第四章 3ON3!
焼香の匂いが、連太郎の鼻を塞いだ。
抑揚のない坊主の経だけが、ひたすら彼の耳に飛んでくる。
学校外では決して着用しない制服を、今日は珍しく着崩さずに纏っていた。
「誰にも看取られなかったんですってね」
「奥さんとは離婚していたんでしょ? なんでも、仕事一筋で家庭を顧みなかったとかで」
「唯一お見舞いに来てくれた元生徒さんも、間にあわなかったって」
葬式の最中にも関わらず、中年女性たちの無責任な会話が連太郎の耳に届く。
――クソッ、クソッ!
拳を握り、連太郎は飾られた矢島の写真を見た。
相変わらず、優しい表情だった。病院では少しやせ細っていたが、写真に写っている顔は、連太郎の知っている大らかなものだった。
ひたすら、連太郎は自分を責め続けた。あいつらに邪魔されず、もっと早く病院に辿り着いていれば……。
連太郎はしばらく学校にも行っていない。体調が悪いからと仮病を使っていた。それは高校生活で初めてのことだった。
「ここ、いいかな?」
連太郎の隣に、誰か座った。女性の声だったが、それが誰かなんて最早興味もなくなっていた。
「ねぇ、鉾田君」
隣の女性が呼びかけたが、連太郎は無視をした。返事をする気なんてあまりなかった。
「ねぇ!」
――あれ?
何故、この人物は自分の名前を知っているのだろうか。
連太郎は、恐る恐る彼女の顔を見た。
「えっ!?」
彼女の姿を見て、連太郎は驚いた。
彼女のイメージにそぐわない、黒い喪服を着ているが、そこにいたのは担任教師の葉月ユリナだったからだ。
「なんで葉月が、ここに?」
連太郎が尋ねると、ユリナは口の前に人差し指を立てて、しっと息を吹いた。
「今はお葬式の最中でしょ」
「あ、そうだな……」
しばらくして式が終わり、連太郎はゆっくりと帰路を歩いていた。隣にはユリナも一緒だ。
「で、なんで葉月がここにいるんだよ?」
「んー、まぁ、色々とね」
ユリナは連太郎に笑顔を浴びせた。連太郎は相変わらずぶっきらぼうな顔をしていた。
「素敵な先生だったね」
「ああ……」
連太郎は俯いた。
「もう、鉾田君らしくないよ」
「何だよ、それ……」
「先生が好きになった鉾田君は、そんな顔しないよ」
――ドクンッ。
一瞬、連太郎の胸が高鳴った。
「お、俺だってこんな顔することだってあるって」
「ふぅん」
「でも、まぁそうだな。俺らしくない」
連太郎は顔を挙げた。無理矢理だったが、なんとか笑顔を作った。
「あ、そうだ。これ……」
ユリナは懐から何かを取り出した。それは一冊の本だった。
連太郎は、その本に見覚えがあった。
「これ、貸していた図書室の……」
最近ドラマ化された、人気の恋愛小説。連太郎が以前見舞いに行った際、貸していたものだ。
「鉾田君に渡してくださいって、病院の人に頼まれたの」
ユリナから本を受け取り、ふとその本を眺めた。
連太郎は気がついた。最後のページに、栞が挟まっていた。
「なんだよ、読み終えていたんだな」
連太郎は笑った。そして、ポロポロと涙がこぼれていた。
しばらく泣いた後、涙を拭ってユリナのほうを見た。
「ヤジセンはさ、あれでも結構怖い先生だったんだぜ」
「えっ、そうなの?」
「ああ。その上腕っ節が強くて、俺でも腕相撲勝てなかったぐらいだし。でも、あいつのことを嫌いな生徒は一人もいなかった」
「そう、なんだ……」
今度はユリナが悲しげな表情を浮かべた。
『私はね、人を愛することのできない男なんです』
病室で一度会った際に、矢島がユリナに向けて放った言葉。
――そんなことはありませんよ、矢島先生。
――あなたは、最高に生徒たちを愛した先生でした。
――その意志は、きちんと生徒に伝わっていますよ。
ユリナは滲んだ涙を拭いながら、連太郎を見た。
――あれ? 鉾田君って……。
「ん? どった?」
「ううん、なんでもない」
一瞬見えた、鉾田の強い顔。
それはあの公園で見せた表情に似ていた。
――ちゃんと彼は、人を好きになることができるようになっていますよ。矢島先生。
――そんな彼が、私は、大好きです。
ユリナは夜空を仰ぎながら、心の中で呟いた。
真っ暗な空に、星空が瞬いていた。人は死んだら星になる、などという迷信を、今だけ信じたくなった。
連太郎は成長している。それは、担任である自分が保障する。
ユリナは決心した。
今度は教師として、そして一人の女性として、自分は彼を精一杯愛してみよう、と。
――あなたの意志、今度は私が受け継ぎます。
ユリナは星空に向かって、心の中で約束した。
「あのさ、葉月」
感傷に耽っていると、突然連太郎が呼び止めた。
「え、な、何?」
「あ、あのさ……」連太郎はぽりぽりと、照れくさそうに頬を掻いた。「悪いな、
ここのところズル休みしていて」
「あ、ううん。それはいいの。こういうことだって、私ちゃんと分かっていたから」
しばらく、沈黙が流れる。
「あのさ、明日はちゃんと学校行くから」
「そ、そうだね。無理はしないでね」
「それと……」連太郎はきりっと前を向いた。「忘れていないよな、明日が、その、約束の二週間目だって」
そうだ――。
ここのところ、いろんなことがありすぎて忘れかけていたが、例の宣戦布告の件がまだ残っていた。
本当に、濃い二週間だったと連太郎は記憶している。
「えっと、それは……」
「明日、あそこに来てくれ。いつもの空き教室に」
連太郎は強い表情で、親指をぐっと立てた。
「実はもう俺なりに結論は出ている。けど、今夜、一晩だけ最後に考えさせて欲しいんだ」
ドクンッ!
