アリフ・ライラ・ワ・ライラ
本作品は、東日本大震災の復興支援チャリティ企画 One for All , All for One ……and We are the One
オンライン作家たちによるアンソロジー~ に参加した作品です。企画終了にともない、手元に戻ってきましたので再掲載致します。
ランプの灯がちらちら揺れる。部屋には乳香の甘やかな、それでいて爽やかな香りがたちこめている。男は愛の手首を掴んで引き寄せると、耳元で囁いた。
「今宵は、約束のアリフ・ライラ・ワ・ライラ(千と一夜) だ」
くすんだ翡翠色の瞳が愛の瞳を覗きこむ。強い力で引き寄せられて、体を離すことさえできない状態なのだが、それ以上に……愛を見つめるその視線の強さに、絡め取られてしまって目をそらすことができない。男はそんな様子の愛を楽しそうに見つめると、次いで、意地悪そうに笑んだ。
「そもそも、おまえには最初から選択肢などなかったのだ。もう分かっているのだろう?」
男は口づける。軽くついばむように、深く食むように、吐息さえも見逃さないかのように……
――千の口づけを、千と一の口づけを……
□■□
愛 が引っ越すことになったのは、就職して三年目のことだ。それまでルームシェアしていた友人が結婚することになって、愛は一人で暮らすことになった。
1DKとはいえ都内にある五階建てマンションの、しかも三階とはいえ角部屋などを借りることができたのは、ひとえに、その部屋には悪い噂があったからだった。
長い人で一カ月、短い人では一晩で、その部屋を解約するのだと言う。
「まぁ、私なら大丈夫でしょー」
自慢ではないが、愛には世の中で言うところの霊感がない。だから、自分ならきっと大丈夫。かなりお気楽な性格の愛は、その時はそう思っていた。
白を基調にして建てられたそのマンションは、十五年という築年数にしては小奇麗な佇まいをしていた。白い鉄製のドアを開けると、右手にユニットバス、左手にキッチン、硝子がはまった白い格子の引き戸を開けると、そこが居室になる。普通の六畳の洋間で、これといって特徴は無いのだが、一つだけ、左の壁にもう一つ引き戸が付いていた。ガラスがはまっていない白い引き戸だ。最初は押し入れかクローゼットなのかもしれないと思って、引いてみたが、その引き戸は一ミリだって動かなかった。
考えてみれば、その壁はこの建物の一番外側に当たる訳だから、仮にこの引き戸が開いたとしても、外壁に開いた戸口から呆然と下を見下ろすことになるだろう。
――何の為にこんな引き戸があるんだろう。
もしかしたら、このマンションは隣にも部屋ができる予定だったのかもしれない。でも計画が変更され、ドアが余ったに違いない。能天気な愛は、そう推測し、勝手に納得した。
動かない引き戸なら壁と同じだ。愛は、特に気にすることなく、その引き戸に沿うようにベッドを配置したのだった。
愛は最初の三週間を、その部屋で何事もなく過ごした。
朝、バタバタと仕事に出て、夜遅くに疲れ果てて帰ってくる。夕飯後のテレビもそこそこに、夜は早く眠ってしまうという日が続いていたせいかもしれない。
久しぶりにゆっくりとした週末、愛はのんびりと小説を読んでいた。引き戸の奥から聞こえてくる幽かな物音に気がついたのは、夜も更けた頃だった。
――シャムス・カマル・アリフ・ライラ・ワ・ライラ・ザマーン
抑揚のない、呟くような声。しばらくして、はっきりしたため息。次いで何か本のようなものをバサリと置く音。
――引き戸の向こうに誰かいる?まさか!
愛は慌ててベッドから飛び降りると、一旦、キッチンまで退却した。
――嘘、嘘でしょ。外を歩いている誰かの声だよ、きっと……でも……
折しも、時間は午前二時。
――いやいやいや、気のせいだよ。あ、もしかしたら気づかないうちにウトウトして夢を見ちゃったのかも。最近、仕事が忙しくて疲れてたから……
愛は何度も躊躇った後、何事かあった時の為に携帯と鮫のぬいぐるみのコージー君を抱えて、引き戸の隙間から向う側を覗きこんだ。変質者だったらコージー君で殴ってやろうと思ったのだ。
しかし、向こう側に人影は無く、温かみのある黄色い光がチラチラしているのが見えた。
――え? ランプ?
