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3ON3!  作者: 泉谷パーム
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第二章 思いON本気 (前)

 翌日、登校してきた生徒たちは、まず教室の黒板に目が行った。

 黒、というよりも濃い緑の見慣れた板を、白とピンク、時々黄色を交えた線で色彩に塗り潰されていた。冷静さを取り戻してよく見ると、「ユリちゃん告白おめでとう!」と大きな字になっている。その傍らには花柄模様やら、下手糞な女性と男子、おそらくはユリナと連太郎であろう絵が描かれている。さらに注意して見ると、隅っこのほうに青い字で小さく「鉾田マジ死ね」とも書かれていた。

 当然のことながら、連太郎はこれを見た瞬間、唖然とした様子で鞄をごとん、と落とした。そのまま数秒間白目を剥きながら、身体を硬直させた。

「だれだあああああああ! 出て来い、仙石ううううううう!」

 喉を唸らせながら精一杯大声で叫んだ。

 物陰から、待っていましたといわんばかりに、例の件を広めたであろう張本人、仙石桃子が現れた。それも、得意げな表情で。

「はあい、葉月先生の旦那さん」

「てめぇ、どういうつもりだぁ!?」

「あらぁ、何のことざましょう?」

 眼鏡をクイクイと押し上げ、得意げな顔でほくそ笑む桃子。

 間違いなく、この女は昨日の出来事を言いふらした。連太郎にはその確信があった。が、それについて口論するのは時間の無駄だったので、しぶしぶ黙って席についた。

「もったいないよねぇ。先生とはいえ、ユリちゃん可愛いのに。やっぱ鉾田って朴念仁すぎて釣り合わないんじゃない?」

「でもさぁ、ユリちゃんほどの美人に告白されたら普通付き合うでしょ。あたし男だったら絶対付き合うしぃ」

「あ、会長と鴻上君は? 見た目的にはお似合いだけど、姉弟だから無理なのかな?」

「でも義理でしょ? 全然アリだって」

「そう考えると一番無難なのはサクミと望月君だよね」

「やっぱ望月君はあの中で一番格好いいもんね。天野さん、ってどうなんだろ、絵面的にはアリのようなないような……」

 教室のあちこちから、部外者の勝手な言葉の数々が、連太郎の耳に入ってくる。

 別に付き合おうが付き合うまいが勝手だろ。当事者でもないのに余計なこと言ってんじゃねえぞ。

 こめかみに力を入れながら、連太郎は何度も舌打ちをした。

「お、おはよう。連ちゃん」

 明らかに元気を失った声で、幾重が挨拶をしてきた。見ると、目の下にはクマが出来ており、心なしか一日で少し痩せたような気がする。

「お、おう。お前、大丈夫、か?」

「あ、うん。僕は平気……」

 幾重は無理矢理笑顔を作りながら、なんとか体裁を繕った。

「きゃっ、来たよ! 王子様がこれで二人」

 周りの人間たちが囃し立てながら錬太郎たちに視線を送った。

「すごいことになっちゃったね」

「幾重、お前アロンアルファ持っているか?」

「えっ!?」

「仙石の口に塗ってくる。これ以上アイツに噂を広められると厄介だ」

 冗談のように聞こえるが、連太郎の目は本気だった。

「ま、待ってよ!」

「あんだよ?」

 幾重は連太郎を嗜めながら、

「落ち着こうよ。連ちゃん」

「あー、クソ! 本当にどいつもこいつもメンドくせぇ!」

 連太郎がイライラしながら騒いでいると、背後から

「うるさいな。朝っぱらから何を騒いでいる?」

 春馬の声が聞こえた。

「あ、望月君、おはよう」

「全く、この学校の連中は……。どいつもこいつもミーハーというか、退屈しのぎには事欠かないというか。しょうのない噂に振り回されすぎだ」

 春馬はため息混じりに首を傾げた。その噂の当事者になっているのが自分であることに関して、あまり気にしていないといった様子だ。

「おうおう、これで噂の男子が三人全員揃ったわけですな」

 春馬が席に着いた途端、桃子が話しかけてきた。相変わらずいやに得意気な表情だった。

「で、実のところどうなの?」

「あん!? 何が!?」

 連太郎は眉間に皺を寄せながら聞き返した。

「そりゃもちろん、彼女たちとのこれからよ」

 桃子がそういうと、クラスの空気が一斉に静まり返った。気がつくと、皆こちらに視線を寄せている。

「どうって、そりゃ……」

「下らんな」

 春馬が一蹴した。

「俺らは告白を断った。ただそれだけの話だ。それ以上何か聞きたいのか?」

「それが納得いかないからこんなことになっているんでしょ」

「納得? 断るには充分すぎる理由だろう。大体貴様はそれ以前の問題だ、仙石」

 春馬の桃子を見つめる視線が一気に強くなった。桃子も負けじと睨み返す。

「あら、何かしら?」

「お前は口が軽すぎる。いい加減にしろ」

「口は軽くないわ。記事にしただけ」

 桃子の軽い口調に、春馬の怒りが更に大きくなっていった。

