(6)こころのきず
真琴と司の二人は、人の群れを避けるように歩きながら、話をしていた。
どうやら司が、さっきの真琴の質問に答えてあげているようだ。
「あいつはうちの部長で、宮村亜紀っていうんだー。」
「宮村先輩、ですか。」
「亜紀はすごいよー。富山の福原中学校って知ってるでしょ?あそこの吹部出身なの。」
亜紀の事なのに、何故か自慢げに話す司。
でも確かにすごい。福原中学校って言ったら全国大会の常連で、最近は三年連続で金賞を受賞した強豪だ。
しかし渚高は、運動部は強いけれども文化部は弱小。吹奏楽部だって無名だし、今日見た限りでは、人数だって悲惨な状態だった。
こんな学校に、何でそんな人がいるんだろう、真琴は気になって訊いてみた。
すると今まで笑っていた司が、少し真剣な表情になって口を開いた。
「実はね、亜紀にはもうすぐ八十歳になるおばあちゃんがいるの。そのおばあちゃんがここの近くに一人で住んでいてね、亜紀が中学三年のときに、一回倒れたんだって。」
「あぁ、つまりお祖母さんの事が心配で、ここまでやってきたという事ですか?」
「うん、そういうこと。亜紀っておばあちゃんの事を本当に大切にしててさ、緊急の電話があったらすぐ気づけるように、いつも携帯は胸ポケットに入れているの。落ちない様にストラップをつけてね。この学校を選んだのも、おばあちゃんの家に一番近いからなんだって。」
いい人なんだな、と真琴は思った。
あんなに輝いた音の持ち主は、やっぱり心が暖かいんだ。そう思うと、なんだか嬉しくなった。
司についていくこと数分間。真琴はようやく亜紀と顔を合わせることが出来た。
「こんにちはー、吹奏楽部部長の宮村亜紀です!」
亜紀はこちらの存在に気づくと、笑顔で大きく手を振ってくれた。
それを見た真琴は、自然と駆け足になって、あっという間に亜紀の目の前にやってきた。
――長身ですらっとした大人っぽい人。肩を隠すくらいのロングヘアーが良く似合っている。
ふと胸ポケットに目をやってみると、確かに携帯電話が入っていた。
「あ、あの、一年A組の佐野原真琴です。こ、こんにちは!」
さっき見つけた憧れの人を前にして、真琴は若干硬くなっていた。
そんな真琴に、亜紀は優しく微笑みながら歩み寄る。
「どうしたの、そんなに緊張しちゃって?」
「じ、実は、入学式の宮村さんの演奏に感動しちゃって……今もまだドキドキしてて……。」
真琴にそう言われて、亜紀の顔がほんのり赤くなった。
「な、なんか恥ずかしいね。でも、人にそう思ってもらえるような演奏が出来たってことは、今日は満点かな?」
ポリポリと人差し指で右頬を掻いてはにかむ亜紀。
「そんな!満点以上ですよ!私もペットやってたんですけど……あぁ、どうやったら宮村さんみたいな演奏が出来るんだろう……。力んでないのに遠くまで飛んでいって、キリリとしているのに、どこか柔らかくて温かみのある音――」
そう言って亜紀を見つめる真琴の目は、何か惹かれるものを見つけた幼い子供のそれみたいに、異常なほどきらきらと輝いていた。
一方で見つめられている亜紀は、視線をあっちにやったりこっちにやったり、そわそわと落ち着かない。
「と、ところで!佐野原さんは、どこの部活に入るかもう決めてるの?」
このまま延々とほめられ続けたら、頭がおかしくなってしまいそうで、亜紀は早々と本題を切り出した。
しかしその途端、真琴の表情が曇った。
「い、いえ……まだです。」
急にトーンが下がったその声を聞いて、亜紀は自分が地雷を踏んでしまったことを悟った。
「きっと宮村さんは、この後私を、吹部に誘ってくれるんだと思います。でも、私は吹部には入れません。」
音楽的に言えばビブラート。真琴の声は震えている。
「部活はまだ決めていませんが、吹部にだけは入れないんです。私はもう、吹奏楽に関わっちゃいけないんです……。」
その声からは、さっきまでの覇気はすっかり消えうせていた。
「ごめんなさい。話聞くだけ聞いて、入部しないなんて。」
「え。う、ううん!いいよそんなの。こっちこそ無理に誘ったみたいな感じになって、ごめんね。」
亜紀はそう言うしかなかった。真琴が吹奏楽に何かトラウマを持っていることはだいたい分かったが、下手に詮索する事はできないし、これ以上彼女を部活に誘う事もできない。
妙に話しづらい空気が二人の間に流れ、この後しばらく沈黙が続いた。
「おーい!!」
沈黙を破る助け舟、それは向こうの方から走ってきた、一哉の大きな一声だった。
――そういえば、あの人だかりの中に置いていったままだったっけ……。
「はぁはぁ、酷いじゃねーか、気づいたらあの中には俺だけ。お前はそそくさ抜け出してよ。」
一哉は真琴の所までやってくると、息を切らしながらぼやき始めた。そして腕時計を見せ付けて一言。
「バス時間、もうすぐだぞ!」
「あ……。」
まだまだだったバス時間まで、あと数分になっていた。
「す、すいません!私、そろそろ……。」
真琴は、亜紀と司にそう言うと、地面においてあったスクールバッグを手に取った。
「うん、気をつけてね。」
亜紀が一言そういうと、真琴は「はい!」と返事をして、一哉と一緒に校門の向こうに走っていった。
そんな真琴の背中を見つめながら、亜紀はボソリと呟く。
「私の演奏をあんなに喜んでくれて……もっと上手くなりたいって言ってて……。佐野原さんは、吹奏楽自体は大好きなんだと思う。」
その呟きを聞いて、亜紀の隣の司も、こくりと頷いた。