それは蛍光灯でも白熱灯でも、ましてやLEDライトでもなく、正真正銘の火による灯りのようだった。薄闇の中に、灯が暖かに揺れる。
愛は灯りにつられたように、引き戸をそっと引いてみた。引き戸は軽やかに滑って、慌てた愛をあざ笑うかのように勢いよく全開する。
向こう側は、誰かの寝室のようだった。しかし、このマンションの隣の部屋では決してない。何故そう言い切れるかと言うと、そこには緻密な彫刻を施した石柱と壁、床にはこれまた緻密に織り上げられた赤い敷物と、そして、大きくて豪奢にしつらえられたベッドがあったからだ。ベッドはともかく、この柱と壁はこのマンションではありえない。どこか異国の、例えて言うなら、アラビアンナイトの物語に出てくるような、そんな部屋だった。
愛は、自分の安っぽいパイプベッドから引き戸の向こう側にそっと足を下ろしてみた。硬質な石材の床は思ったよりも冷たくない。二、三歩足を踏み入れて、辺りをキョロキョロ見回す。灯りが少ないせいか、豪奢な部屋のそこここに闇が潜んでいる。
綺麗な飾り皿に立つ巨大な蝋燭。日頃見ている物と微妙に色合いや形が違う果物が飾り付けられた大皿。何が入っているのか分からない大きな金属製のポット。そのポットにも精緻な彫りが施されていた。その彫りの見事さに、思わずしゃがみこんでしげしげと見つめる。
――中身は何だろう。
ポットの蓋を開けてみようと視線を上げたところで、凍りついた。
「ハディード・ハディード! 動くな!」
背後から、巨大な剣の切っ先が愛の喉元に当てられた。
――え? えっと……なにかな? これは……本物の剣?
愛は恐々と見上げる。いつの間に居たのか、男が愛を見下ろしていた。
灰汁色の髪に翡翠の瞳、浅黒い張りのある肌、愛の後頭部にジャラジャラと当たっているのは、男が首から下げている金属製の首飾りのようだ。
「おまえ、ジン(精霊) ではないのか? どこから来た」
男の鋭い瞳には強い威嚇の色が表れていた。
愛が勤めている会社は、下水道や道路の地図を作ったり管理をしたりする会社だ。愛の仕事は、従業員の勤務管理などの事務がメインなので、月末は仕事が嵩んで忙しいが、日頃は残業などがほぼ発生しない快適な職場だ。
不快なことと言えば、愛の事を自分の秘書か何かと勘違いして、たまに職務外の仕事を押し付けてくる上司が居ることくらいだろうか。
しかし、その上司の更に上をいく、勘違い野郎の存在に、愛は憤慨する。
□■□
「おい、マナ、あれ」
男はベッド置かれたクッションにもたれて、否、ふんぞり返って手を差し出す。男の名前は、バースィル・イブン・シュレイマーン・アル・マリクという。二十五年間、愛の人生の中で一番尊大な男だ。
「あまり飲み過ぎると体に良くないですよ。太るし、依存性もあるとか、ないとか……」
バースィルは、不機嫌そうに愛の手からコー○をひったくると、ぶしゅっとプルタブを開けた。
バースィルは、ここメカルドニア王国の王様だ。愛の部屋の意味不明な引き戸は、メカルドニア王国の国王であるバースィルの居室の大鏡に通じていた。メカルドニアはジニア大陸の南東、海際に位置する小国だ。
ジニア大陸……つまり、それは愛がいる世界とは全く別な世界ということで、あの引き戸は異世界に通じていたと言う訳なのだった。
初めてバースィルの部屋に入ったその日、愛はあっという間に、持っていた携帯と鮫のコージー君を取り上げられた。
「ふん、特に武器は持っていないようだな」
剣を突き付けられて身動きの取れない愛の体を散々まさぐった挙句、ようやく納得したように、バースィルは剣を収めた。愛は頭の中が真っ白だ。寝る前だったのだ。当然パジャマを着ていた。白いネコ耳付きのモコモコパジャマ、しかもブラを付けていなかった。それなのに、そいつは容赦なく無表情に無遠慮にパジャマの中まで手を突っ込んだ。
