【連載はじめました】3才児ですが可愛い花嫁がやってきた!と溺愛されてます。しかし私は敵国の最強魔法帝です
……冷血将軍の初夜は、『育児書』から始まった。
ゆうに三人は座れそうな革張りのソファーに、ちょこんと座る花嫁がひとり。
短い足は床に届かず、ぶらぶらと所在なく揺れている。
花嫁は手持無沙汰なのか、少しむくれて頬をぷくりと膨らませており、冷血将軍はその姿を仁王立ちで見下ろしている。
「まず、『目線を合わせろ』……か」
言うが早いか片膝をつき、まっすぐに花嫁を覗き込む。
あの冷血将軍ロイドが。
赤子には泣かれ、動物には漏れなく吠えられ。
二十三才になるまでただの一人も令嬢を寄せ付けなかった、――あの、ロイドが。
降って湧いた結婚話を抵抗なく受け入れ、さらには神妙な面持ちで、花嫁に接触を試みているのだ。
「ロイド・セシリオという。辺境の領地を治めている」
厳めしい面持ちに似合わない丁寧な自己紹介をしたまでは良かったが、そもそもロイドの主戦場は敵地か、魔獣はびこる森である。
名を告げるのはいつも戦いの直前であるため、知らず拳に力が籠もる。
だがここは戦場ではない。
使い慣れた剣はただ重いだけの鉄塊に成り果て、頼れるのは握りしめた一冊の育児書だけ。
――そう。
付け焼き刃の知識だけを武器に、彼は初夜を乗り切らねばならなかった。
「どうだ、何か思うところはあるか?」
至近距離で花嫁……レティシアを見据え、「要望があるなら言ってみろ」とまるで部下に命じるかのように問いかける。
精悍な顔立ちに、強い意思を宿した眼差し。
隙のない所作はさすが武人と言ったところか。
だが近い。とにかく近い。
そのうえ無意識に威圧してくる。
そして花嫁は泣くどころか怯える気配すらなく、先ほどから無尽蔵の胆力を見せつけているのだ。
「不本意だろうが王命だ。妻にすると決めたからには、必ず幸せにしてやる」
「……ろいど、ほんき?」
「無論だ。生涯、お前だけを愛すると誓おう」
花嫁がロイドを呼び捨てなのはさておき、それは紛れもない騎士の誓い。
国王陛下から賜った、それはそれは可愛らしい花嫁への、愛の証明に他ならない。
ロイドは見た目にそぐわぬ柔らかな所作で腰を折り、そっとレティシアの手を取った。「約束する」と呟いて、ぷくぷくとした小さな指先に恭しくキスをする。
「魔法帝が攻めてくるとの噂だが、関係ない。俺が滅ぼしてやる」
「……」
高名なる魔法師団を従え、相対すれば魔獣ですら逃げだすと囁かれる、魔法国の皇帝陛下。
その魔法帝に宣戦布告したロイドを見遣り、レティシアの目がすっと細まる。
予期せぬ結婚話。
それも新郎新婦は、本日初対面である。
出自も分からぬ謎の幼女を妻にしろと命じられ、不本意なのはむしろロイドであるはずなのに。
だが、彼は知らない。
溺愛を誓った花嫁が、――世界最強の魔法帝だということを。
***
――ここは、どこだ。
身じろいだレティシアの頬に、ひんやりとした床板が触れる。
魔力切れを起こした身体はズシリと鉛のように重く、指先すらまともに動かなかった。
「魔力反応は?」
「わずかにありますが、その……取り立てて強いわけではありません」
力なく倒れたレティシアを中心にして、同心円状に魔法陣が広がっている。
霞む視界に魔法師らしき男が見え、胸元にはトルティア王国の紋章が象られている。
中央には身なりの良い男が座しており、状況から見るに国王のようだ。
天井を支える重厚な石柱の基部には、王宮建築によくある優美な彫刻が施されており、窓ひとつない広間には、じっとりと湿った空気がこもっている。
陽の差し込まぬ、秘された場所。
祭壇が据えられていることから、何かしらの儀式を行うための部屋……それも、トルティアの王宮地下室だと分かる。
つい先ほどまで、間違いなく魔法国アストリアの宮殿にいたはずなのに。
――なんたること。
目覚めたらまさかの、敵国王宮ど真ん中だった。
「ああ、気が付いたようですね。名前は言えるかな?」
「れてぃ……」
絞り出すように紡いだ声は途中でつかえ、まるで幼子のようにたどたどしい。
他国の魔法師程度、通常であれば指先一本で沈めるところなのに。
この状態では攻撃するどころか、逃げることさえ儘ならない。
「……召喚は、失敗だな」
凍てつく眼差しでレティシアを見据えたまま、黒髪の男が歩み寄る。
無造作に歩くだけで空気がひりつき、レティシアの肌が薄く粟立った。
――コレは、排除すべき『危険なもの』。
無意識に身構えたところで、ふと桜貝のような可愛らしい爪が目に入る。
「?」
紅葉を思わせる、ぷくぷくとした小さな手。
そろりと視線を上向ければ、男が携えた抜き身の剣に、ひとりの幼女が映り込む。
黄金の髪に、紫の瞳。
つやつやほっぺに、小さな体。
――ん?
なにやら見覚えのあるその顔に、背筋が凍る。
これは一体……まさかの、……私?