「昨日のことは俺らだけの話にしておくべきだろう。それが何だ、この有様は。下らない噂を広めて、何の得がある?」

「下らない、噂?」

 桃子は軽く深呼吸をした後、

「下らないって何よ!? 会長たちの告白は下らなかったとでもいうつもり!?」

 ものすごい剣幕だった。眼鏡越しからでも鋭すぎる眼差しが伝わってくるようだった。

「そんなことは言っていないだろ。俺はお前の態度に腹が立っているんだ!」

「ちょ、ちょっとふたりとも……」

 幾重は冷や汗を流しながら、二人をなだめようとした。

 しばらくすると、二人とも睨みあったまま、お互いに顔を背けた。そのまま桃子はふん、と鼻を鳴らして教室内から去っていった。

「ったく、望月までメンドくせぇことするなよ」

 連太郎は呟きながら、昨日の出来事を思い返していた。

 ――やっちまったな。

 今思うと、どうしてあんなことを言ってしまったのか、後悔していた。

『あなたたちに恋をさせてあげるわ! あなたたちが味わったことのない、最高の恋をね』

『覚悟しなさい、恋愛ニート共!』

 凛々しい生徒会長が放った、強烈な宣戦布告。

 他の二人はそうは思ってはいないかもしれないが、鉾田にはどうにも喧嘩を吹っ掛けられたような気分にしかされられなかった。

 そもそも、“恋愛ニート”などという単語が、自分たちを侮蔑させるために使われているようでならない。いや、これは明らかな侮蔑だ。かつて巷で恐れられた不良、“ケルベロス”。その呼び名は今では使われていないものの、そのプライドは心の奥底に今でも残っている。

 だからこそ、この喧嘩を買ってやる。連太郎は心に決め、

「上等だコラ! てめぇらの挑戦、受けてやるぜ!」

 中指をグッと立たせ、啖呵を切った。

 ――なんで昨日はあんなこと言ってしまったんだろうか。

 幾重や春馬のことも考えず、その場のノリで突っ切ってしまった。そしてかつてないほどの苛立ちに煮えたぎりながら、周囲の言葉に耳を傾ける間もなくその場から去ってしまった。

「はぁ、畜生」

 次第に頭が痛くなってくる連太郎。

「連ちゃん……」

 どうしてよいか分からず、幾重はただ彼らを見つめるしかなかった。

「あのさ、幾重。別に俺とあわせる必要はないんだぜ」

「えっ!?」

「もし、だ。もしもお前が会長と付き合ってもいいんだったら、付き合えばいいと思う。そりゃ、姉だし、戸惑うところも大きいとは思うけどさ……」

 連太郎の発言に、幾重はムッと顔を顰めた。

「連ちゃん、それは違うよ。僕はあくまで、自分の意志で告白を断ったんだよ」

 いつにも増して、幾重が強気に出た。

「と、いうと?」

「確かに連ちゃんのいうとおり、かなり戸惑っているよ。けど、このまま付き合ったっていい結果になんてならないと思うんだ」

 真摯な眼差しで、幾重は連太郎をじっと見つめる。

「正直、僕は女の子が怖い。けど、姉さんは違う。いつも僕を守ってくれる。でもね……」

 ふっと、間髪を入れる。

「それじゃあまるで、僕はいつまでも姉さんに守ってくださいって言っているような気がしてならないんだ。僕自身が強くならないうちに、姉さんという安全圏に逃げてしまっては、僕は一生弱いままなんだと思う」

 その口調は、決して嘘ではない。連太郎も春馬も、思わず聞き入ってしまった。

「だから僕は剣道を始めた。僕自身が、姉さんを守って、弱い自分を打ち砕かなきゃ……」

「なるほどな」

 弱々しい口調で、連太郎が返事をする。

「幾重、お前はやっぱり……」

 そこまで言って、連太郎は口を止めた。

「やっぱり……何かな、連ちゃん?」

「いや、何でもねぇよ。それよりお前はどうなんだ、春馬」

 今度は春馬に聞く。

「答えるまでもない。返事はノーだ、と何度も言っているだろう。俺はこの学校の連中の退屈しのぎになるつもりはない」

「ああ、そうか」

 幾重と違って、あっさりとした返答に、連太郎もそれ以上聞くことをしなかった。

「言っておくが、俺はお前に合わせているわけじゃない。たまたま、お前が俺と同じ考えだった、それだけだ」

「は、お前らしいや」

 連太郎はそういって、机の中から何かを取り出した。

 それはコンビニの袋だった。中には海苔巻きのようなものと、パックのウーロン茶が入っていた。

「おい、何をする気だ?」

「朝飯食ってないんだよ」

「連ちゃん、それって……」

 袋の中から、連太郎は海苔巻きを取り出した。

「決まってんだろ、納豆巻き」

 春馬と幾重は唖然とした。そのまま無視して去ろうかとも思った。

「お前、教室内が臭くなるぞ」

「いいだろ、朝はやっぱり納豆食わないと力出ないんだよ」

「だったら外で……」

「あん? メンドくせぇ……」

 二人が止める間もなく、連太郎は納豆巻きのパッケージを開け、口に頬張る。

 途端に、臭気が連太郎の周囲を舞った。

「うわぁ……」

 周りの人間たちが引きながら連太郎を眺めているうち、始業のチャイムが鳴り響いた。

 ――葉月先生は、なんでこんな奴に惚れたんだろう?

