海から来る孤独
朝:世界中の獣たち/世界の始まりと始まりの始まりと……
砂浜に立ち込める霧が黄金色の影を落とすなかに、潮騒が鳴る。
今日はいつもと違う音がしている。孤独な海が仲間の到来に嬉々として騒いでいるのだろう。この気配は人間ではない。犬でもない。彼らは孤独のなかにのみ姿を見せる。
湿った砂を踏みしめる音が霧の向こうから聞こえる。体重はそれほど重くない。だが疲れているのだろう、重苦しい音がする。全身の力を砂に預けるようにして、一歩一歩進んでいる。
霧のなかに浮かんだ影は、四足歩行の項垂れた獣だった。愛を求めて世界中を歩きまわっている孤独な獣だ。この海岸に来たところで何もないが、旅の癒しにはなるかもしれない。潮騒は喪失の音だが、彼の孤独の一部をしっとりと埋めることはできるかもしれない。
「ずいぶんやつれているが、どこから来たんだ」
足音が止まる。獣の影は警戒するかのように頭を上げて、私を見つめた。だがすぐにまた頭を垂れて、死に際の犬のように歩き始めた。影が色を帯びてきて、孤独に傷んだ毛並みが見えてきた。近くで見る彼は、影よりもさらに痩せ細っている。
「不覚だった。まさか黄金の霧のなかに人がいるなんて思いもしなかったから」
「たまには誰かと話すのもいいじゃないか」
「いつも話しているさ」
「孤独と? それとも悲しみと?」
「死だよ」
獣は立ち止まることなく、疲弊した体を弱々しく引きずりながら私の目の前を通り過ぎた。獣の臭いがする。独りでずいぶんと長い時間を闘ってきた、その摩耗から生じる命の臭いだ。
「どこへ、行くんだ」
「死のもとへ」
獣は止まらない。その体が、少しずつ霧に埋もれて遠くなる。だが死期を感じる背中ではない。
「どうして不幸を、探すんだ」
獣が立ち止まる。霧のなかで振り返り、深い光を湛えている目に力が込められた。
「不幸じゃない。死の名前は、愛という」
「お前が思っているほど……」
獣が背中を向けたので、言葉が続かなかった。彼はそれ以上耳を傾けようとはせず、霧の向こうに消えていく。
霧が風となり、砂がさらさらと動く。風が砂に文字を描き、それは獣の足跡のように砂浜に続いた。
For the world’s more full of weeping than you can understand
アイルランドの詩人が歌った一節だ。これが、獣たちの世界なのだろう。
朝が昇る。たくさんの気配が立ち上がる。獣たちが動き始めたのだ。世界の霧は彼らの熱で消えていく。その後には青く透き通った空気が広がり、潮騒も音を増して空に手を伸ばす。
霧が晴れて地球の丸みが見えてきた。獣の姿は、砂浜のどこにも見当たらない。
昼:桜の精霊/巡り巡る世界との邂逅
砂浜は世界の色を鮮やかに照り返し、穏やかな潮騒のもとに広がっている。獣はこの静まり返った世界を苦しみと捉えている。だが彼女は逆に、潮騒が連れてくる孤独の声に喜びを見出すだろう。
砂浜の端からゆっくりと裸足で歩いてくる彼女は、桜の精霊だ。桜が花を咲かせる時期を除いて、桜の精霊たちは世界を旅して回っている。
今まで何人かの桜の精霊たちに出会ってきたが、彼女は少し変わった精霊だ。この砂浜に歩いてやってきた精霊などいなかった。それも彼女は、この寒いなかを裸足で歩いている。白いコートに、空を生地にしたようなロングスカートを履いて、海の向こうを眺めながら、ゆっくりゆっくりと。後ろで組んだ手には海の青を思わせるようなサンダルを持っている。彼女の歩く速度に合わせてぶらんぶらんと揺れる様が、妙に懐かしい想いを起こさせる。なぜかは分からない。
桜の精霊たちはみな人間にはない特別な魅力を持っている。今まで私が出会った精霊たちも例外ではなかった。こちらから話しかけずにはいられない、不思議なものがあった。彼女はそのなかでも特別だ。その存在はこの砂浜よりも大きく、海よりも深いのではないかと思ってしまう。
