大賢者の軌跡 ――異世界から授かった而立の証
異世界イルフェストが日本へ転移してから、世界は大きく変わった。
空には時おり、見知らぬ星座が混じるようになった。
駅前には、剣を下げた異世界人が立つようになった。
役所には異世界災害相談窓口が置かれ、コンビニの求人票には「魔物対応手当あり」の文字が並び、自衛隊と宮廷魔術師が同じ会議室で作戦図を広げるようになった。
そして日本人の多くは、スキルに目覚めた。
身体能力の強化。
治癒。
解析。
収納。
念話。
炎や水を操る者もいた。
だが、その混乱の中で、ただ一人。
日本側における魔法の概念そのものを塗り替えた男がいる。
佐伯悠真。
後に、大賢者と呼ばれる男である。
最初の記録は、転移発生から七日後。
新宿駅南口飛竜落下事故。
空に開いた異界孔から、三体の飛竜が落下した。
自衛隊の対空火器は届いた。だが、飛竜の鱗を覆う魔力障壁を抜けなかった。イルフェストから派遣された魔術師たちも、都市部での大規模術式行使をためらった。
人々が逃げ惑う中、佐伯は一人、道路の中央へ出た。
記録映像に残っている言葉は、ひとつだけである。
「落ちろ」
その瞬間、三体の飛竜は空中で停止した。
見えない鎖が翼を縛り、爪を閉じ、顎を封じた。
飛竜は暴れた。
だが、落ちなかった。
佐伯は片手を上げたまま、三体の巨体をゆっくりと地上へ降ろした。付近のビルガラスは一枚も割れず、避難者に死者は出なかった。
この時、救助された女性が涙ながらに彼へ礼を告げたという。
「ありがとうございます。あなたがいなければ、私は」
佐伯は彼女と目を合わせなかった。
「礼など要らない」
そう言い残し、彼は次の現場へ向かった。
功績に溺れず、感謝さえ受け取らない。
この一幕は、大賢者の孤高を示す最初の逸話として、今も語られている。
二つ目の記録は、多摩丘陵魔力嵐封鎖事案である。
転移から一か月後。
多摩丘陵の上空に、異世界側の魔力層が流れ込んだ。
風は見えない刃となり、建物の壁を削った。電線は青白く発光し、地面には魔法陣に似た亀裂が広がった。
イルフェスト側の魔術師は、その現象を魔力嵐と呼んだ。
発生すれば、通常は都市ひとつを放棄する。
それが彼らの常識だった。
佐伯悠真は、現地到着から十三分で封鎖陣を構築した。
しかも、彼が用いたのはイルフェスト式の既存術式ではない。
日本の道路標識、信号機、避難誘導の電光掲示板、駅前広場の白線。
それらを即席の基点として、都市そのものを巨大な魔法陣へ組み替えたのである。
同行していたイルフェスト宮廷魔術師ガルヴァンは、後にこう証言している。
「あれは結界ではない。都市に命令を与えたのだ。風よ、そこで止まれ。火よ、そこを越えるな。道よ、人を逃がせ。あの男は、街そのものに魔法を使わせた」
封鎖完了後、異世界災害対策庁の職員が佐伯に握手を求めた。
佐伯は、静かに会釈だけを返した。
「手は、いい」
膨大な魔力を宿す自らの肉体が、常人に与える影響を危惧してのことだと考えられている。
その配慮もまた、大賢者の慎み深さを示す逸話となった。
三つ目の記録は、イルフェスト魔術院との共同研究会である。
転移から三か月。
日本側のスキル保持者とイルフェスト側の魔術師による、初の大規模術式検証が行われた。
その場で佐伯悠真は、四属性同時展開を成功させた。
火。
水。
風。
土。
イルフェストでは、ひとりの術者が扱える属性は多くて二つ。三つ扱えれば天才。四つを同時に制御する者など、伝説の中にしかいないとされていた。
佐伯はそれを、初見の術式説明を聞いてから二分で行った。
さらに彼は、会場に置かれていた割れた茶碗を指先で修復した。
治癒魔法でも錬金術でもなかった。
破片が、割れる前の形を思い出すように、音もなく戻っていったのである。
魔術院所属の女魔術師エルネア・リゼルは、その才能に強い関心を示した。
彼女はイルフェストでも五指に入る術者であり、魔術院次期院長とも目されていた人物である。
そのエルネアが、佐伯へ言った。
「あなたほどの術者なら、私と共に魔導の深奥へ至れる」
最大級の賛辞であり、誘いだった。
だが、佐伯は首を横に振った。
「俺は、どこにも属さない」
エルネアは後に語っている。
「あの拒絶には、孤高の覚悟があった。魔導の深奥に至る者は、誰かの所有物になってはならない。彼はそれを知っていたのでしょう」
この日から、イルフェストの魔術師たちは佐伯をこう呼び始めた。
大賢者。
日本に生まれた、規格外の魔法使い。
――異世界災害対策庁広報誌『境界』特別号
『大賢者佐伯悠真、その三か月』より抜粋。
という記事を読んだ。
誰の話だ。
いや、俺の話ではある。
佐伯悠真。
三十歳。
職業、異世界災害対策庁特別魔法顧問。
通称、大賢者。
世間的には、まあ、そういうことになっている。
ただ、随分と美化されたものだと思う。
だが、俺が魔法を使えるのは事実だ。
飛竜は止めた。
魔力嵐も封じた。
イルフェストの宮廷魔術師が十年かけて学ぶ術式を、俺はなぜか数分で理解できる。
異世界災害対策庁から受け取った辞令にも、はっきり書かれている。
佐伯悠真。
能力分類、魔法系。
暫定称号、大賢者。
そこまではいい。
問題は、その下だ。
スキル名。
【魔法使い】
やめろ。
いや、魔法は使っている。
だから分類として間違ってはいない。
間違ってはいないのだが、言い方というものがある。
なぜ俺がここまで強力な魔法を使えるのか。
その理由は、今も分かっていない。
異世界転移の影響。
スキル覚醒。
魔力環境への適応。
俺自身の才能。
理由はいくらでも考えられる。
少なくとも、一つだけ断言できる。
あの日。
イルフェストが日本へ転移してきた、あの日。
俺が三十歳の誕生日を迎えたこととは、断じて、何の関係もない。
ない。
絶対にない。
俺は大賢者であって、そういう意味の魔法使いではない。
ど、童貞じゃねえし。
異世界から奪うくらいなら、王位継承権を捨てて王国ごと亡命します
https://ncode.syosetu.com/n3882mi/
世界観はこちらの短編と共有。




