目の前で血を吐き、蒼白な顔に苦痛を浮かべ、それでもナツのために笑ったあの日のアルトの鮮やかな笑顔を、ナツは決して忘れない。
『何で! 何で! 何で何で何でお前が! アルトが! 許さないそんなこと、置いて行くなんて、オレを置いて逝くなんて、絶対に絶対に許さない――!!』
あの日、喪失の恐怖に耐え切れなかったのは、死に向かっていたアルトではなく取り残されるナツの方だった。魂を切り裂くような絶叫と共にナツが発動させた未熟な魔導術は、果たしてアルトをこの世に繋ぎ止めた。――死にかけたアルトの身体から魂を引き摺り出し、魔導人形という器に繋げることで。
碌な知識も持たないまま膨大な魔力と力有る道具に任せてごり押しし、ほとんど無意識のうちに、歪んだ形で己の望みを叶えてしまったナツが、ヒトという器を奪ってしまったアルトに何と言われるか、考えて怖くなかったわけがない。けれど目覚めたアルトは笑ってくれた。死に際に見た異様に澄んだ笑顔ではなく、ナツが大好きだったいつもの優しい暖かな顔で、そっとナツの手を握って。
――良かった。僕はまだ、ナツと一緒に居られるんだね。
それが全てだった。
救われた、と思ったのだ。
掬われた、と思ったのだ。
ナツと手を繋いで、それを離さないでいてくれたのは、世界でアルトただ一人だけだった。だからナツは、アルトに全てを懸けると決めた。命も魔力も人生も、ナツの持っている何もかもを。
「――オレが、護るから。オレがアルトを護るから」
ぎゅう、とアルトの腕を握り締め。押し殺した声で訴えるナツを、アルトはゆっくりと抱き締める。落ち着かせるように背中を撫でてくる手に、ナツは詰めていた息をゆるゆると吐き出した。
「傍にいろよ。もっとちゃんと生きてくれ。オレ、お前がいない世界なんて嫌なんだよ」
「うん、勿論だよナツ。ごめんね、無神経な言い方だった」
触れる手は暖かくて。
耳を擽る声は優しくて。
眼を閉じたナツを腕の中に閉じ込めて、アルトは静かに笑っていた。
その笑顔が世界で一番暖かなものなのだと、ナツはずっと、信じている。