彼女が振り向き、目が合った。眼尻でわずかに微笑み、彼女は足を止めた。その時初めて、自分がいつの間にか立ち上がっていることに気が付いた。恥ずかしさを隠すようにお辞儀をすると、彼女はこちらに向かって足を踏み出した。砂浜に、そう大きくない足跡が続く。形の良い彼女の足が砂に取られることはなく、一歩一歩、しっかりと近付いてくる。胸が高鳴る。グラスに残った青い酒を、一気に飲みほした。
「昼間からお酒を飲んでいるのね」
「一日中飲んでいるよ。それが仕事なんだ」
「噂には聞いていたけれど、会ったのは初めてだわ。砂浜の酒飲み」
桜の精霊は私の隣まで来ると、砂で汚れることを躊躇することなく、腰を下ろした。潮を乗せた柔らかい風が、彼女の長い髪を揺らす。少しだけ甘い匂いがした。憂いなど溶けてしまいそうな、心地よい香りだ。
「静かなところね。私にもひとつくれる?」
「もちろん、特別なものをあげるよ。君の裸足が温まるようなものを」
「寒さには強いのよ」
確かに、桜の精霊は震えひとつしていない。まるで小春日和のなかにいるかのように、砂に足を延ばして佇んでいる。
「海の孤独と静けさに、空の青と桜の花びらをみっつ添えたもの。名前は、そうだなあ、『巡り巡る世界との邂逅』」
「ありがとう、ちょっと堅苦しい名前なのが気になるけれど、いただくわ」
桜の精霊はグラスを手に取ると、目を閉じて何かを想うようにして香りを嗅いだあと、ゆっくりと青い酒を飲みほした。「どう?」と聞くと、彼女は何も言わずにグラスを回して、私の前に差し出した。グラスの底には、桜の花びらが五枚付いている。彼女の意図が分からずに戸惑っていると、「おいしかったわ」と優しい声が風のようにそよいだ。
「ここはいいところね。まるで世界そのものが休息しているみたい」
「今朝早くに獣が来たんだ。彼も少しは休めただろうか」
「さあ、どうでしょうね」
海の果てを眺めながら彼女は囁く。その声の奥には、不思議と肯定が感じられた。
「ここの夕陽はとても綺麗なのでしょうね」
「それはもう、特別だ。ここで見られるのは世界のための夕陽だ。孤独も静けさも、全てを焼いて夜の底に沈めるんだ」
「それでも孤独も静けさも、なくならないのね」
無言で頷くと、彼女はその優しい眼差しで振り向いてくれた。飲み込まれそうなほど深く、あらゆるものがその奥にある。
「きっと獣は癒されたはずよ。またここに来るかもしれないわね」
「次に来た時は、彼にも酒を出すようにするよ」
潮騒が鳴り続ける。その度に砂浜には孤独が降り積もる。彼女はじっと座って、いつまでも海を見ている。彼女には何が見えているのだろうか。孤独のなかに、この静けさのなかに、彼女は何を捉えているのだろうか。それはやはり、喜びなのだろうか。
彼女の微笑みにはたくさんのものが混ざっている。だが混ざっているものは光のように透きとおり、白い燐光を滲ませている。
「名前を聞いてもいいかな」
「カオリよ(作者注:本来的に精霊たちは人間が知覚できるような名前など持たないが、ここでは便宜的にこの名を使った)」
空気が揺れ、彼女の甘い匂いがほのかに広がる。懐かしい。まるで自分が生まれた場所のように。
潮騒が強くなる。空が青みを増していく。まるで泣いているかのようだ。この後に、夕陽が世界を照らし始める。
「もう一度会うことがあれば、その時にあなたの名前を聞くわ」
カオリは立ち上がり、スカートに付いた砂を軽く払うと、裸足のまま歩き始めた。「もう一杯飲まないか」と聞くと、「陽が落ちるまでに行きたいところがあるのよ」と返された。自分のグラスの酒を飲みほしてから「ありがとう」と言うと、彼女は振り返らずに「ありがとう」と言った。潮騒に溶けそうな声だったが、はっきりと聞こえた。