服だったものは見る影もなくボロ布と化し、どこもかしこも縮んでいる。
取り留めもなく剣を見上げる幼女の姿は、どう見ても、どう多めに見積もっても三才程度。
自分で言うのもなんだが、ついぞお目にかかれないほどの美幼女だった。
「ですがロイド将軍――」
「我々が喚んだのは、聖獣ヴェリアル様だ。この程度の魔力ではない」
魔法師の言葉を遮るや否や、ロイドはレティシアを一瞥する。
どうやらレティシアの従属獣である、『聖獣ヴェリアル』を召喚しようとしたらしい。
毎夜レティシアの足元で眠るのが常なのだが、今日に限っては身の毛もよだつような叫び声を上げ、突如現れた魔法陣に吸い込まれそうになっていた。
足を掴んで引きずり出し、助けたところで、今度は代わりにレティシアが召喚されてしまった。
なぜ幼女になったのかは分からないが、魔力の回復には時間がかかる。
そうだな……一ヶ月といったところか。
ひとまず温かな食事と、寝床がほしい。
レティシアは必死に体を起こすと、潤んだ瞳をぱちぱちと瞬かせた。
「……おにいさまたち、こわいひと?」
小さな手のひらでボロ布を握りしめ、小首をこてん、と傾げてみせる。
最強の魔法帝などともてはやされているが、実際は息をつく間もなく仕事に追われ、まともな余暇すら儘ならない。
並みの貴族令嬢であれば、夫を支え社交界に勤しみ、我が子の将来を見据えて婚約者探しに乗り出す……そんな年頃だというのに。
最強・社畜・行き遅れ――。
つまりは、とうに成人済みの二十五才だった。
「ふぇ……お、おこって……る?」
「大丈夫、怖くない。それに怒ってないよ」
最高傑作のネコ被りを披露した結果、一番に釣れたのはレティシアを召喚した魔法師だった。
さぁおいで、と申し訳なさそうに手を差し伸べる。
だが次の瞬間、ボロ布の隙間からレティシアの腕がのぞき、魔法師がぎくりと動きを止めた。
「……ッ、これは……?」
焼けただれ、鋭利な何かで切り裂かれたような線。
魔獣の噛み痕のような、――いびつな窪み。
とっくの昔に塞がった古傷ばかりだが、その数は目を背けるほどにおびただしく、三才児の身体にあっていいものではない。
――まずいな、見られてしまった。
取り繕う暇もなくレティシアが身構えた直後、大きな布がかぶさるように落ちてきて、彼女の身体を覆い隠した。
「……誰にやられた?」
レティシアの前に片膝をつき、低く、抑えた声でロイドが問う。
その肩にはマントがない。
先ほど降ってきた布は、ロイドのものだったらしい。
魔法師もまた人目に触れるべきでないと判断したのだろう。
慌ててレティシアを布でくるみ、気を取り直したように抱き上げた。
「陛下。少ないながらこの子には魔力があります。攫われて奴隷にされていたのかもしれません」
魔法師がそろりとレティシアの袖をまくると、凄惨な傷跡が露わになり、国王が眉根を寄せる。
「元いた場所も分からず、帰すことも難しい状況です。さらにこの容貌となれば、神殿に目を付けられるのも時間の問題かと」
「さて、どうしたものか……」
聖女などと担がれたら面倒なことになるなと呟いて、国王は悩ましげに目を伏せた。
「……ロイド、確かお前にはまだ婚約者がいなかったな?」
なぜこの場面で婚約者?
質問の意図が分からず、だが続く言葉に、レティシアの背筋が凍りついた。
「その娘を、お前の妻にせよ」
――は?
慌てて家臣達をぐるりと見回すが、誰一人として諫めない。
王国が誇る将軍、それも由緒正しき辺境伯。
どこの馬の骨とも分からぬ謎の幼女を妻にするなど、許されていいはずがない。
「それにお前なら、万が一のことがあっても対処できる。ちょうどいい」
「承知しました」
承知をするなぁッ!!
理解が追い付かないまま、声にならないツッコミだけが空回りしてしまう。
三才児を妻にすることに、一切の疑問を抱いていない。
なんら感情を伴わない愚直なまでの忠誠心で、命令のすべてを受け入れている。
いや、疑問を抱いた上で受け入れたのか……この男、思った以上にヤバそうだ。
こうしてレティシアはピカピカに磨かれ、荷物のごとくロイドの小脇に抱えられ、辺境の街へと向かったのである。
――そして迎えた運命の夜。
冷血将軍との初夜は、一冊の『育児書』から始まった。
「……生涯、お前だけを愛すると誓おう」
溺愛を誓った花嫁が『世界最強の魔法帝』などとは知る由もなく、レティシアが慄くほどの真剣さでロイドが告げる。
屋敷でどう過ごしたいか。
嫌いなもの。好きなもの。
一つ聞くたびに育児書をめくり、答えを聞いてはまたページをめくる。
怖いものがないかやけに詳しく尋ねてきたのは、レティシアが虐待を受けていたと思っているせいかもしれない。
だめだ、眠い。本当に眠い。
返事をしたいのに意識が朦朧とし、ロイドの声が次第に遠くなっていく。
次の瞬間ふわりと身体が浮き上がり、広いベッドに横たえられた。
「寝たか」
毛布がかかり、頭のすぐ上からロイドの声が落ちてくる。
愛情の薄いレティシアの実母は、添い寝をしてくれたことなど一度もなかった。
魔法帝になってからも、広いベッドに自分だけ。
シーツは冷たく、隣はいつも空いていた。
同じベッドで誰かと眠るのは……初めてかもしれない。
毛布越しに伝わってくる手のぬくもりに、思考がとろりと蕩けていく。
レティシアは敵国の将軍の腕の中で、あっけなく眠りに落ちたのである――。
***
それからは、毎日が至れり尽くせりだった。
柔らかく煮込まれたお粥。一口サイズに切られたパン。小さな器に盛られた果物。
食事ひとつとっても、レティシアが食べやすいよう工夫されている。
