(2)春の陽気に撫でられて
放課後。音楽室の鍵を受け取るため、相変わらず痛む脚を引きずりながら職員室までやってくると、扉の前で先生と女子生徒がなにやら言い合いをしていた。
「――早すぎますよ、締め切るの!!」
「早すぎも何も、欲しいだけ集まったんだから仕方ないだろ。マネージャーなんてそんなにたくさんいらないし……。」
「で、でも、私は野球経験者だから、きっとお役に立てると思いますよ!?」
「んー、だけどなぁ……。」
そうやって必死に喰らいつく女子生徒のネクタイは、一年生と言う事を示す水色のストライプ。そしてたしかこの先生は、野球部の顧問だったはずだ。
「ははぁ、つまり定員オーバーってことか。うらやましいなぁ、運動部は。」
俺はこの二人の会話から、だいたいの事を察した。そしてうらやましさのあまりにため息をついた後、もう一方の職員室のドアを開けた。
職員室で顧問から鍵を受けとると、俺はまっすぐ音楽室へ向かった。そして厚い防音扉を開けると、早速窓際の座席に腰かけ、手を伸ばして窓を開ける。
「ふう。」
大きく深呼吸をして窓の外を見ると、目に入ってきたのは淡い青色の空と、ふわふわな白い雲。相変わらずの春らしい天気だが、下を見れば中庭の桜の木たちはすでに衣替えを終えていた。
そしてそこから視線を少し遠くにやれば、金沢港が見えてくる。青と白のペイントの巡視船や、赤茶色のコンテナを積んだ貨物船が停まっている港。ひらけた先には雄大な日本海が広がっていて、暖かな春の日差しをうけてキラキラと光り輝いている。
開け放たれた入口のほうからは、微かに授業の声が聞こえていた。七時限目、同じ学年でも一部の生徒は放課で、一部の生徒は授業。単位制高校ならではの不思議な時間だ。
その声をバックグラウンドに、この景色を独り占めしていると、妙な優越感に満たされる。必修科目のみだった一年生時代には、味わえなかった感覚だ。
「――こんにちはー?」
廊下からパタパタという足音が近づいてきたと思ったら、部室に誰かが入ってきた。
聞いたことのある声。けれどもまだ聞きなれない声。振り返ると、入口の所に高山さんが居た。その途端、彼女はニコッとほほ笑んで、並べられた机の間をすり抜けるようにして、俺の方へとやってくる。
「先輩、こんにちは!何たそがれてるんですか?」
後ろに来た彼女が、俺の顔を覗き込みながら聞いてきた。
「たそがれるって……景色を楽しんでただけだよ。窓の外見てみ?」
「窓の外、ですか?」
近くの机に真新しいカバンを置いて、彼女は窓のほうに歩み寄る。外を見たその瞳が、見る見るうちに大きくなったのが分かった。
「うわぁ……!」
ため息交じりに声を漏らす彼女。そんな様子を見て、俺はついつい饒舌になってしまう。
「金沢港に日本海。あ、あそこの大きい建物が立ち並んでいる所は、なぎさ温泉だな。」
「なぎさ温泉……。遠くから見たらあんな感じなんだ。」
「はは、ここから見たらただの建物密集地だけど、いいところだぞ。風情があって、活気があって、それでいてどこか儚げでもあり……。結構いい写真が撮れるんだよな、あそこ。」
「知ってますよー。いいところですよね、なぎさ温泉!」
「お、高山さんも行ったことあるのか?」
「はい!行ったことあると言うかなんと言うか……でもよく知ってます!」
温泉の話になった途端、彼女のテンションが一気に高くなった。後ろの一つ結びがピョンピョンと踊っている。
「写真、撮りに来た事あるんですか?なぎさ温泉に。」
「ああ。最近は行けてないけど、近々またチャンスがあるんだ。楽しみだよ。」
「ふふっ、先輩って本当に写真が好きなんですね。」
クスクスっと笑われてしまった。俺の顔があまりにもにやにやとゆるんでいるので、可笑しくなってしまったと言う。
「でも、趣味があるっていいことですよね。」
「あー、まぁな。俺も写真を撮るためにいろんな所に行ってるけど、その度に新しい発見とか感動があって、写真やってて良かったって思えるな。高山さんも一人旅が好きなんだろ?この気持ち分かってくれたりしないかな?」
「うーん……一人旅が好きって言っても実はまだ二回しか行ったことがないんです。中三のときは受験勉強で忙しかったですし、それ以前は部活があったうえに、そんな財力もありませんでしたし。だから受験が終わった後に日帰りのバスツアーで白川郷に行ったのと、友達に会いに電車で京都に行っただけで……正直、まだあんまり分からないです。」
「はは、そういえばそっかー。高山さん、ついこの間まで中学生だったんだよな。俺も遠出するようになったのは、高校生になってからだったよ。」
「はい。だから、私もこれからいろんなところに行ってみたいなーって。どちらかと言うと、好きというか憧れなんでしょうね、一人旅って。」
「ふーん、そっか。でも、どうして一人旅なんだ?特に高山さんぐらいの女子って、どちらかと言うとみんなでワイワイするほうが好きなようなイメージがあるんだけど。」
「うーん、どうしてなんでしょうかね……。誰にも気を使わなくていいから、かな……。自分でもよく分かんないです。」
苦笑いしながらそう答える彼女。ボソッと漏らした「気を使わなくていい」と言う一言は、女子高生らしくないというかなんというか……。まぁ考え方は千差万別だし、別にいいのだけれども、どこか大人びている彼女は、やっぱり他の女子とは少し違うのかなとも思う。
まぁ、一人でカメラを持って、いたるところを飛び回っている奴が言えることでもないのだけれども……。