 教室内にいる連中は皆、鼻を抓みながらそう思った。



 始業まであと五分。

 今日は朝から学校内が騒がしいな、と葉月ユリナは思った。まぁこの学校が騒がしいのはいつものことではあるが、今日はいつにも増して一段と賑わっている気がした。

 職員用の下駄箱に靴を入れ、昨日の出来事をふと思い返す。

「鉾田、くん……」

 正直、分かってはいたはずなのに、彼が発した言語が未だに理解出来なかった。正確にいうならば、頭では分かっていても心が納得できない。

『俺もムリ。葉月と付き合うとか、正直考えられないわ』

『だったらなぁ、俺らの気持ちはどうなるんだよ! 中途半端な気持ちで恋をしたって、いざお互いの気持ちが離れたらすぐに破局するだけだろうが! そんな恋愛するぐらいなら俺は恋愛なんてしねぇよ!』

 思い返すたび、ユリナのため息が増えていった。

 ――いけないいけない。あなたは教師でしょ、ユリナ!

 なんとか自分に言い聞かせながら、ぐっと拳を握り締める。

 自分は教師。たとえ好きになった相手が生徒でも、恋愛と教育は別。振られたからといって、彼を見放してはいけない。

 でも、彼は? 私のことをこれからどんどん見放してしまうのでは?

 考えるたび、不安が渦巻いていく。連太郎は、ただでさえ面倒臭がりな性格だ。自分と話すことも、顔を合わせるのも面倒になっていくのでは……。

「先生」

 不安が、更に彼女を襲った。

「せんせい!」

 頭が痛い。今日は学校に来る気分ではない。

「せーんせーい! おーはーよーう!」

 気がつくと、ユリナは誰かに呼ばれていた。聞き覚えのある女子生徒の声だ。

「あ、おはよう。天野、さん……」

 下駄箱の隅に、自分のクラスの生徒、天野咲海が立っていた。彼女もまた、浮かない顔をしている。

「先生、昨日は眠れた……わけないか」

 咲海はこちらの様子をじっと窺っている。思わず、ユリナの顔から苦笑が毀れた。

「昨日は、疲れちゃったね」

「そう、だね……」

 お互い心ここにあらずといった感じで、会話が終了した。

 そのまま、しばらく沈黙が続き、そして――。

「あら、二人とも、今日は遅かったのね」

 別の女子生徒がやってきた。生徒会長の鴻上真雪だ。

「そりゃあ、ね」

「身だしなみぐらいきちんとしなさい。リボンが曲がっているわ」

 真雪に指摘されて、咲海は慌ててリボンを直した。

「鴻上さん、おはよう」

「先生も、そんな顔で授業に出るのかしら? もっとしゃんとなさい」

 機嫌が悪いのか、彼女の表情からはいつもの凛々しさがあまり感じられなかった。その様子に、咲海もユリナも思わず恐縮してしまう。

「あのさ、生徒会長……」

「何かしら?」

 咲海は、ごくり、と唾を飲み込んだ。

「昨日のことなんだけど……」

「ああ、あれ、ね」

 淡々と、真雪は返事をする。

 しかし、咲海は恐縮している暇もなかった。深呼吸した後、思い切って、

「どうするの? あんなこと言っちゃって」

「あんなこと?」

 とぼけたように、彼女が返す。

「あれだよ、『あなたたちに恋をさせてあげるわ』とかなんとか言ってたじゃん! あんなこと言ってどうするつもりだよ!?」

 咲海は怒鳴る一歩手前の声で叫んだ。

 それに対し、真雪は長い髪をさっと掻きあげて、

「ああ、あれね」

 相変わらず冷たい声で返事を返す。

「あれね、って……。何、それ!? ふざけないでよ! あんなのあたし聞いていないんだけど!?」

「ええ、あれは予定になかったから」

「予定になかったって、ええええええぇっ!?」

 二人は思わず驚いた。

 実は二人は数日前から、会長からある話を持ちかけられていた。

 ――三人で、集団告白をするの。一人じゃ恥ずかしくても、三人なら恥ずかしくないでしょ?

 ――もしダメでも、なんとか押して、精一杯気持ちを伝える。大丈夫、あなたたちならきっとやれるわ。

「何が一本の矢はすぐ折れるけど、三本なら折れない、女三人で告白すれば大丈夫、だよ。折る人間が三人いたんじゃ意味ないじゃん」

 今更、単純なことに気がつく咲海。最も折れてしまったのは矢ではなく、自分の心なのだが。

「でも、それに乗ったのはあなたよ」

「それはもういいんだよ!」

 はぁ、はぁと全力で声を張り上げる咲海。

「鴻上さん。本当にこれからどうするの?」

「反省しているわ。思いつきでものを言うのはいけない、って」

「それはあのときに気づいて欲しかった」

 真雪は腕を組み直して、

「ここから先どうするかはあなたたち次第、よ。諦めるなら今のうち。もしくは、諦めずにずっとこの恋心を引きずる、か」

「人事みたいに言って……」

「人事じゃないわ!」

 真雪は真剣に瞳を吊り上げて、

「悪いけど、私は諦めないから。絶対に、この恋は、ね」

 いつもの凛々しさが、ようやく戻ってきた。

「昨日あんな発言をしてしまったことは、本当に悪いと思っている。でも、そもそも私がこの計画にあなたたちを誘ったのは、あなたたちの恋が本気だと思ったから。それは思い違いだったのかしら?」