「手が小さすぎる。それではスプーンも持ちにくいだろう」
短い四肢に慣れず、悪戦苦闘するレティシアをあろうことか膝に乗せ、「食え」とロイドがぐいぐい口元に押し付けてくる。
「たくさん食べないと大きくなれない」
「……、……ッ……!!」
我々は敵対する国同士のはず。
かたや自国内でも恐れられる冷血将軍。
かたや魔法師団を率いる、敵国最強の魔法帝。
ところが初夜が明けるなり、冷血将軍が有無を言わさず、手ずから食べさせてくるのだ。
真面目過ぎるきらいはあるが、元来子どもが好きなのだろう。
日を追うごとに過保護ぶりは増していき、移動時は当然のように抱き上げられ、気付けば執務中も膝の上に乗せられている。
お絵描き用に準備してくれた羊皮紙にぺたりと頬をくっつけながら、ロイドの手元をチラリと見やる。
脳筋将軍と聞いていたが、なかなかどうして手際がいい。
うむ、これは……調査がはかどる。
文字が読めない三才児設定のため、機密書類が見放題。
あまりに容易く情報が得られてしまうので、申し訳なくなるくらいだ。
午後はロイドに連れられ、レティシアは視察と称して街へ繰り出した。
魔法国にいた時は賑わいを横目に通り過ぎるだけだったが、今日は違う。
時間はたっぷり。
好きな物を買っていいと言われているのだ。
自由。これが自由か。
――悪くない。
安定感抜群の腕の中、今やレティシアは、バカンスとはかくあるべきと確信していた。
「好きに見て構わない」
相変わらずロイドが甘やかした結果、露店巡りは一刻にも及び、――—ふと目を留めたのは、ぬいぐるみの店だった。
丸く、茶色く、ぽってりとした小さな耳。
つぶらな瞳は黒いビー玉を思わせ、何かを訴えるかのようにレティシアを見つめている。
なるほど、可愛いものだ。子ども達が夢中になるのも無理はない。
魔力の高さを見出され、物心ついた頃には魔塔で過ごし、渡されるのはいつも魔法書だったレティシア。
気付けばロイドの腕から降り、地べたにしゃがみ込んでぬいぐるみを眺めている。
……あ。
我に返り、ちらりとロイドを窺うと、彼は何を言うわけでもなく、ただじっとこちらを見つめていた。
恥ずかしさに俯けば、そのまま腕の中に戻される。
レティシアも何も言わなかった。
ぬいぐるみの店は、あっという間に後ろへ遠ざかっていく。
別に欲しいわけじゃない。
ただ少し、気になっただけ。
誰に言い訳するでもなくロイドの肩に頬をつけ、レティシアは黙り込む。
――それきり。
夜も更け、寝室へと移動する頃には、ぬいぐるみのことなどすっかり忘れていたのだが――。
いつものようにベッドへダイビングしようとしたところで、レティシアがぴたりと足を止めた。
枕元には見覚えのあるシルエット。
丸く、茶色く、ぽってりとした小さな耳。
「……ッ」
もう、二度と会うことはないと思っていたのに。
弾かれたようにバッとロイドを振り返ると、腕組みをしたまま壁に凭れ、ただじっとレティシアを見つめている。
「気に入らなければ捨てていい」
「……」
そろそろと近付き、恐る恐るぬいぐるみの耳に触れてみる。
ふかりと指先が沈んだ。
「~~ッ!?」
柔らかすぎる。
想像よりも、ずっとずっと柔らかかった。
レティシアよりも一回りほど小さい……抱き心地抜群のぬいぐるみ。
つぶらな黒い瞳がこちらを見てきた。
艶々として、どこかロイドの目に似ている。
「かわいい!」
「……そうか」
力いっぱい抱きしめれば、ふかふかの毛並みが頬に触れ、柔らかなお日様の匂いが鼻腔をくすぐる。
「ろいど」
「ん?」
「……ありがと」
なんとなく顔を上げる気にはなれず、ぬいぐるみに顔を埋めたまま、くぐもった声で礼を言う。
衣擦れの音がした次の瞬間、レティシアの身体が宙に浮いた。
どさりとベッドへ腰かけるなり、膝の上に乗せられ、大きな手で優しく頭を撫でてくれる。
「……ッ」
認めよう。
甘やかされている。子ども扱いされている。
――大切に、されているのだ。
気付いたらレティシアは、ロイドの首にぎゅうっと……衝動的に抱き着いていた。
「うれしい」
その瞬間、ロイドの身体が石のように固まった。
窺うように見上げると、今まで見たことのない柔らかな顔で、その口元が綻んでいる。
「…………ありがと」
たったそれだけのことなのに。
なぜか、息ができなくなってしまった。
***
(SIDE:魔法国アストリア)
遠くからでも一目でそれと分かる黒塗りの塔は『魔塔』と呼ばれ、選ばれた者だけが足を踏み入れることを許される、魔法師達の聖域である。
その魔塔が今、文字通り蜂の巣をつついたような騒ぎとなっていた。
――魔法帝が消えた。
それも、魔法陣に吸い込まれて。
廊下という廊下を、ローブ姿の魔法師達が駆け回っている。
それもそのはず。
「レティシア様ァァァ――――ッ!!」
魔法帝レティシアの片腕とも自負する実力者……魔法師団長ディーンが、司令室のど真ん中で大絶叫しているのだから。
魔法国アストリアきっての天才魔法師であり、巷では『賢者』と称えられるほどの、……その彼が。
恥も外聞も、すべてをかなぐり捨て、魔法帝レティシアの名を喉から血がでるほどの勢いで叫んでいた。
「チンタラするなぁッ!」
「ですが師団長。魔力の残滓をずっと辿っているのですが、まるで溶けたかのようにレティシア様の寝室で途切れてしまって……」
「魔法陣が突如現れたと、聖獣ヴェリアル様も仰っていたじゃないか! レティシア様の魔力を辿れないなら、そちらを解析しろ!!」
「は、はい。ご存じのとおり、見慣れない魔法式の痕跡があり、もしかすると転移ではなく消滅魔法かも……」