「ちょ、なにすんの? やめて……」
男は眉一つ動かさず、身体検査を行った挙句、
「なんだ、普通に女か……謎の動物かと思った」と一言呆れたように言い放った。
なんて失礼なっ。
「うっ、うう、サイテー、この人、最低だし……変態だし……」
泣きながら文句を言う愛に、バースィルは顔を顰めた。
「最低で、変態で、胡乱なのはおまえの方だろう? ここはメカルドニア国王バースィルの居室であるぞ。妃でさえ、ここには入れたことがない。そもそもおまえは、どこからやってきたのだ」
愛は引き戸を振り返った。しかし、そこに引き戸は無く、精緻な細工を四方に施された大鏡があった。鏡ではあるのだが、そこに映っているのは愛の部屋だ。それに気づいたバースィルも鏡の中を覗きこむ。
「なんだ? これは……」
鏡に触れると、それはまるで液体でできているのかのように生ぬるく、しっとりと手に絡みつく。鏡をくぐると、一瞬にして愛は自分の部屋に戻ることができた。しかし、バースィルはそこを通り抜けられなかったらしい。愛が振り返ると、バースィルは鏡にぶつけた額を擦っていた。そして、こちらを睨んでしきりに腕を振りまわす。戻ってこいと言っているようだ。
――どうしよう……戻る? でも、あいつ剣持ってるし……
そう考えながら、引き戸の向う側を窺っていると、バースィルが突然何かをとって戻ってきた。そして勝ち誇ったように、それを愛に見せつける。
バースィルの右手には携帯が、左手にはコージー君がぶら下がっていた。
□■□
メカルドニア王国は、北に大国コニファ、西に大国ギンゴに挟まれた小国だ。小国でありながら長年安寧を保っているのは、この世界で唯一、魔法使いを輩出する土地だからだ。バースィルは二十五歳、メカルドニアの若き国王だ。バースィルの父、シュレイマーンは強力な魔法使いだった。しかし、バースィルには魔法使いとしての力があまりなかった。唯一できる魔法は、空気中の電気を集めて放出することくらいだ。下級の召使を脅かすぐらいはできるが、魔法を使える上級兵士や近臣などには、単なるこけおどしか、子どもの癇癪くらいにしか見られていない。
メカルドニア国王でありながら、大した魔法を使えないことに、バースィルは日々肩身の狭い思いをしていた。
だから、彼が、亡き父シュレイマーンの部屋で古の魔法が記されている古書を見つけた時、それが禁じられた魔法であることを知りながら、割と軽い気持ちで唱えてしまった訳なのだった。
――電気放出以外の魔法が使えるなら何でも良い。
しかし、すぐには何も起こらなかった。がっかりして古書を放り出した途端、ヘンテコな格好をした女が鏡の中から現れた。鏡の中から現れたのならば、それは精霊にちがいない。バースィルは精霊が恐れる「ハディード(鉄) 」という言葉を連呼した。しかし、その精霊は、特段恐れる様子も無く、その大きな漆黒の双眸で呆けたようにバースィルを見つめた。
「なんでこんな役に立たないやつが現れたんだろう?」
バースィルは二本目のコー○をグビグビ飲みながら、愚痴をこぼす。
「いい加減、携帯を返してくださいよ。簡単に次の携帯を買えるほど、私、裕福じゃないんですよ。部屋も掃除してあげたし、コー○も買ってきてあげたじゃないですか。コージー君はあげるって言ってるでしょ?」
愛は泣き言を並べる。
せっかく召喚した精霊なのだからと、バースィルは愛に掃除や洗濯やアイロンがけと、いいようにこき使っていた。携帯をモノ質にだ。
――もー、精霊じゃないっつの!