 そういわれては、二人は閉口せざるを得ない。

 しばらく間をおいて、咲海が咳払いをした。

「ああ、そうだね。あんたの気持ちは本物だよ。すっごい良くわかる。でもね、あたしだって、望月君に対する思いは本物だから。あんたに負けないくらい、ね」

 咲海は強気な口調で、真雪に返した。

 しばらく真雪も咲海をじっと見つめると、今度は視線をユリナのほうへ向けた。

「先生はどうですか?」

「えっ、私は……」

 鞄を両腕で抱きかかえるように持って、ユリナは顔を赤らめた。

「私だって……。私だって、鉾田君のこと諦めきれない。先生だからとか、恋愛する気がないとか、そんなの、関係ない……」

「そう。分かったわ」

 そういって、真雪は踵を返した。

「お、おい! 話はまだ終わって……」

「あなたたちの気持ちは良く分かったわ。誰よりも、本気だってね」

 真雪は立ち止まり、もう一度振り返った。

「その気持ちだけ知りたかった。あとは、それを彼らにぶつけるだけ」

 それだけ言って、彼女は立ち去っていった。

「なんだよ、それ……」

「誰よりも、本気、か……」

 真雪が最後に言い放った言葉。

 それだけが、二人の脳裏に焼きついて離れなかった。




 ――弱虫。

 ――怖ええんだろ、幾重。

 何者かが、幾重に語りかける。

 視界は真っ暗。どこまでも、闇。

 本来ならその闇に溶け込まされるはずの声が、いやにくっきり聞こえる。

 ――誰、だ?

 ――僕は、弱虫じゃない。

 ――僕は、ただ……。

 必死で反論する。しかし、それを言う相手が、そもそも見えない。いや、姿を現さないといったほうが正しいか。

 ――幾重、てめぇは弱虫なんだよ。

 やめろ。

 ――でもなぁ、いいんだぜ。てめぇが弱ければ弱いほど、俺は強くなれる。

 なんだよ、それ。

 ――女の子が怖いんだよなぁ、一生お姉さんに守られていればいいんだよなぁ?

 うるさい、黙れ!

 ――必死で抵抗しちゃってさぁ。ククッ、てめぇがそうやって抵抗するだけ、俺は強くなれる。だから、もっと抵抗してくれよぉ。

 何なんだよ、お前は一体、誰なんだよ!?

 ――俺か、俺はなぁ……。


 視界が突然、天井になった。

 幾重の息があがる。蛍光灯の無機質な明かりが、幾重の視界を奪おうとする。

 周りを見渡すと、見慣れた自分のアパート。帰ってくるなり、いつの間にかベッドで寝てしまったのか、着ている制服が少し乱れていた。

 時計を見る。時刻は既に七時を回っていた。

「夢、か」

 ため息を漏らし、幾重はベッドから這い上がった。

 ――嫌な夢だったな。

 寝汗を拭い、幾重は机から財布を手に取る。時間も時間なのでコンビニかどこかで夕食を買ってこようと考えた。

 身体の疲れがどうにも取れない。今日一日の学校生活は、どう過ごそうかと考えて終わっただけのような気がする。結局、何もないままに終わったのだが、気疲れだけが残ってしまい、そのまま眠ってしまった。

 どうしても、幾重は先ほどの夢が忘れられなかった。

 やけにくっきりとした声で、自分に語りかけられた。小説などでよくある、自分の心に巣食う悪の部分、とでもいうのだろうか。まさにそのようなものが、突然自分に話しかけてきたのだ。

「ダメだ、考えすぎちゃあ」

 幾重は頬を二回ほど叩き、顔を少しでも凛々しくしようと表情を作る。

 そのとき、

 ――ピンポーン。

 玄関から突然、呼び鈴の音が聞こえた。

「はい」

 幾重がゆっくりと扉を開くと、そこには、

「こんばんは、幾重」

 来客の姿を見て、幾重は目を丸くした。

 彼女は、一応この下宿先の場所は知っている。しかし、これまで彼女がこの部屋にやってくることなど一度もなかった。

 それがまさか今日、このタイミングで彼女が来ることは予想外どころか完全にありえないことだった。

「ね、姉さん!?」

「この部屋に来るのも久しぶりね」

「な、なんでここに!?」

 幾重は彼女をじっと見た。彼女の右手には、何やらぎっしりと荷物の詰まった買い物袋が詰まっていた。

「夕食はもう食べた?」

「い、いや。まだだけど」

「ならちょうど良かったわ。作ってあげる」

 買い物袋をちらつかせながら、玄関をあがろうとする真雪に、幾重は更に目を丸くして驚いた。

「ちょっと……」

「台所借りるわよ」

 いつの間にかエプロンを着用した真雪が、キッチンの前に立って髪を結った。

 ――突然、どうしたんだろう?

 幾重の戸惑いは大きかったが、とりあえずは成り行きを黙って見るしかないと思った。

 幾重はふと料理中の彼女を見た。学校内の凛々しい彼女とは裏腹に、真雪の私服はいたってシンプル。黒いボーダー柄のシャツに、藍色のジーンズ。それに水色のエプロンが合わさってしまえば、実に家庭的なイメージが強くなる。

 ――なんか、すごい似合うな。

 幾重は少し顔を赤く染めた。

 しばらく待っていると、醤油が焼けた、香ばしい香りが漂ってきた。じゅうじゅうと音を立てるフライパンを、慣れた手つきで動かしていく真雪の姿は、普段の学生生活ではまず見られないだろう。

 ――本当にすごいな、姉さんは。

 彼女に抱く、半端ない劣等感が彼を襲った。

 連れ子である幾重と違って、鴻上家の正式な血縁者である真雪。幼い頃からずっと英才教育を仕込まれてきた彼女は、幾重にとって憧れであった。

 鴻上家はただでさえ女尊男卑の風習が強い家だった。正式な跡取りは女子のみとされ、男子に対する扱いは、あまり良いものとはいえなかった。連れ子である幾重は殊更風当たりが強く、義母だけでなく、仕えている女中たちからも蔑まされることがあった。