今では使われない禁忌の魔法だったと聞いている。
それも聖獣ヴェリアルすら吸い込まれそうになったほどの、緻密に練られた大魔法。
困り果てた顔で説明したのは、副師団長のクロニクルだった。
貴族であり、代々師団長を務めるディーンが生え抜きの魔法師であるならば、彼は平民出身たたき上げ。
魔法師団の良心であり、部下とディーンとの間でいつも板挟みになる、数少ない常識人である。
一代で魔法師団のナンバー2までに上り詰めた彼は、一見ナヨナヨした文官のごとき優男だが、レティシアをして『次期師団長はクロニクルである』と言わしめるほどの実力者だった。
今日もまた、ディーンと部下の間で板挟みになるべく、参上した次第である。
「消滅だと……?」
ディーンの動きがぴたりと止まる。
不穏な気配を察知して、魔法師達がごくりと喉を鳴らした。
「ええと、やっぱり、転移先がはるか遠くの新大陸である可能性も……」
「なるほどね、はるか遠くの新大陸」
ハッと短く息を吐き、ディーンは口元に歪んだ笑みを張りつける。
とりまく魔法師達はついに手を止め、そっと視線を行き来させた。
「ボクがレティシア様の代行作業に追われている間、お前達は雁首揃えて、転移先の特定すらできなかった、と」
「あ、いえその、なにぶん古代の禁術のようで……」
「かれこれ一週間もかけて分かったのは、憶測の域を出ない『消滅したかも?』『じゃなくてやっぱり、はるか遠くの新大陸かも?』の二択であった、と」
ちりり、と部屋の隅が小さくスパークする。
泣く子も眠る、深夜二時。
燭台の灯りが届かない場所だからか、やけに眩しく残像が残る。
「――そうか」
ディーンがにこりと、穏やかな笑みを浮かべた。
それに押されるようにして、ずり、と魔法師達が後退る。
ひとり逃げることを許されない副師団長クロニクルは、汗でずり落ちたメガネを震える指で押し上げた。
いつもならレティシアがディーンの首根っこを掴んで、力技で黙らせてくれるところだが、今回ばかりは期待できない。
「つまりは何ひとつ分かっていない、と」
ディーンは凄みのある笑顔のまま、並び立つ魔法師達へ順に視線を向けていく。
魔法師達は恐ろしさに声も出ず、その間も部屋のあちこちで、パチン、パチンと短い破裂音が鳴り響いた。
「――死ぬ気で、見つけろ」
地を這うような、低く、押し殺した声。
はいいいいッ! と返事だけは立派に、魔法師達が脱兎のごとく逃げていく。
「どうしたらいい」
ディーンはゆらりと力なく立ち上がり、身体を支えるようにして机上の書類へ手を突いた。
指先からじわじわと黒く侵食していく。
焦げ跡が文字を飲み込んだ瞬間、花台の花瓶がガシャッと音を立てて粉々に砕け散る。
「――――ボクの太陽が、消えた」
***
「れてぃも、いっしょ?」
「そうだな、お前も一緒に連れてこいとのことだった。出没したのは小型魔獣だから、そう怖がることもない」
――翌日。
討伐依頼は珍しくもないが、今日は国王直々の通達ということで、いつもと勝手が違っていた。
「……なんでお前みたいな子どもが、ここにいるんだ」
落ちていた小石が気になり、拾い上げようとして屈んだところで突然声が降ってくる。
金の髪に、金の瞳。まだ五才くらいだろうか。
経験を積ませるためらしいとロイドに耳打ちされ、改めて見れば、小さいくせに妙な威圧感がある。
「じぶんも、こどものくせに」
「ぼくはここに用がある! お前こそ何しに来た!?」
「わたしも、ようがある」
「嘘を吐くな。どんな用だか言ってみろ」
「……ひみつ」
「なんだと!? 生意気な奴め!」
カッとなってシリウスが何か言いかけたその時、ロイドがレティシアの隣に立った。
「シリウス殿下。彼女は我が辺境伯家の大切な方です」
「……ッ、ロイド……」
「それに、万が一があってはいけません。レティと一緒に奥へ避難してください」
ロイドに促され、二人揃って避難した後もまた、シリウスからジロジロと不躾な視線を送られる。
体力が三才児なら、忍耐力も三才児。王太子だからといって、へりくだる気は微塵もない。
若干苛立ち、レティシアはぷいっと顔を横向けた。
「こ、こいつ……ッ」
「んあ?」
ぎろりと至近距離でガンを飛ばし、シリウスも負けじと目線を返す。
一触即発。ちびっこ二人が、無言のまま睨みあう。
「……陛下、あれは」
「見なかったことにしよう」
もちろん保護者である国王も同席しており、少し離れた場所でそっと目を逸らしている。
だがその時、複数の音が混じったような不気味な声とともに、小型の魔獣が数匹姿を現した。
ロイドの剣尖が翻り、瞬きをする間もなく魔獣の首が落ちる。
飛びかかってきた二匹目もまた即座に切り伏せ、物理攻撃だけで魔獣を退けていく。
魔法もなしに、たいしたものだ。
素直に感心しながら見ていると、別の騎士達が魔獣を囲み、追い詰めているところだった。
――早くトドメを刺したほうがいい。
手間取る騎士達を横目で見遣り、レティシアが促すように首を傾けた直後、この世の終わりのような甲高い叫び声が空気を切り裂き、こだました。
今わの際に、危険を知らせる声。
助けを求めて仲間を呼ぶ声。
それは魔獣を捕食するものにとって絶好の、――餌の在処を示す音。
甲高く鳴いた魔獣の声が呼び水となり、声に誘われるようにして、山側が黒く染まる。
「……まずい」
隣にいた護衛騎士から、さぁっと血の気が引いていく。
一頭……二頭、……十数頭にも及ぶワイバーンが、こちらに向かって一直線に飛んでくる。
なぜ人里のある山間に、これほど大量の魔獣が……?
