(4)自宅にて
駅に到着すれば、その後は自転車。十分ほど走れば自宅が見えてくる。窓からこぼれる暖かい灯りが、今日も俺を迎えてくれた。
かほく市旧宇ノ気町。金沢市から電車で三十分ほどのこの街が、俺の地元だ。
特に観光名所というものは無いが、世界的な哲学者、西田幾多郎はこの地で生まれた。
金沢市のベッドタウンとも言われ、近頃は世帯数がぐんぐん伸びているらしい。そのおかげかは分からないが、二、三年前にはすぐ近くに、映画館やゲームセンターが入ったショッピングセンターもオープンした。
決して都会ではないけれども、居心地が良く住みやすい街。まるでうちの吹部のようだとも思う。
「――そういえば和久。来週の土曜、しっかり空けてあるのよね?」
「え?ああ、うん。空けてあるよ。」
父さん、母さん、妹と俺。四人家族全員で長方形のちゃぶ台を囲み、ご飯を食べていると、思い出したかのように母さんが聞いてきた。
実は来週、父さんの方の祖母ちゃんの五十回忌で、旅館に泊まることになっているのだ。祖父ちゃんが、たまには親戚全員を集めて、パーッと盛り上がりたいと奮発したらしい。
「なんていうホテルだっけ?」
久しぶりに二歳年上のいとこに会えるのが楽しみだという妹の春香が、うれしそうに微笑みながら聞いてきた。
「ホテルじゃなかっただろ?旅館の、えっとー、なんだっけ?」
「『そくさいや』だよ。なぎさ温泉のそくさいや。『加賀亭』ほどじゃないけど、結構な高級旅館だったはずだぞ?」
俺が答えに困っていると、すかさず父さんがそう言った。
なぎさ温泉。金沢の海沿い、俺が通う渚高校のすぐ近くにある温泉街。大正時代の美人画家、竹中夢三が、恋人とともに逗留した地でもある。
あの街の街並みや風情には、なんとも言えない良さがあって、俺も何度もカメラを持って訪れた。もっとも、最近はご無沙汰であるが。
「旅館かぁー。ふはぁ、楽しみっー!」
両手のひらで床をバンバン叩き、隣で子どものようにはしゃいでいる中学二年生の我が妹。もうちょっと中学生らしくならないものかと呆れてみるが、「あっちいけ」とか「死ね」などと罵倒されるよりかは、ずっといい。
「温泉でツルツルスベスベになって、美味しいご飯たっくさん食べて、あず姉(いとこ)といっぱいおしゃべりして、温泉街をぶらぶら散歩して――」
なんとも甘ったるい声で旅館での計画を呟く春香。それを聞いていると、俺もだんだんと顔がにやけてしまいそうになる。
家族の前ではクールぶってはいるが、実際のところ、春香と同じくらい、いや、それ以上に楽しみだったりするのだ。
あぁ、亨兄さん(いとこ)は元気だろうか。今頃大学受験を控えてヒーヒー言っているのかもしれない。
美人な仲居さんとかはいるのかな。黒髪の和服美人とか、思い浮かべただけでそそられる。本当にいたら写真とか撮らせてもらおう――と、うぶな俺には無理な話。
素直に風景を撮っていよう。夕焼けや朝もやに包まれる、大正ロマンの温泉街――想像しただけで腕が鳴る!
そうだよ、人物写真なんぞより、風景写真の方が何倍も魅力的で、奥が深いんだ!
――嗚呼、そう思うのであれば、何で部屋の本棚に「プロ直伝!ポートレートレッスン」なんて言うムック本が置いてあるのだろうか。
風呂から上がり自室に戻った俺は、髪をグシャグシャとバスタオルでふき取りながら、その本を手にとってベッドの上で横になる。
「女性写真は、絞りを開けると柔らかくやさしい印象となる、ライティングは半逆光が基本、ねぇ……。」
すでに何度も読んだ文章。けれども実践する機会が無いから、定期的に読み返さないとすぐに忘れてしまう。
中学一年からカメラを始めて早四年。これまでに何千枚もの写真を撮ってきたが、どれもこれも風景ばかりだ。家族以外の人物写真なんて、数えるぐらいしか撮った事がない。
撮ろうと思っても、他人に「一枚撮らせてください」なんて言う勇気は持ち合わせていないし、休日にカメラというおじさん臭い趣味に付き合ってくれる友達や彼女もいない。というか、彼女なんて生まれてこの方できたことが無い。だから人物を撮るチャンスが極端に少ないのだ。
「彼女がいたら、にこっと微笑んでピースとかしてくれるのかな……。」
ボソッと口に出してみて、猛烈にむなしくなった。
自分自身、顔は特段不細工ではないと思うが、決して美形などではなく、性格も極端に悪いとは思わないけれど、今日の電車での出来事が示すとおり、良いとも言えない。こんな俺に、彼女なんかできるのだろうか。
そんなことを考えながら、壁に掛けてある一つの額縁をふと見つめる。それは、部屋に飾ってある十数枚の写真の中の、唯一の人物写真――
中学二年の夏休み、俺は引退した写真部の一つ上の先輩に誘われ、小さな撮影旅行に出かけた。
真夏の太陽の下、父さんから無理やり譲ってもらったフイルム一眼レフの入ったバッグを自転車のカゴに積んで、宇ノ気の町中を二人で駆け巡った。蝉時雨がそそぐ雑木林、照り返し、陽炎の立つ住宅街、キラキラと輝き、夕日が沈んでいく日本海……。いつも身近な街が、いつもと全然違って見えたのは、ファインダー越しのせいではなく、先輩と一緒にいたせい。
旅が終わる頃、フイルムがなくなりかけ、何を撮ろうかと慎重になっていたにもかかわらず、俺は思わずシャッターを押してしまう。
砂浜に座り、首から可愛らしいクラシックカメラを下げ、夕日と潮風を浴びながらこっちを向いて微笑む先輩が、すごく綺麗に見えた。とてつもなく愛おしく思えたのだ。
それが、趣味として初めて俺が撮った人物写真。そしてそれが、初めて俺がフォトコンテストで入賞した記念すべき写真。
――先輩は今、どうしているだろうか。元気にしているだろうか。俺にカメラの楽しさを教え、たくさんの初めてをくれたあの人は、今やもう遠い存在。
閉じたムック本を枕元に放り、真っ白い天井に先輩を思い描く。
今日はもしかしたらいい夢が見られるかもしれない。そう思った。
作中で登場するなぎさ温泉。これはまさに、事実を基にしたフィクションです。
なぎさ温泉という温泉街は、実際には存在しません。
ですが、モデルにした温泉街はあります。それは金沢市の山奥、富山県寄りにある湯涌温泉と、能登半島七尾にある和倉温泉です。
大正ロマンあふれる温泉地、美人画家・竹中夢三ゆかりの地。この設定は実在した美人画家・竹久夢二の愛した湯涌温泉から。
海沿いにある温泉地。この設定は和倉温泉からです。ちなみに、高級旅館『加賀亭』のモデルも、和倉温泉のとある旅館です。ご存知の方も多いのではないでしょうか?まぁ、僕は泊まった事ありませんけど。
温泉旅館でのんびり一泊したいなー、なんて思う今日この頃です。