 優秀な姉と比べられ、毎日のように女性たちから叱責される。幼少時代からそのような日々を過ごしてきた幾重は、いつの間にか人前で泣けなくなった。最後の男としてのプライドが、彼をそうさせていたのかも知れない。

 その代わり、幾重は辛いことがあると、家の裏庭に行き、一人静かに泣いていた。弱さを見せてしまえば、女性たちから更に蔑まされる。だからここで誰にも見られないように泣くよりほかなかった。

 しかしその姿を一人だけ見た人物がいた。それが真雪だった。幾重のことを心配した彼女はこっそりと後をつけていった。そして、一人泣きじゃくる幾重の姿を発見した。

 ――あのときほど恥ずかしかったことはなかったな。

 尊敬している姉に、自分の弱い部分を見られた。ある意味一番見られたくない人物に見られた。しかしその姉は、そんな自分を侮蔑するどころか、優しい表情で彼を抱きしめた。

「ほら、大丈夫。私はあなたの味方だから。これからは、私があなたを守ってあげる」

 いつの間にかそれに甘えて、彼は泣き止んでいた。幼い頃に実の母を亡くし、新しい母には一度も抱かれたことのない彼にとって、初めて感じた母性でもあった。

 姉さんは自分を守ってくれる。姉さんは自分の味方でいてくれる。

 最初はそれが非常にうれしかった。しかし、いつしかそれだけではいけないと感じるようになった。

 まず、中学二年生から剣道部に所属した。ここなら自分の弱い心を打ち砕いてしまえる、そんな気がしていたからだ。

 そして、姉に甘えないように、高校入学を期に一人暮らしを始めた。自分一人で何でも出来るようにならなければ、と彼は決心した。

 高校は、姉と同じ高校に通うことにした。姉の薦めがあったというのもあるが、校風を見て、ここなら自分を変えてくれる、そんな気がしたからだ。結果、連太郎や春馬といった性格の違う親友ができた。

 だからこそ――。

 昨日の出来事は、正直驚いた。追いかけるべき存在が、突然自分に近づいてきたのだ。うれしいといえばうれしいが、それは頑張ってきた自分に対する冒涜ではないか、そんな気持ちもあった。