ユリナは緊張のあまり、激しく胸を高鳴らせた。
「分かった。約束よ」
「ああ、オーケー。それじゃあ、また明日な」
走り去っていく連太郎を見て、ユリナは思った。
彼がどんな結論を出すのか、正直怖い。でも今の彼は、誰よりも強く、誰よりも正直に答えを出すことのできる生徒だ。彼女はそう信じている。
だから――。
連太郎が出した答えを、真正面から受け止めよう。ユリナは決心した。
無人の空き教室に入るなり、連太郎は窓を開けた。
夕日が、高いところにある。沈むにはまだ時間が掛かるかもしれない。
夏が近いこの時期にも関わらず、蒸し暑さがあまり感じられなかった。代わりに窓から入り込むそよ風が、教室内に清涼感を漂わせた。
全ては、ここから始まった――。
初めはただ、ユリナに付き合わされて文集の編集作業を手伝っていただけ。
そして、二週間前、ここでユリナに告白された。本来ならばありえないはずの、担任教師からの告白。一旦はそれを断ったものの、彼女は諦めきれずに、真雪や咲海とともに、宣戦布告をしてきた。「あなたたちに、最高の恋をさせてあげるわ」と。
その間、彼女たちがやってきたことはただひとつ。自分の本気を見せてきた、ただそれだけだ。
「ったく、ホントにメンドくせぇ女どもだったな」
「ふっ、まったくだな」
「でも、楽しかったよ」
いつの間にか、幾重と春馬が教室に入っていた。
「お前ら、どうしてここに?」
「僕たちも一緒だよ」
「ここまでやって、結論を出さずに、というわけにもいくまい」
三人は顔を見合わせた。
あの告白の日も、こうして先に男子三人がここに集ったっけな――。
「全く、あいつらの本気には圧倒されたな」
「ホント、だね。でも、おかげで僕たちも本気になれた」
「だな」
短くも濃い二週間。思い返せば、色々な出来事があった。
――噂が広まり、学校中の話のタネにされた。
――真雪が突然、幾重の部屋へ夕食を作りにきた。
――桃子に問い詰められ、幾重のもうひとつの人格が現れた。
――ファミレスで、春馬の中学時代の同級生と遭遇した。
――ヤジセンの見舞いで、彼から本気の恋をしなさい、と言われた。
――暴走族に襲われ、みんなで奴らと戦った。
――そして、ヤジセンが亡くなった。
この二週間で、色々な出来事があった。思い出しても、思い出しきれないほどだ。
「お前らは出たのか、結論?」
連太郎は二人に尋ねる。
「ああ」
「僕も」
二人とも強気な表情で、顔を見合わせた。
風が少し強くなってきた。
しばらく待っていると、戸が開いた。そこから三人の女性が、中に入ってきた。
「お待たせ」
「あんたらの答え、聞きに来たよ」
「大丈夫、私、どんな答えでも受け入れるよ」
――さわっ。
風が、そっと六人の間を吹きぬけた。
連太郎は息を吸い込み、ゆっくりと声を出した。
「俺、あれからずっと考えていた。あんたたちの、本気の恋、どうすれば受け止められるんだろう、って」
連太郎の発言に、幾重も、春馬も、こくりと頷く。
「でも……」
一瞬、風が止まった。
揺れていたカーテンも、動きをやめる。
ユリナも、真雪も、そして咲海も、黙って彼らを見つめていた。
「正直、やっぱ分かんねぇんだ。本気の恋愛、なんて」
連太郎の口から溢れたのは、意外な言葉だった。
「ちょっと、それって……」
一同は唖然とした。
本音を言えば、三人とも勝てるような気でいた。彼らは充分、恋愛とはどういうものか学んだものだと思っていたからだ。
「僕も、まだ。まだ、ダメなんだ……」
幾重も、手を握り締めながら、弱々しく返事をする。
「俺も、だ。正直なところ、まだ恋愛とはどういうものなのか理解ができない……」
三人が返事を終え、女性陣は黙り込んだ。
――やっぱり、彼らに私たちの本気は伝わらなかったのかな。
そよ風が、さぁっと流れた。
カーテンが揺れ、その間から夕日が照らされる。
まだ、夕日は沈んでいない。彼女らはそっと外を見つめた。
「でもさ」
連太郎の言葉が、沈黙を打ち破った。
「俺、分かった。やっぱりお前らと一緒にいると楽しいって」
――えっ?