本来ならば起こりえない事態だが、昨今魔獣が増えているからだろうか。
だが考えている暇はない。
迫りくるワイバーンを差し引きし、導き出した答えは、――戦力不足。
この数の大型魔獣を討伐するには、どうみても足りないのだ。
「命に代えても、陛下達を護れ!」
迷いのないロイドの声に、空気がビリリと張り詰める。
「いのちにかえても……?」
呟くなり黙したレティシアに、後退ったシリウスの背が触れた。
ハッとしてシリウスが振り向けば、その瞳いっぱいにレティシアが映りこむ。
動じることのない真っ直ぐな眼差しを返され、シリウスは覚悟を決めたように、震える手で腰元の剣を引き抜いた。
「……子どもは、下がっていろ」
魔獣など到底切ることのできない、子ども用の短剣。
相変わらず子ども扱いしてくる五才児が、それでも守ろうと前に立つ。
レティシアはぐるりと周囲を見回した。
国王を護るべく大型魔獣と戦闘中のロイドを見る。命を投げ打つ覚悟の、騎士達を見る。
自らも剣を抜いた国王を見て、最後に震えながらレティシアを庇い、短剣を握る……王太子シリウスを見た。
……うん、悪くない。
ふう、と小さく息を吐く。
底を尽きかけていた魔力はわずかだが戻り、少ないながらも身体じゅうに行き渡る。
――仕方ないな。
目を細めた瞬間、レティシアを取り巻く空気が変わる。
重く、冷たく、音もなく吹き抜ける魔力の風。
隣に立つ護衛騎士の額から、どっと汗が噴き出した。
途方もない魔力の圧をすぐ後ろから叩きつけられ、シリウスもまた短剣を取り落し、ペタンとその場に尻餅をつく。
魔獣とは比べ物にならないほどの異様な気配に、戦闘中にも拘わらずロイドが振り返った。
――今、お前に死なれては、辺境伯家のおやつが食べられなくなってしまう。
そんな現金なことを考えながら、レティシアは目にも止まらぬ速さで魔力を練り上げていく。
「……寡婦になってしまうではないか」
思わず口をついて出た言葉に、自分でも少し驚いた。
いつの間にそんなことを思うようになったのかと、自嘲めいた笑みが零れる。
レティシアは片手を持ち上げ、ゆったりとした動作で横へと動かした。
一頭の首が弾けるようにして裂け、その勢いのまま地に落ちる。
もう一頭もまた翼をもがれて体勢を崩し、枝葉を薙ぎ倒しながら雑木林に突っ込んでいった。
いつもならレティシアの圧を感じただけで、大抵の魔獣達は逃げていくのに。
――あと少し、魔力が回復していれば。
おまけに使い慣れない小さな体が、高負荷の魔法に悲鳴を上げている。
するとロイド達を相手どっていたワイバーンの……それもひときわ大きいリーダー格の個体が、地を震わせるような声で鳴いた。
ぐるり、と――。
ワイバーン達の顔が、一斉にレティシアへ向く。
「あぁぁ……」
大きな目に涙を浮かべ、ついにシリウスが天を仰いだ。
「だいじょうぶだ」
そっと頭をひと撫でして、悠然と空を見上げ……先ほどとは逆、今度はレティシアが庇うようにシリウスの前へ出る。
今なら殺せると分かっているのだろう。
レティシア目指して、すべてのワイバーンが飛んでくる。
目の端でロイドが、リーダー格の個体を切り伏せたのが見えた。
今度こそ根こそぎ魔力を練り上げて、すべてを護るように大きな結界を張る。
極上の餌を前にしたワイバーン達は二度、三度と体ごとぶつかり、結界を揺らした。
……くそ、厄介だな。
何度も何度も繰り返し弾くうち、結界に亀裂が入り始める。
護る場所が広範囲にわたるため、どうしたって脆くなってしまうのだ。
膝がガクリと落ちかけ、限界が近付いてくる。
指先の感覚は、とうにない。
滲む汗を拭いもせず、唇を噛みしめたその時。
《なぁにをやっとるんだ、お前は》
のんびりとした声が、頭の中に直接響いてきた。
ゴッという鈍い音がして、瞬く間に結界が厚みを増していく。
《やっと魔力を検知できたかと思えば……なんだその情けない姿は》
呆れ果てたように文句を言われ、レティシアは目を瞬かせた。
(ヴェリアル? いったい、どこに……?)
念話が届く範囲は決まっている。つまりはすぐ近くにいるということ。
きょろりと見回せば、ぽっちゃりしたネコが茂みに隠れている。
(……ヴェリアル、なんだか薄汚れていないか?)