「お待たせ。出来たわよ」

 幾重が考え事をしているうちに、真雪は料理を更に盛り終えていた。結っていた髪をおろし、エプロンを脱ぎ、部屋へ料理を運び始める。

 テーブルの上に、料理が並んだ。ご飯と味噌汁、そしてサラダにホイコーローといったメニューだ。

「それじゃあいただきましょう」

 真雪と幾重はテーブルに向かい合って座った。久しぶりの二人きりの食事に、幾重は声をどう発せば良いのか戸惑う。

 特に会話もないまま、食事は進んでいった。味は悪くない、いやそれどころか美味しかった。しかし、漂う緊張感にそれが半減されたような気がしていた。

「あのさ、姉さん……」

 なんとか言葉が出た。幾重は少し緊張していた。

「何かしら?」

「今日は、突然どうしたの?」

 ようやく幾重の口からその疑問が放たれる。真雪は茶碗を置いて、彼を見た。

「何かしら? 一人暮らしで大変だと思って、姉が弟の食事を作りに来た、それだけでしょ」

「それだけって……」

「それとも、昨日のこと、かしら?」

 その瞬間、幾重の心臓が思い切り高鳴った。

「そうね、気にするなって言われるほうが無理よね」

「うん……」

 幾重は弱々しく返事をする。次第に、味が分からなくなってくるようだった。

「幾重」真雪は呼びかけた。「あなた、本当に恋愛する気はないの?」

「うん」幾重は頷く。

「姉さんでも、駄目?」

 真雪は這いよりながら、幾重へ少しずつ近づいた。幾重は萎縮しながら、その場に硬直してしまう。

「僕は、その……」

「本当言うとね、今日ここに来たのは、あなたと二人きりで話をする時間が欲しかったから。学校だといつも鉾田君や望月君と一緒だから、なかなかそういう機会がないしね」

「まぁ、そうだね……」

「それで、幾重。あなたはどうなの? 姉さんじゃなくてもいい。あなたの本当の気持ちが知りたいの」

 本当の気持ち。

 今朝、幾重が連太郎たちに向けて言った言葉。

 真雪には打ち明けていないが、それは今言うべきことなのではないか。

 ――よし。

 幾重は固唾を呑み、真雪に向けて真剣な眼差しを送った。

「あのさ、ねえさ……」

「幾重、私はね、あなたを守りたいの。姉として、一人の女性として、あなたをずっと……」

 それを言われて、幾重の頭が真っ白になった。

 ――違うんだ、姉さん。僕は、守って欲しいわけじゃ……。

 その言葉が、喉から先に出てこない。

「小さい頃、一人裏庭で泣いているあなたを見てから、私は誓った。あなたを守ってあげたいって。家の風習とか姉弟とか関係ない。私はあなたを……」

「誰が……」幾重の顔が一層険しくなった。「誰が守って欲しいなんて言った!?」

 幾重は気がつくと怒鳴っていた。その瞬間、はっと真雪の顔を見る。彼女は案の定、驚いた様子で目を丸くしていた。

「あ、ごめん……。別に、そんなつもりじゃ……」

「そう、なの……」

 真雪は俯き、立ち上がった。微かに呟いたその声は、少し涙が混じっているようだ。

「姉さん……」

 幾重は止めようとした。しかし、言葉が出てこなかった。

「帰るわね。ごめんなさい……」

「ちょっと待って。話を聞いて……」

 真雪の肩を掴む間もなく、彼女は靴を履いて去ろうとしていた。

「さようなら。ご飯、ちゃんと食べるのよ」

「姉さん!」

 真雪は黙って、玄関から去っていった。

 追いかけよう。一瞬そう思ったが、何故か身体が動かなかった。

 ――最低、だ。僕は、最低、だ。

 気がつくと、幾重は瞳に涙を浮かべていた。



 翌日も、幾重の足取りは重かった。

 突然やってきた姉に向かって、初めて怒鳴ってしまった。昨日の出来事が何度も頭の中で繰り返される。

 ――姉さんに謝ろう。

 幾重の心の中ばそれだけだった。

 考え事をしながら、校門、そして昇降口を通り過ぎていく。目まぐるしく周囲の人間が彼の傍らを何度も行き来する。

「おはよう、鴻上君」

 突然、何者かが幾重を呼んだ。

 はっとしながら横を見ると、そこには仙石桃子が渋い顔をしながら腕を組んで突っ立っていた。

「あ、おはよう、仙石さん」

「ちょっといいかしら? 話があるんだけど」

 声色は明らかに怒りを表していた。彼女は幾重を睨みつけるように、じっと見据えている。

「えっと、話って……」

「ここじゃなんだから、私に付いてきて」

 言われるがままに、幾重は桃子の後ろを付いてきた。そこは学校の裏庭だった。当然、人気など皆無に等しい。

 桃子は立ち止まり、先ほどよりきつい顔で幾重を睨む。

「昨日、あんたの家に会長が来たんだって?」

 ――ぎくり。

 幾重の心中に、嫌な音が鳴り響く。

「あんた、会長に何言ったの? 会長、すごい元気がなかったわよ」

「そ、それは……」

 幾重は言葉に詰まる。昨日の出来事を謝ろうとした矢先、こうして別の

人間に問い詰められてしまっては、たじろぐしかない。

「……信じてた」 

「えっ……?」

 桃子が漏らした言葉に、幾重は思わず目を丸くしてしまう。

「たとえ弟でも、女性恐怖症でも、あんたなら会長を幸せに出来る、私はそう思っていた。けど思い違いだったみたいね」

「えっと、仙石、さん……」

 桃子は、ゆっくりと幾重に近づいていく。

「あんた、会長の気持ち考えたことある? 会長がどうして、あんたのこと好きなのか、どうして告白したのか……」

 桃子が近づくたび、幾重もゆっくりと後ずさりしてしまう。

「ふざけないでよ、あんた……」

 ――やめて。

「い、嫌だ、近付かないで……」

 幾重の声も届かず、桃子は一歩ずつ彼に近寄ってくる。

「会長なら平気なんでしょ? それって、会長はあなたを守ってくれるから?」

 ――近づくな、ちかづ……。

「女の子が怖い? だったら私が直してあげるわ。そうすればあんたの問題は全て解決でしょ?」

 ――僕に、ちか、づ……。

「ほら、ほらほら!」

「こ、怖いよ、怖い……」

 ――ぷつん。

 幾重の中で、そんな音が突然聞こえた。

 ――怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い……。

「怖くて怖くて……」

 ――ふっ。

 隙間風が、彼らの間を横切る。

 その刹那、桃子は目の前にいる人間の様子が先ほどまでとは違うことに気がついた。

 ――えっ、何、これ?