砂浜は続く。カオリはゆっくりと歩き続ける。彼女の姿が見えなくなるまで、まだ当分かかるだろう。また会える日を願いながら、彼女の後姿をじっと見つめる。この甘い残り香が消えるまでに、あと何杯の酒を飲むだろうか。
夜:透明な不死者/終わりは延々と続く世界の一点にすぎない
闇の合間を縫って潮騒が押し寄せてくる。砂浜では月と星だけが唯一の明かりとなる。海の向こうには灰色の光がぼんやりと浮かんでいるが、私に関係するものではない。孤独のひとつかもしれないが、光が砂浜にまでやってきたことはない。まるで遠い遠い国の、いや、存在しない場所の光かもしれない。
潮騒とは違う、砂を踏みしめる音が時々聞こえる。暗闇のなかでは姿が見えない。確かな気配も感じない。空耳のような気もする。しかし足音は確かに命の重みを砂へ伝えてくる。今まで出会ったことがない、初めての来客だ。
足音は挙動不審に砂浜を行き来して、少しずつ私に近付いてくる。時にゆっくりと、時に素早く動き、まるで何かから逃げているかのように。風が吹くとわずかに足音をさせて、震えているような気配を立てる。おそらく彼は怯えている。この砂浜に来たのだから、彼も孤独と闘っているのだ。
「そんなにこそこそとしなくてもいいじゃないか。一杯飲まないか。少しは落ち着くはずだ」
「怖いんだ。心底怖いんだ。なんでもいい、とびきり強いやつをくれよ。この恐怖が吹き飛んでいくようなやつを」
足音は小刻みに砂を蹴り、私のすぐ側で止まった。だが姿は見えない。こんなにも近いのに、気配が強くない。
「闇の重さに星屑を溶かしたもの。名前は、『遠い存在』」
差し出そうとすると目に見えない力にグラスを引っ手繰られた。目の前の闇にグラスが溶け込み、喉を通る酒の音が砂浜に落ちた。
「何を怖れているんだ」
「教えてほしいんだ。そのためにやってきたんだから」
見えない手が私にグラスを返してきた。その底にはいくつかの星屑が溜まっている。
「俺は本当に永い時間生きてきた。あんたも相当な時間を生きてきたみたいだけど、俺にはかなわないね。なんたって俺は不死者なんだ」
「死ぬことのない者でも、悩みがあるんだな」
「あんたは想像したことがあるかい? 消える苦しみを、その恐怖を。俺はもともと肉体を持っていたのに、いつの間にか消えてしまった。今は意識だけで生きているんだ。だがどうだろう、今度はいつの間にか意識まで消えていくんじゃないか? 俺は不死者だが、消えるかもしれないんだ」
「恐怖を消す方法がひとつあるが」
「何でもいい、教えてくれ、そのために来たんだ」
「消える前に死ねばいいだけさ」
透明な不死者は甲高い悲鳴を上げて後ずさりした。彼の震えがよく伝わる。気配以上に、震えているのがよく分かる。
「お、俺がどうして不死者なのか知ってるのか! この馬鹿が!」
彼の足元で砂が暴れる。体全体で動いているのかもしれないが、透明な体が私に当たることはない。
「死んだらどうなるか知ってるのか! 怖い、それも怖い。消えるのも怖いが、死ぬのも同じくらい怖い。俺の永い人生が終わってしまうなんて怖すぎる」
「朝ここに来た獣は、死を求めていたよ」
不死者はもう一度悲鳴を出した。今度は砂に尻もちをついたようだ。彼が震えると、砂の上に模様ができる。意味はないだろうが、恐怖を模ったものかもしれない。
「昼にやってきた桜の精霊は、死が存在するこの世界を愛していたよ」
「もうたくさんだ、やめてくれ!」
不死者は立ち上がると、海に向かって走っていった。潮騒が一瞬だけ荒れ、元に戻って砂浜を覆う。海に入ってしまっては、彼を探すことができない。
この海を渡って、彼はどこに行くのだろうか。消えることを怖れながら、本当に消えてしまう時までを震え続けて過ごすのかもしれない。
それともどこかで死ぬことを受け入れて、世界に還ることができるかもしれない。できればそうなることを祈ってやりたい。そうすれば、いつの日か彼の素顔を見ることができるだろう。
その時は、もっと旨い酒をつくってやろう。