《お、おまっ!? 吾輩自ら探しに来てやったのに、何てひどいことを言うんだ!》
もふもふの前足を揃えて座り、不満げにレティシアを見つめる瞳は、紛れもなく聖獣ヴェリアル……のはずなのだが、ふわふわだった毛は艶を失くし、心なしか薄汚れている。
聖獣の神々しさは跡形もなく、ただ不細工なネコがそこにいた。
(魔法陣に吸い込まれるところを助けてやったのは、私のほうだ。だが恩返しに来たことは褒めてやる。見上げたネコだ)
《誰がネコだ! 聖獣だろうが! お前こそ、ワイバーンごときに随分と苦戦して……?》
それきり黙りこくり、ヴェリアルは伺うようにレティシアを観察する。
《ん? よく見たらお前、魔力が殆どないではないか》
これは面白いことになってきた! と高笑いするヴェリアル。
嬉しさに声が弾み、茂みの中からはみ出ない程度に、こそこそと身を起こした。
《無力な幼女に成り果てるとは……ついに積年の恨みを晴らす時がきたようだ! お前を倒し、吾輩はついに自由を――!! あ、あれぇ……?》
だがその直後、レティシアはずるりとヴェリアルの魔力を引き抜いた。
へなへな、とぶさねこヴェリアルが崩れ落ちるようにして、力を失う。
従属契約とは魂そのものに刻まれた、不可侵の契約。
主人に逆らうことは許されない。
つまりは絶対服従。契約主が求めれば、魔力どころか命をも差し出さねばならないのだ。
(五割といったところか? なるほど、これなら従属契約も悪くない)
くくく、と魔王のように、レティシアが悪意にまみれた笑みを浮かべる。
(聖獣とは名ばかりの駄ネコだと思っていたが……たまにはお前も役に立つじゃないか)
ヴェリアルの総魔力量は、レティシアの半分程度。
であれば根こそぎいただこう。
澄んだ魔力が身体を満たし、合わせた手の中で渦を巻く。
レティシアは静かに目を伏せ、ふっと零れるように手のひらへ吐息を吹きかけると、辺り一帯に深紅の円が広がった。
足元から、光が伸びる。
地中から浮き出るようにして魔法式が飛び交い、その周囲を巡る魔法文字が、じわりと熱を帯びてくる。
魔獣の身体を幾重にも交差し、貫いて――。
――光が、空を覆い尽くしていく。
《……レティシア。お前は、遠慮という言葉を知ったほうがいい》
(そうか? これでも加減したほうだぞ?)
咆哮すら放てず、息絶えた魔獣の身体は弓なりに折れ曲がり、ドサリドサリと落ちていく。
血赤の模様が地に広がり、大輪の薔薇を描いた。
***
すべてが終わり、血だまりの中に静寂が訪れる。
シリウスの短剣が力なく足元に転がっていることに気付き、レティシアはそっと手渡した。
「何もできなかった」
「……そう?」
怖かったのだろう。ぐし、と涙を拭っている。
「けんを、ぬいたではないか」
そう言って微笑むと、びっくりしすぎたシリウスの目がビー玉のように丸くなる。
目が零れ落ちてしまいそうだな。
可愛いものだと手を伸ばし、レティシアは自分が三才児であることも忘れ、その頭を軽くひと撫でする。
「……いいこだ」
「へっ?」
「ほこっていい」
さっきまで魔獣の群れに震えていた五才児が燃え上がりそうに顔を赤らめ、ビシリとその場に固まった。
少し離れた場所では国王のみならず、護衛騎士や魔法師が遠巻きに視線を向けている。
全速力で駆けつけたロイドもまた、呆然とレティシアを見つめていた。
……やりすぎたか?
どう誤魔化すかと向けた視線の先で、ヴェリアルの尻尾がはみ出している。
(ときにヴェリアル。実に嘆かわしいことだが、私はお前と間違えて召喚されたらしい)
《だから助けに来てやっただろうがッ》
(そうだな、さすが聖獣ヴェリアル様だ。感謝してもしきれない)
《なんだ? 急に殊勝なことを言い出して……こ、怖いんですけど……?》
(なに、たいしたお願いではない。助けてやったにも拘わらず、敵国で長らく待たされてしまった。あげく、このザマだ)
《魔力が回復すれば、じきに元の姿に戻れるだろうし……た、たぶん大丈夫じゃないかな》
ヴェリアルはゆっくりと身体の向きを変え、そろりとこちらを窺った。
(そういえば、魔法国はどうなっている?)
《それほど心配はいらないかと……》
(ならば時が来たら自力で帰る。しばらくは探さなくていいと皆に伝えておけ)
無事でいると知れば、騒ぐこともないだろう。
(ひとまずこの場を凌ぎたい。……ヴェリアル。勿論、分かってるな?)
レティシアは射貫くような視線を、茂みへ向ける。
(――分かってる、よな?)
《き、決まってるだろう! よぉぉし、大丈夫だ! 後のことは、すべて吾輩に任せるがいい!》
ガクガクと震えながら、必死に尻尾を丸くする。
やけくそのような声で叫ぶなり、ヴェリアルはお腹いっぱいに息を吸い込んだ。
《吾輩は、聖獣ヴェリアル》
突如、厳かな声が天啓のごとく落とされる。
騎士達がきょろきょろと見回すが、声はすれども姿が見えない。
《愚かな人間達よ。矮小な身で吾輩を呼び出そうとは、不敬にもほどがある》
さすが聖獣。先ほどまで魔力切れでハァハァしていたとは思えない重々しい声が、頭の中に直接届く。
《巻き込まれた幼女を哀れに思い、来てみれば……このザマはなんだ。あろうことか、この程度の魔獣ごときに手こずるとは》
「先ほどの攻撃は、まさかヴェリアル様が!?」
一人の魔法師が、声のする方角も分からぬまま問いかける。
《……二度目はない》
短く、威厳に満ちた声。
前半の沈黙が何よりの答えだ。
国王が跪き、ロイドやシリウス……トルティア王国の者がそれに続いて、ざぁっと一斉に跪く。
伝説の聖獣が成した、神の御業のごとき大魔法。
奇跡を目にした人々は、今日という日を後世にまで長く語り継いでいくだろう。
声は止み、聖獣ヴェリアルは去った。
――本当は茂みに隠れ、魔力切れでぐったりしていただけなのだが。
とはいえ、これでようやく一段落。
魔法も誤魔化せ、足りなかった魔力はヴェリアルのおかげで、かなりの量を充填できた。
レティシアにとっては、いいこと尽くめだ。
「レティ!」
帰りの馬車に乗る直前、シリウスがこちらに向かって駆けてきた。
男子三日会わざればとはよく言ったものだが、小馬鹿にした様子は跡形もなく消え、キラキラした目でレティシアの手をぎゅっと握る。
「レティ、ぼくと結婚しないか?」
……はい?