 先ほどまで怯えていた、彼は……。

「怖すぎて……。反吐が出そうだ」

 笑っていた。

 それも、今までに見たことのないような、恐ろしい表情。目も、口元も、顔全体が、文字通り“歪んでいた”ような顔。

「にゃーはっはっは! よぉ、ゴミ!」

 彼らしくない、醜悪な言葉が発せられる。

「な、何よ、あんた。ゴミって……」

「あん? 何だよ、てめぇ。ゴミじゃなかったの? ごめーん、ゴミにしか見えなかったわ」

 けたたましい笑い声が、裏庭内に響き渡った。

 先ほどまでとは逆に、今度は桃子が怯えて、その場に竦んでしまう。幾重、いや、この男はヤバい……。彼女の本能はそう直感した。

 先ほどまで鴻上幾重だった彼は、目を釣りあがらせ、顔の筋肉全てをぐにゃりと歪ませて桃子を見据えていた。

「鴻上、くん……」

「でさぁ、そこのビッチさん」彼は、おもむろに桃子の肩をぐっと掴む。「俺に、何をしようとしていたのかなぁ?」

「い、いや……」

「言えよ、ゴミ!」

 まるで暴力団が脅すように汚い睨みを、惜しげもなく桃子に向けてきた。

 ――なんで、どうしてこうなったの? 私は、ただ……。

 桃子は、目をぎゅっと閉じて、なんとか彼の顔を見ないようにする。

 彼が近づくたび、全身を窄ませていく。これまでに味わったことのない恐怖が、彼女を襲った。

 ――誰か、助けてよ。誰か……。

 そのときだった――。

「何やってんだよ、てめぇ」

 誰かが、桃子と幾重の間に割り込んできた。

 桃子はゆっくりと目を開ける。その人物は、桃子の肩に置いてあったはずの腕をぎゅっと握り掴んでいた。

「にゃーはっはっは! 久しぶりぃ」

「相変わらず胸糞悪い笑い方しやがって!」

 聞き覚えのある声。いや、ほぼ毎日のように聞いている声だった。ゆっくりと目を開けて、身体の力を抜き、その人物を見た。

「ったく、本当にてめぇはメンドくせぇことしかしねぇな」

「ほ、鉾田!?」

 短い金髪を逆立て、キリッと目を睨ませている鉾田連太郎の姿が、彼女の前に現れた。連太郎は幾重の腕を掴んで力いっぱい引っ張っていた。

「あーあ、こんなことしちゃってぇ。相変わらず乱暴だねぇ、鉾田ちゃあん!」

「気持ち悪い声出すんじゃねぇよ、外道」

「外道で結構、カスが!」

 異様な光景だった。いつもなら仲良く他愛もない会話をしているはずの二人が、お互いに睨みあいながら喧嘩一歩手前の状況に陥っている。

「何、何なの、これ!?」

 桃子は今にも目が回りそうだった。最早ただ座り込んで後ずさりしていくしかなかった。

「何をしようとしていた? 幾重。いや……」連太郎は掴んでいた腕をさっと払いのけた。「鴻上数多!」

 ――こうがみ、あまた?

 何それ、鴻上君じゃないの?

「にゃーはっはっは! 俺の名前覚えていてくれたんだ。光栄だねぇ!」

「鉾田、これって……」

 桃子が尋ねると、連太郎は舌打ちをして、

「その前に仙石に聞きたいことがある」

「な、何?」

「お前、幾重に何かしたか?」

 ――えっ?

 桃子は動揺のあまり、言葉に詰まった。

「その顔だと、何かやったみたいだな」

「えっと……」

「答えろ!」

 桃子は唾を飲んだ後、「私は、鴻上君に、昨日生徒会長と何があったのか聞こうとして……」

 桃子がたどたどしく答えると、連太郎はため息をついて呆れたような顔になった。

「どうせ強く問い詰めすぎたんだろう? それで、こいつの恐怖心が高まった」

「うっ……」

「こいつは、幾重であって幾重じゃない。ま、別の人格って奴だ」

「別の、人格?」

 連太郎と桃子が悠長に会話をしていると、

「さっきからごちゃごちゃ何を話しているんだよおおおお!」

 近くにあった木の棒を手に取り、思いっきり連太郎目掛けて振り下ろした。

「るせええええええ!」

 グギッ!

 連太郎の右手が、振り下ろされた棒をぐっと掴んでいた。

「目、覚ませよ。てめぇは幾重じゃねぇだろ」

「はぁ?」

「てめぇはとっとと失せろつってんだよ!」

 連太郎は怒鳴るように叫び、棒を握る力を強める。元々腐っていたのか、棒は鈍い音を立てて、握り潰れるように折れた。

 そのまま連太郎の拳は、幾重、いや、数多の頬へと向かう。

「ぐあっ!」

 食い込んだ数多の頬は、その力に耐えられずに身体ごと背後へ吹き飛ばされる。ずさあ、と土に擦れる音とともに、数多の身体は地面へと打ちつけられた。

「はぁ、はぁ……」

 肩で息をしながら、連太郎はゆっくりと拳を下ろす。

 そのまま、数多、いや幾重ほうへと向かっていく。気絶でもしているのか、彼は眠ったように目が開かなかった。

「ど、どうなっているの、これ……」

「お前と幾重が裏庭に行くのを見かけたから、こっそり付いてきてみれば……。何してんだよ、全く」

「ご、ごめんなさい。あと、ありがとう」

「礼はいらねぇ。謝罪は俺じゃなくてこいつにしてくれ」

 連太郎は伸びている幾重を抱きかかえ、背負った。幾重の身体にはまだ少し砂がついているが、気にしないことにした。

「俺はこいつを保健室に運ぶ」

「だったら私も……」

「いらねぇよ……。と、言いたいところだが、お前も来い。いい機会だから話をしてやる。ついでに、会長も呼んできてくれ」

「えっ?」

 幾重を背負ったまま、連太郎は裏庭をゆっくりと去っていった。

 今の、出来事は一体なんだったのだろう?