夕日が連太郎を赤く染める。彼の背後から、再び風が流れる。
「僕も、そう。姉さんとも、今まで以上に親密になれたし」
「俺も、だ」
「だからさぁ」
連太郎たちは、横一直線に並んだ。そして……。
「お友達から、はじめましょう!」
三人同時に、深いお辞儀をした。
風が止んだ。
本来ならばここでまた静寂が訪れる、はずだったが……。
「ふふふふふ。なるほど、ね」
「あははは、何だよ、それ?」
「そ、そういうことね。緊張して損したわ」
三人は同時に笑い出した。おかげで、この場の静寂は見事に打ち破られた。
「わ、悪いかよ!」
「悪くはないよ、全然いいよ!」
ユリナは笑い、そして思いっきり連太郎に抱きついた。
「わ、は、離せよ、クソ教師!」
「ダーメ! お友達でしょ、私たち。スキンシップ、スキンシップ!」
顔をユリナの胸に押さえつけられ、連太郎は窒息寸前で慌てふためいた。
そんな二人を余所に、春馬と咲海が顔を見合わせる。
「まぁ、何だ……」
春馬は無表情をなんとか保った。しかし、内心彼が照れていることは咲海にはすぐ理解できた。
「はっきりいいなよ」
咲海に促されるまま、春馬は深呼吸をして、言葉を発した。
「これから、よろしくな」
「うん、よろしく!」
お互いに微笑みあい、二人はそっと握手を交わした。
「姉さん、僕も……」
「何かしら?」
幾重は強い眼差しで、真雪を見た。彼女はいつもどおり、凛とした佇まいだった。
「これからは、僕が姉さんを守る。まだ弱いかも知れないけど、もっと強くなって、そして、僕なりに姉さんが納得できる答えを出す」
「そう、なるほどね……」
真雪の長い髪が、そよ風にそっと靡いた。
一瞬、優しい彼女のオーラに浸る幾重。
すると彼女は……。
「ありがとう、幾重」
そっと、幾重を抱きしめた。
夕日が、ゆっくりと傾いた。
優しいそよ風がまるで彼らを祝福するかのように、そっと吹き流れた。
その瞬間、
「はいはーい、ばっちり録画させていただきましたよ」
突然、教室の外から桃子が現れた。
彼女の手には、以前と同じデジカメが握られている。
「って、おい、仙石!」
「きゃっ、ちょっと鉾田君!」
ユリナをどかして、連太郎は桃子に詰め寄った。
「お前また隠し撮りしやがったな!」
「ん? まぁいいじゃん。ばっちり撮れているよ」
桃子はデジカメを操作し、先ほどの光景を再生した。
『お友達から、はじめましょう!』
三人が並んでお辞儀をするシーンが、高画質で流れた。
これを見るなり女子たちはぷふっと吹き出した。
「あははは、やっぱりこのシーン最高!」
「『お友達から、はじめましょう』なんて、鉾田君らしくないね」
「ま、まぁ、いいじゃないの。彼らは彼らなりに、頑張ったと思うわ。でも、やっぱり、はははは……」
女子たちの笑いに、男子メンバーは顔を赤らめた。
「やっぱり、断るべきだったな」
「俺も、さすがに後悔している」
「姉さん、今からでも取り消していいかな?」
三人は頭を抱えて唸った。
それに対し、女性陣は
「ダーメ、取り消せません」
「幾重、武士に二言はない、わよね?」
「へぇ、望月そういう奴なんだ。じゃあ、あのことみんなに言いふらそうかなぁ」
三人は思い思いに、悪態を吐く。
「ったく、やっぱ恋愛ってメンドくせぇ」
「女の人って、やっぱり怖い……」
「なんていうか、理解できない……」
六人の声が、教室中に響き渡った。
彼らの楽しそうな姿を見届けて、桃子は静かに教室を後にした。
「やれやれ、やっぱりみんな相変わらず、みたいね」
廊下を歩きながら、桃子は告白の日の映像を再生した。
「なるほどね」
何度も見返した、無機質な返事が流れた。
そしてもう一度、先ほどの映像を再生する。
「あれ?」
動画に映った、六人の映像。
それを見るなり、彼女はもう一度教室を振り返った。
「なんだろう、これ……」
二週間前と今と、どうしてだか六人とも全然別人に見えた。
「そっか、みんな……」
桃子も思わず吹き出してしまった。
――やっぱりみんな、素敵になったね。
そんなことを思いながら、桃子はその場を後にする。
恋愛ニート三人組と、純愛女子三人組が織り成した、三対三の恋愛バトル。
「強くなりたかったら、本気で恋をしなさい」
矢島が教えた、最後の言葉が、連太郎たちの心にはずっと残っていた。
でも、その本当の意味はまだ誰にも分からない。
今分かっているのは――。
この六人で過ごす時間は、とても楽しいということ。
とりあえず、今のところ――。
この、“3ON3”は、延長戦ということになりそうだ。