異世界へ通じる通路には決まりがあった。こちら側からメカルドニアへは何でも持っていける。しかし、メカルドニアのものは、例え人であっても物であっても、こちら側に来ることができなかった。
「どうして俺は向こう側に行けぬのだ。つまらん。おい、これは画面が小さすぎる。もっと大きな画面のを買えんのか?」
バースィルは手にしたテレビのリモコンを振りまわす。こちら側にある電化製品が珍しいようで、あれやこれやバースィルの部屋に持ち込ませていた。お陰で、様々な家電のコードで、愛の部屋とバースィルの部屋をつなぐ通路は閉じられなくなっていたし、特に気に入りのテレビは、ほぼバースィルの所有物と化していた。
――大画面テレビなんか買える余裕があれば、二代目の携帯を買って、こんな国からオサラバしてるよ。
愛は一人ごちる。
千と一夜、それが古の魔法の有効期限だ。
有効期限ぎりぎりまで、バースィルは愛をこき使うと決めているらしい。
千と一夜……二年半以上だ。冗談じゃない。そんな長い間、剣を振りかざす奴の小間使いなんてまっぴらごめんだ。それを知って、愛は当然そう考えた。つまり、とっとと、盗られた携帯をあきらめて、もう一台買ったのだ。なんて痛い出費。ところが、事態はそれで終わらなかった。
愛の部屋の電話が鳴る。寝ていようと、風呂に入っていようと、食事をしていようとお構いなしだ。バースィルは教えた訳でもないのに、愛から取り上げた携帯を使って呼び出しをかけるようになった。
「ふふん、この高木眞人とか言うやつ、おまえの恋人か?」
バースィルは意地悪気に、携帯のアドレス一覧を開いて向う側から愛に見せつける。
――た、たたた、高木先輩のアドレスが……。
最近、ようやくゲットした憧れの先輩のアドレスが引き戸の向こう側に提示される。
「どうしてやろうか、削除するか……」
バースィルは削除ボタンを押す。携帯が「削除しますか?」と訊いている。
――ああああ、なんてひどい……。
「いやいや、やめよう。そんなことよりも、もっといいことをしよう」
バースィルは、それこそ本物の悪魔のように笑むと、メール作成画面に切り替えた。
「俺の女に手を出すなと、メールしておこう」
――なんだってこいつは、取説なしに携帯を使いこなしているのだ?
呆然とする愛に選択肢は無く、結局愛は、千と一夜の間、OLとバースィルの精霊としての二重生活を送ることになったのだった。
バースィルが愛を呼びつける理由は様々だ、コー○を買って来いだの、何か珍しいものを見せろだの、お忍びでメカルドニアのスーク(市場) に行くからお伴をしろだの、つまらないから何か話して聞かせろだの、実に勝手きわまりない。
「バースィルっ」
命令されて、ベッドの上でバースィルの腰を揉んでいると、突然、上下を入れ換わって押えこまれた。
「おまえは、俺のジャーリアなんだろう?」
切れ長の翠色の瞳が愛の瞳を覗きこむ。灰汁色の髪がはらりと愛の頬に落ちて、くすぐったい。鼻筋が見事にとおっていて、バースィルは無駄に美系なやつだ。見とれたまま、思わず「はい」と言いそうになって思いとどまる。
――ここで、気負けしてはいけない。分からないことはちゃんと訊くっ
「……ジャーリアってなんですか?」
「知りたいか?」
にやりと悪魔的に笑うバースィルに、愛はゴクリと唾を飲む。
「なぁ、賭けをしないか?」
「賭け……ですか?」
――ジャーリアの意味はどうしたっ!