茹でタコのようになったシリウスの顔が、さらに赤く染まっていく。
「今度は、ぼくに護らせてほしい」
相手は五才児。
真剣な眼差しに、どう答えたものかと思案する。
だがレティシアが言葉を発するより早く、ロイドが間に割り込んだ。
「大変申し訳ありませんが、お断りします」
淡々と謝絶し、不敬にもシリウスの手をレティシアから優しく取り払った。
「……何でお前が返事をするんだ」
「殿下、レティは俺の妻です」
他の者には聞こえないよう、ロイドが身体を屈めてそっと耳打ちする。
「は!? だがロイドはもうおじさんじゃないか!」
シリウスだって負けてはいない。
どちらも引かず相対する二人。
このままだといらぬ禍根を残してしまいそうだ。
「ごめん。れてぃ、こどもはちょっと……」
「お前だって子どもだろ……?」
「せめて、はたちをこえないと」
「あと十五年も!? でも、ぼくは絶対諦めないからな!」
「あきらめてほしい」
きっぱり言い切り、レティシアはぎゅっとロイドの首にしがみつく。
王太子シリウスの初恋は、わずか十数秒で砕け散った。
居合わせた者達がどよめく中、国王がただ一人、思い詰めた顔でレティシアを見つめていた。
***
夜も更けた頃、ロイドはワイバーン討伐のことを思い返していた。
へたり込んだシリウスの前に、歩み出たレティシア。
魔獣を見て、怯えもしないとは……?
いつも冷静さを失わない国王が、去り際に顔色を失くし、なぜか覚束ない足取りで馬車に乗り込んだのも気になった。
『魔法帝が着々と領土を広げており、いつ侵略されるか分からない』
魔法師が血相を変えて進言したのは、半年ほど前のこと。
――対抗する力が要る。
伝説の聖獣ヴェリアルを召喚し、魔法により守護してはもらえないだろうか。
宝物庫から埃を被った魔法書を引っ張り出し、国中の魔石をかき集め……そして現れたのが、謎の幼女レティシアだ。
召喚の瞬間、眩い輝きが部屋を埋め尽くし、間違いなく成功したと誰もが確信したというのに。
「討伐戦でも光を目にした。……同じ色だ」
普通に考えればありえない。
だがどうしても喉の奥に魚の小骨が引っかかったような、嫌な感覚が残るのだ。
「レティ、眠る前に少しいいか?」
就寝前はいつも絵本を読むのだが、その夜は珍しく難しい顔をして、ロイドは棚から一冊の本を取り出した。
「ワイバーン討伐の時、ヴェリアル様の御業と聞いたが……まるでお前が魔法を使っているかのようだった」
いつも深くフードを被っているため、魔法帝の顔を見た者はいない。
だが漏れ聞く情報をつなぎ合わせて完成させた、貴重な一枚絵なら存在する。
「世に出回っていないが、これが魔法帝の絵姿だ」
「まほうてい?」
ロイドの手元をレティシアが覗き込む。
そこに描かれているのは見るもおぞましい姿。
角が生え、口は裂け、ガン開きの目が恐ろしいほどに血走っている。
周囲では魔獣が逃げ惑い、泣き叫ぶ者、食われる者、血まみれで倒れる者……。
まさに阿鼻叫喚の地獄絵図だった。
「……なにこれ」
「魔法帝に攻撃された魔獣が逃げ出し、周辺国に押し寄せた時のものらしい」
本当に人間なのかと疑いたくなるほどの絵姿をひとしきり眺めた後、レティシアは不満げに頬を膨らませた。
「お前にも魔力がある。訓練すれば、魔法帝のようになれるかもしれないな」
「こんなこわいかおに? むりだとおもう」
「別に顔の話じゃない。そう拗ねるな。……今日は怖い思いをさせて、すまなかった」
口をとがらせたレティシアを優しく宥め、ロイドは穏やかに告げる。
「それに……戦う姿を見せるつもりはなかった」
「れいけつしょうぐんって、きいたことある」
「ああ、それか。そう大層なことはしていない」
それは辺境に、大量の魔獣が押し寄せたときのこと。
次々と負傷していく配下の騎士達を顧みる余裕もなく、三日三晩、ひたすら剣を振り続けた。
冷血将軍と呼ばれるようになったのは、それからだ。
「肝心な時に、お前を護ってやれなかった」
「そう? ……きにしなくていい。だってろいどは、しょうぐんなのだろう?」
珍しく頼りなげに眉根を寄せたロイドに、レティシアがこつんとおでこをつける。
「こくおうへいかをいちばんにまもるのは、あたりまえ」
三才児とは思えない強い眼差しで、ロイドの目を覗き込む。
「――わたしは、さいごでいい」
一瞬、ロイドは何を言われたのか理解ができなかった。
濁りきり、硬くなった心の澱を、澄んだ瞳がすべて洗い流してくれる。
「……お前は凄いな」
こんなに幼いのに、誰よりも貴族の務めを理解している。
体の傷といい、幼い姿からは想像もできないほど、辛い思いをしてきたのかもしれない。
心臓を鷲掴みにされたように苦しくなり、それ以上は言葉が出なかった。
「あんずるな。いざというときは、わたしがおまえをまもってやろう」
トルティア王国が誇る将軍を前に、満面の笑みで大口を叩く三才児。
魔法帝に加え、激増する魔獣被害。
日々頭を悩ませてきた問題のすべてが、まるで些事であるかのようにレティシアが笑う。
