(2)最悪な目覚め
四月八日木曜日、早朝五時。まだ太陽も顔を出していないこの時間に、少女はもがいていた。
「先生っ……。もう……もうやめて……くださいっ。これ以上……ぐちゃぐちゃにしないで……ください……。」
ベッドの上で苦しそうに声を上げる少女。まぶたがぴくぴくと痙攣を起こして、閉じた瞳からは涙があふれはじめていた。
こぼれた涙は頬を伝い、そのまま枕におちていく。
「もう……やめてっ!!」
真っ暗な部屋の中に突如、大きくて悲鳴にも近い声が響き、少女はようやく目を覚ました。部屋には、彼女のはぁはぁと言う荒い呼吸だけが響いている。
やがて呼吸が整ってくると、少女は仰向けの体勢で天井を見つめたまま、もううんざりといった感じで呟いた。
「また、この夢……。」
額には脂汗がにじんでいて、寝起きのせいか夢のせいか、意識がはっきりとしない。
その時、部屋の扉の方から急いで階段を駆け上がる音が聞こえてきた。そして扉を勢いよく開ける音も。さっきの悲鳴を聞きつけた少女の母親が、心配して様子を見に来たのだ。
「どうしたの、真琴?!」
「……なんでもない。またあの夢。」
むくりとベッドから上半身を起こした、真琴と言うその少女は、母の顔を見つめて弱々しく笑った。
実は真琴が今みたいな悪夢を見たのは、今日が初めてではなかった。あることをきっかけにして、何度も何度も同じ夢にうなされるようになったのだ。
母もそのことは知っていた。それだけじゃなく、わが子がうなされるようになったきっかけも知っていた。しかしそれらが分かっていても、どうする事もできないのだ。
「よりによって、入学式の日の朝に見るなんてね。」
眉間にしわを寄せて、母は呟いた。その後には、大きなため息。
「もう、お母さんがそんな顔したって仕方ないでしょ?」
真琴は苦笑いしながらそう言った。母に対する彼女なりの気遣いなのだろう。けれどもその気遣いが母にとっては逆に辛いのだ。
入学式は午後からだった。午前からなら、早く起きたって損をした気分にはならなかったのに。そんなことを思いながら、真琴は部屋のロールカーテンをあげて、窓を開ける。
四月の未明の冷たい空気。悪夢の後の火照った体をさますのにはちょうどいい。
それにしても、最近は収まっていた悪夢の発作が、なんで今日という日を選んで再現したのか。
これからはじまる高校生活の予言?お先真っ暗?幸先不安?
そんな考えが、真琴の頭を掠めていく。
「あぁー、いかんいかん。明るくいかなきゃ、明るくっ!!」
考えれば考えるほど気分が沈んでいってしまうことに気づいた真琴は、首を突っ込んだ窓の外の世界で、頬を二回パンパンと叩いた。
身にまとった紺色のブレザーと、えんじ色のチェックスカートの制服、電車とバスを乗り継ぐ通学、中学校よりも一回りも二回りもでかい校舎――、何もかもが新鮮だった。
そしてこいつも……。
「よっ、佐野原!」
校門から校舎まで続く短い一本道。そこをのんびりと歩いていた真琴の肩を、後ろからいきなりバシッと叩いてきた少年。
「……痛っー。い、いきなり何するのよっ!」
「ははっ、挨拶だよ挨拶。」
真琴に睨み付けられた少年だったが、動じる事も無く、笑ってそう言った。
少年の名前は江藤一哉。真琴と同じ中学の出身で、三年間同じクラスだった。そして、高校も一緒。言わば腐れ縁だ。
そんな一哉の姿も、真琴がいつも見なれた学ランではなく、今日からは紺のブレザーとグレーのスラックス。
――なんだか新鮮である。
「クラス何組だった?」
「ん?A組だよー。あんたは?」
「A組だ。」
クラスは前もって物品販売のときに貼り出されていた。しかし中学の卒業式以来、二人が会ったのは今日が初めて。なのでこんな話が自然と出てきたのだが……どうやらまたも二人は同じクラスになったようだ。
「はぁ……。」
「な、なによ、そのため息は?!」
大きなため息を漏らす一哉に、真琴は不機嫌そうな顔をしてそう言った。
もちろん、一哉も本当に真琴と一緒なのが嫌なわけではない。いちいち彼女の反応が面白いので、冗談をやって遊んでいるだけだ。
「まぁ、また一年間よろしくってこった。」
「はいはい。こちらこそよろしく。」
二人はこんな適当な挨拶を交わした後、これからの三年間を過ごす事となる校舎の中へと消えていった。
この時、あんなにもたくさんの大切な思い出が、この学び舎で作られていく事になるなんて……真琴も一哉も、そして他のメンバーも、思ってはいなかっただろう――。
『真琴』。実は彼女がこの物語のヒロインです。目覚めのシーンから、なにやら訳ありのようですが、それは物語の後半で徐々に分かっていきます。