心の中で叫びつつ、愛は問い返す。
「千と一夜が終わるまでに、おまえが俺のジャーリアになりたいと思ったら俺の勝ち。そう思わなかったらおまえの勝ちだ」
「だから……ジャーリアってなんですか?」
「奴隷だ」
愛は呆然とバースィルを見上げた。
――あ、危ないところだった……。
「はい」って言ってたら、私、どうなってたんだろう。
後で王宮の人に聞いたのだけれど、ジャーリアとは単なる奴隷ではないらしい。様々な才能に恵まれた才女がなるもので、その人の所有財産になるのだとか。歴代王の中にはジャーリアを妾妃にしていた王もいるらしい。しかし、所有財産ならば、売り払うことだってできる。愛は盛大なため息をつく。
こんな風に書くと、バースィルは非常に暇であるように思われるかもしれないが、王であるバースィルは結構忙しい。週末に丸一日バースィルを監視してみて初めて分かった。
「王宮の中を歩き回るのは構わぬが、その胡乱な衣装を改めよ」
バースィルがそう言うので、ジャージの上下をメカルドニアの女性が着る一般的な衣装に改める。メカルドニアの女性は、アラブの女性のチャドルように顔を隠すことはなかったが、ほぼ常時、ベールのような布を被っている。インドの女性が被っているレヘンガに似たようなものだ。バースィルが用意してくれた衣装は、上品な紅色に、濃い黄緑色の縁飾りと刺繍が施されていた。
許される限り、あちらこちらを見て回る。王宮の人たちはみな、愛の事を本気でバースィル付きの精霊だと思っているらしく、誰もが愛の事を精霊マナと呼んで礼をとった。
「精霊マナとやら、バースィル様が冷たい飲み物をご所望です。すぐに用意なさい」
ある日、青いレヘンガを纏った美しい女性が愛を見るなりそう言った。
――バースィルは、また煮詰まっているらしい。
愛はため息をつく。バースィルは仕事が煮詰まってイライラすると、いつも氷入りの冷たい飲み物を欲しがる。メカルドニアは暖かい国なので、氷は貴重品だ。お陰で、愛の部屋の冷凍庫には、いつも氷がたくさん常備されるようになった。
「場所はどこですか? お持ちします」
「私が運びます。用意だけしてくれたら良いのです」
愛は快く、氷入りの○ルピスを用意して、女に持たせた。
「あなたは、いつでもバースィル様の居室に勝手に入っているのですか?」
居室の外で待っていた女が、険のある目で愛を見つめる。
「ええ、まぁ」
――だって、私の部屋はここを通らないと行けないんだし……
「あなたは、一体何者です? 本当に精霊なのですか?」
「はぁ、どうでしょうね……」
愛は笑ってお茶を濁す。自分は正真正銘の人間であって、精霊などではないと思っているのだが、鏡から現れる人間を精霊と呼ぶのならば、愛は間違いなく精霊だ。
「あなたは、バースィル様の何なのです」
その人は、美しい顔を歪めて、更に愛を困惑させる質問をした。
「……さぁ」
愛は困惑する。
バースィルの存在は反則だ。
愛は早くに両親を亡くして祖母に育てられた。その祖母も既に亡くなっている。愛は天涯孤独な身の上だった。愛は人間なので、生きていれば辛いこともある。そんな時、どうした、大丈夫なのかと声を掛けてくれる人に、心を許さないでいられる人などいるだろうか。
バースィルがどんな気持ちで愛を抱くのか訊いたことは無い。愛自身も、バースィルに抱かれて、どうしてこんなに満たされてしまうのか、深く考えたことがなかった。ただ、お互いに住む世界が違う人間だと、それだけを理解していた。
「おいマナ、今日のあの飲み物はなんだ?○ルピスのようだったが、コー○のように少しピリピリした」
夜遅くに居室に戻ってきたバースィルは、執務用の衣装をバサバサと脱ぎ散らかしながら問いかける。愛はそれらを一つ一つ拾って片づけながら返答する。
「○ルピスのソーダ割りですよ。お気に召しませんでしたか?」
「いや、うまかった。他の大臣たちも気に入ったようだったぞ」
「え? 大臣たち?」
てっきり、あの女性とバースィルが一緒に飲むのだと思っていた。
「ああ、二人分あったから、もう一つは飲みたい奴が飲んで良いと言ったんだ。そうしたら、みんなで回し飲みしていた」
「なんだ、それなら人数を言ってくれたら作ったのに。私、てっきりバースィルとあの女性が飲むんだと思って二人分しか用意しませんでしたよ」