 彼女の疑問は、深くなるばかりであった。


 消毒の匂いが充満した保険室内。連太郎は、その匂いに耐えながらベッドの傍らに置いてある丸椅子に腰掛けた。

 幾重の寝顔は安らかだった。一瞬本当に殺してしまったのではないかと冷や汗ものだったが、軽い寝息が聞こえるのでその心配はなかった。

 しばらく待っていると、保健室の扉が開いた。二人の女子生徒の姿を確認すると、連太郎は黙って手を振った。やってきたのはもちろん、桃子と真雪だった。

「あ、あの、鴻上君は?」

 桃子が恐る恐る尋ねる。

「心配ねぇよ。気持ちよさそうに眠っている」

「ねぇ、一体何があったの?」

 真雪は厳しい目つきで尋ねた。

「あんた、知らなかったのか? 幾重のもうひとつの顔」

「ええ……」

「えっ、会長も知らなかったんですか?」

 真雪は黙り込んだ。内心、知らなかった自分自身を責めたてた。

「俺も、一度……。これで二度目、か。それだけしか見たことはないんだけどな」

「さっき鉾田は鴻上君に向かって、“数多”って言ってたよね?」

「ああ。言った。それがコイツの、もうひとつの顔だ」

 連太郎は座りながら脚を組み、二人を見つめた。

「二重人格、ってことかしら? それにしても一体いつから……?」

「さぁ、な。少なくとも、俺は入学して間もない頃にコイツのもうひとつの顔を知った。そのときに、コイツは“数多”って名乗っていた」

 真雪は黙って、幾重の顔をそっと覗き込んだ。そのまま、幾重の掌をそっと両手で優しく握った。

「私のせい、かしらね?」

「えっ?」

「私が余計なことを言わなければ、幾重は……」

 真雪の脳裏に、昨日の出来事が走馬灯のように繰り広げられる。

 幾重を傷つけ、怒らせてしまった自分の姿。今までに見せたことのない彼の怒り顔が、頭から離れない。

「それを言ったら、会長、私が鴻上君を問い詰めなければこんなことには……」

「いえ、幾重をこんな風にしてしまったのは私よ。多分鴻上家での経験が原因であんな恐ろしい人格が……」

 多重人格は過去の経験が原因で生じる、ということを真雪も聞いたことがある。それならば、数多という別人格が出来た原因は、鴻上家、いや、自分自身にあるのではないか。心の中で、真雪は自分を責め続けた。

「でもそれって別に会長のせいじゃ……」

「いえ、私よ、私の……」

 真雪がそこまで言いかけると、連太郎はふぅ、とため息をついた。

「そうやって、なんでもかんでも自分のせいにするからだろ」

「えっ?」

 桃子と真雪ははっと連太郎の顔を見る。

「あんた、実はこいつのことあまり知らないんじゃね?」

 連太郎に言われて、真雪は言葉を詰まらせる。

「そんなことはない。会長は鴻上君のことを本気で……」

 桃子は必死で反論した。

「本気、ねぇ。でもな、本気なのはこいつも一緒なんだよ」

 連太郎は会長の傍へ歩み寄った。

「こいつが何で剣道を始めたか知っているか? 弱い自分自身を打ち砕きたかったんだよ」

「そうね、この子のことだから多分そんなところだろうと……・」

「それもこれも、あんたのためなんだよ!」

 連太郎は俯いて叫んだ。思わず、真雪は萎縮してしまう。

「私の、ため……?」

「ただあんたに守られているだけ、そんな自分が嫌だったんだよ、コイツは。だから少しでも強くなろうとしていた。いつまでもあんたに頼りっぱなしじゃいられなかったから。あんた、姉なのに気付かなかったのか?」

 連太郎の言葉に、思わず真雪は閉口してしまう。

 彼はずっと強くなろうとしていた。小さい頃、裏庭で一人で泣いていたのだって、弱い自分を誰にも見せたくなかったから。

 そう考えると、あまりにも単純なことだった。そんなことに気付かなかった自分自身に、苛立ちさえ感じた。

「数多が生まれたのだって、多分強くなりたいって思いが歪んでしまったからなんだろうな」

「それだけじゃないわ。この子、本心では……」言いたくない言葉を吐き出すために、真雪は深呼吸をした。「もしかしたら、女の人を憎んでいたのかも知れない」

「ど、どういうことですか、会長?」

「この子はね、小さい頃から女性に虐げられ、蔑まされてきた。優しい子だから表には出さなかったけど、この子は女性を怖がっていたんじゃなくて、憎んでいたのかもね。そりゃあそうようね、あれだけ酷いことをされていたら、憎むのも当然よね」

 真雪の瞳に涙が滲んできた。連太郎と桃子は何も言わずに黙って続きを聞くことにした。

「その憎しみが、別の人格を生み出した。幾重が秘めていた思いが、形となって現れてしまった。もしそうだとしたら、本当にごめんなさいね、幾重。あなたの気持ち、全然分かってあげられなくて」

 真雪の涙が、ぽつり、と幾重の頬へと垂れた。

 しばらくしていると、眠っていた幾重の瞼がぴくりと動いた。

「いく、え……?」

 幾重の目がゆっくりと開く。真雪たちは、静かにそれを見つめていた。

「ねえ、さん……」

「良かった、良かった……」

 ぼろぼろに泣き崩れ、真雪は幾重の掌を両手で優しく掴む。

 幾重は何があったのか分からないようで、ただ呆然としていた。

「僕、どうしたの? 何が、あったの? まさか、アイツが、数多が出てきたの……」

「えっ……」

 数多の名が出てきて、真雪は目を丸くした。

「そっか、またアイツが……」

「幾重、お前知っていたのか?」

「うん、まぁ……」

 長い沈黙が流れる。

 しばらくすると、その沈黙を打ち消すように始業のチャイムが鳴った。

「行きましょう。鉾田君も、早く戻らないと葉月先生が困るわ」

 いつもの凛とした表情に戻しながら、真雪は言った。

「ったく……。幾重、お前はしばらく休んでろ。葉月には俺から言っておく」

「ああ、うん。ありがとう……」

 連太郎たちは、ゆっくりと保健室を後にした。

「あ、姉さん……」

 去ろうとする真雪を、幾重が呼び止める。

「何かしら?」

「あのさ……」幾重はたどたどしく声を出した。「昨日は、ごめん」

「いいのよ、気にしていないわ」

 彼女らしい態度で、真雪は返事をした。

「あと、ありがとう。いつも、僕のこと心配してくれて……」

 幾重の口から、優しい感謝の言葉が出る。

 真雪は、ただ……。

「気にしなくていいわ」

 そういって、保健室を去っていった。

 彼女の瞳に、再び涙が溢れていた。


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