つられてロイドの口元がわずかに緩み……震えるような笑いは次第に大きくなり、やがて声になって零れ落ちていく――。
ひとしきり笑った後、ロイドはそっとレティシアを抱きしめた。
「お前の出自は、未だ分からずじまいと聞いている」
だが、――誰であっても構わない。
「幸せにする。……絶対だ」
囁くように密やかに。
すやすやと寝息を立て始めたレティシアの、小さな手がもぞりと動き、ロイドの腕に絡みつく。
寝ているはずなのに、妙に力強い。
ロイドはわずかに目を見開いた後、ふわりと口元を綻ばせ……柔らかな頬に優しく触れた。
分厚い育児書は、いまや寝室の片隅に高く高く積み上げられている。
最近はレティシアの喜ぶ顔見たさに、こっそりおやつ作りに励んでいる冷血将軍。
だが、彼はまだ知らない。
溺愛を誓った花嫁が、――世界最強の守護者になったということを。
お読みいただき、ありがとうございました。
魔法国の日常をもう少し書きたくて、
大人になったレティシアと、ロイド婚約後の一幕を番外編として書かせていただきました。
お楽しみいただければ幸いです。
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【番外編】
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これは魔法国の最高戦力……。
魔法帝と魔法師団長、副師団長による、至って真面目な朝の風景である――。
「クロニクル。ロイドと旅行に行くのだが、その前に確認しておきたいことがある」
「はい、何でしょう」
「初夜とは、何をするのだ?」
「――ッ!?」
魔力が矢のように拡散し、ガシャン! と音を立てて、花瓶が割れた。
ディーンだ。
手に持っていた書類が宙を舞い、ひらひらと足元に散らばった。
所要でレティシアの執務室に入って来たところ、秘密の相談ごとを耳にしてしまったらしい。
「……レティシア様。こちらをご一読いただければ、概ねお分かりになるかと」
クロニクルはメガネを押し上げ、おもむろに内ポケットへと手を伸ばした。
『淑女のたしなみ図鑑 〜ご令嬢のための初めての夜編〜』
ピンクの装帳がやけに色鮮やかな手帳サイズのその本は、シリーズものであるらしい。
携帯しているクロニクルに若干の疑問を覚えながらも、レティシアは興味深げに受け取った。
「クロニクル貴様ッ!? レティシア様になんてものを……ッ」
「常に備えておくのは、副師団長たるわたしの義務です」
「ええい黙れ! レティシア様、そんなものボクが今すぐ燃やして……ッ」
「ディーン、うるさい」
ぎゅっと凝縮された空気圧を脳天に落とされ、ディーンがうぐ、と蛙がつぶれたような声をあげる。
「まず、『心得と作法』……か。ふむ……? しかしこれは……、いや、いくらなんでも……え? ちょ、待ッ……ぇええ!?」
程なくして第一章を読み終わり、レティシアはパタンと本を閉じた。
「……なるほど、概ね理解した」
もっともらしい顔で立ち上がり、なぜか仁王立ちで窓枠を凝視する。
薄さのわりに奥行きのある描写。
一見の価値は十分にあり、なかなかどうして良書だが、いかんせん思考が追い付かない。
「クロニクル。つかぬことを聞くが、お前……実践したことはあるのか?」
空気圧の下でぺしゃんこになっていたディーンが、ゴクリと喉を鳴らす。
十歳にも満たない頃から魔法師団でともに学び、傷つき、喜びも苦しみも分かちあってきた三人の魔法師達。
二十五才のレティシアを筆頭に、二十七才のディーンとクロニクルもそろって独身。国を会社と例えるならば、社畜三人衆と言っても過言ではない。
四捨五入すれば、もれなく三十才……なんというかこう、三人の視線が探るようにせめぎ合う。
迂闊な返事はできない。
かといって、真っ向から否定するのも男としていかがなものか。
そんなことを考えたのだろう、クロニクルは大きく息を吸った。
「……ご想像にお任せします」
「そうか、もうお前も二十七才。酸いも甘いもかみ分けた大人なのだな」
レティシアは、ふ、と寂しげに微笑み、生まれたての子鹿のごとく膝が安定しないディーンともども、クロニクルに退室を命じる。
扉が閉まり、広い執務室にはレティシアと……『淑女のたしなみ図鑑』だけが残された。
「なんたることだ……」
めまいを覚え、よろめくレティシア。
もういい大人だから、結婚前とはいえ何をしても、今さら咎める者などいない。
だがあのロイドだ。
何も考えず、ただ婚前旅行に誘っただけということもある。
事前に確かめるべきだったか……?
雲間から覗く朝陽が、レティシアを優しく照らし出す。
――そう。
付け焼き刃の知識だけを武器に、彼女は初夜を乗り切らねばならなかった。
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読んでくださり、ありがとうございました。
評価やブクマなどで応援いただけると、とても嬉しく励みになります(*ᴗ͈ˬᴗ͈)ꕤ*.
※連載版もはじめました!