「あんな贅沢な物、全員に用意する必要は無い。あの女性とは?」
「あの瑠璃色のレヘンガを纏った綺麗な人ですよ、金髪の……」
「マルジャーナか。あれは、俺の第二王妃だ」
「へぇぇ、ちなみに、第何王妃までいらっしゃるんですか?」
愛は遠い目で問う。
「気になるか? おまえの国は、一夫一婦制だからな」
「どこでそんな情報を……。いえ、バースィルは王様なんだし、一夫多妻でも私はちっとも驚きませんよ。向うでもそういう国はありますしね」
「俺は、一般論ではなく、おまえが気にするかどうかを訊いているのだが」
「私が気にしようが気にしまいが、何も問題ないでしょ?」
不思議そうに首を傾げて問い返す愛に、バースィルは小さくため息をついた。
□■□
愛がメカルドニアでの二重生活を始めて一年が過ぎた頃、西の大国ギンゴからきな臭い話が舞い込むようになった。
「マナ、戦争になるかもしれない。もし、大鏡に俺の赤いマントが掛っていたら、この部屋には絶対に入るな」
「……分かりました。でも、どうしてギンゴが攻めてくるんです?」
不安で声が震える。
「ギンゴは、この土地が欲しいのだ。海に出やすくなるし、何よりも、ここは魔法使いを輩出する唯一の地だ」
魔法使いになる為には、血筋が何よりも大事なのだそうだ。そして、不思議なことに血筋だけでもなれない。このメカルドニアの地で、修業することが必要なのだ。
「マルジャーナを覚えているか?」
「第二王妃様ですね?」
「彼女はギンゴの出身なのだ。ギンゴは彼女と俺との間の子を次期国王にと望んでいる」
「なんだ、じゃあいざとなったら、その望みを叶えればいいんですね?」
そうすれば誰も死ぬことは無い。バースィルも。
「しかし、残念ながら、彼女と俺の間には子がおらぬ」
「……」
「おまえ、俺の子を産む気は無いか?」
「……なんでそんな話になるんです?」
「おまえとの子なら、気楽に愛情を感じられるような気がするのだ。案外強力な魔法使いになるやもしれぬし……」
「そんなの何の根拠もないじゃないですか。それに愛情を注ぎたいなら、第一王妃とのお子さんに注いだらいかがです?」
バースィルには、第一王妃との間に王子と王女が一人ずついる。
「……まぁ、それでも良いのだがな。弟妹になる訳だから」
バースィルは苦笑する。
「はい?」
「あれは、形式上は俺の子ということになっているが、本当の父親は俺の父親だ。その証拠に、俺は第一王妃に指一本触れたことがない」
なんじゃそら。
「はぁ、王家ってフクザツ……ついていけません」
そう言って、ため息をつく愛に、バースィルは肩を竦めて俺もだと笑った。
――千と一夜目、私はどうしたいと思うんだろう。
バースィルと会えなくなることも、ジャーリアになることも、愛にはどちらもピンとこなかった。
□■□
その日の夜、バースィルの居室に入ろうとして引き戸をくぐった愛は、行く手を赤い布に遮られた。バースィルのマントだ。幽かにバースィルの匂いがする。
――ギンゴが攻めて来た?
それから幾日も、そのマントは掛けられたままで、愛はハラハラとした気分で毎日を過ごしていた。一週間が過ぎた頃、どうにも心配でいたたまれなくなった愛はマントをかき分けてバースィルの部屋に入りこむ。そして言葉を失った。
荒れ果てた部屋。何かを探したのか本棚の本という本が散乱している。ベッドを見て愛は凍りついた。ベッドは誰かが寝ているようにシーツが盛り上がっているのに、しかし、その中央には深々と剣が突き立てられていたのだ。
「……バースィル? 違うよね……」
震える指先で、そっとシーツを剥がす。そこにはバースィルがいつも着ていた部屋着がはみ出している。
「嘘だ……」
愛は放心して座りこむ。ふと、ベッドの下を見ると、古い魔法の本が落ちていた。何気なく拾い上げると、折り目がついていてすぐに開くページがある。そこには、禁断の魔法の呪文が書かれていた。
<精霊を召喚する魔法>
シャムス・カマル・アリフ・ライラ・ワ・ライラ・ザマーン
愛の部屋から初めて聞いた言葉だ。震える指で文字をなぞりながら、更に読み進む。
精霊を召喚できる期間は、千と一夜の間
<警告>
その期間内に、精霊からの心からの愛情を得られなければ、召喚した者は消滅する。
愛の手から、古書がバサリと落ちた。
――どうして? どうしてバースィルは、このことを黙っていたの? もしかして、このせいで、バースィルは……。
「――どうして?」
涙が零れ落ちる。
泣きながらベッドの上の膨らみに取り縋った。そこには温もりの欠片も感じられない。
「嫌だ、バースィル、嫌だよ。死んじゃ嫌だ。ジャーリアにでもなんでもなるから、死なないで! バースィル……どうしたらいいの?」
愛は泣きじゃくりながら、シーツの膨らみを撫でる。
「愛してるの。だから、死ぬ訳ないのに……どうして? いつもみたいに命令すればよかったじゃない! 私どうすればいいの? 教えてよ!」
背後で、ドアの開く音がした。
「俺の事を心から愛せと言ったら、おまえは俺を愛したのか? 命令して愛してもらっても、それは心からの愛情ではないと思ったのだがな」
意地悪そうな嗤い顔、だけど、今一番愛が見たかった顔だ。
「バースィル!」
愛はバースィルに駆け寄るとしがみついた。
「この部屋は、王宮内のスパイをおびき出す為に使ったのだ。心配したか? さて、アリフ・ライラ・ワ・ライラの今宵、スパイは無事掴まり、俺の可愛いジャーリアは手に入った。宴といくか。別の部屋を用意している」
バースィルは愛を抱き上げると、晴れ晴れと笑った。
(了)
(追記、5/25修正あり(ぽぽ様への返信含みます))
4/28 に拍手にて以下のコメントをいただきました。
「アラビア語で千一夜はアルフ・ライラ・ワ・ライラ(alf laylat wa laylat」(特殊文字は略)だとのこと。
ぽぽ様、ご指摘、ありがとうございました。
また、再度拍手にてのご連絡、本当にありがとうございました。作者自身が浅学なせいで、読んでくださった皆さままでが間違った情報のまま記憶されることが、怖かったので、ご指摘くださって本当に助かりました。お陰で読み上げてくれるサイトがあるなんて知りましたし(笑)。
一度ばかりか、再度お越しくださり、拙著を読んでくださったことに、ただただ感謝致します。図々しいですが、ぽぽ様の中で、この作品がいつまでも生き残れますよう祈っております。 招夏(拝)
少し説明させていただきますと、私自身はアラビア語をほとんど知りません。そこで、参考文献として「アラビアンナイト99の謎」矢島文夫著にあった発音表記を使用させていただきました。そこには「アリフ・ライラ・ワ・ライラ(千一夜)」と使われていたのです。コメントを下さった方の言では、これでは別の意味にもとられてしまうとのこと。
…なのですが、困りました。この言葉はタイトルにまでしてしまったので…(-_-;)。まぁ、これは異世界トリップものであって、厳密なアラビアではないので、その辺は大目に見ていただけたら…と思います^^;。
(追々記)
えと、ネットで発音について調べてみました。アラビア語表記はこちら→「ف ليلة وليلة」になります。 ラテン語化すると「Alf Layla wa Layla」になるそうです。発音を聴きたい方はこちらのサイト→ http://www.ispeech.org/text.to.speech?link=http://www.ispeech.org/text.to.speech%3F%3Fvoice%3Darabicmale%26action%3Dconvert%26speed%3D0%26text%3D%25D8%25A3%25D9%2584%25D9%2581%2520%25D9%2584%25D9%258A%25D9%2584%25D8%25A9%2520%25D9%2588%25D9%2584%25D9%258A%25D9%2584%25D8%25A9 で、アラビア語を選んでをف ليلة وليلةをコピペしてplayを押すと、男性が読み上げてくれますよ~^^
私の耳には、アリフにもアルフにも聴きとれるのですが、どうでしょうか^^;。 そもそも母音が五つしかない日本語に直すことに無理があるのでは…という問題もあるようですし、地域差というものも考えられます。ちなみに、沢田研二さんの歌に「 アリフ・ライラ・ウィ・ライラ 〜千夜一夜物語〜」というものがあるそうです。これはウィになっとるな~(^_^;)
以上、ご参考までにしていただければと思います。
最後に、これらの情報をくださった檀敬様、りい様、悠希様、かみたかさち様、ページのP様 ありがとうございました。招夏(拝)