(2)むかしばなし
いつの間にか、真琴は抵抗をやめておとなしくなっていた。うつ向き気味で何も話そうとせず、ただただ一哉に引っ張られている。
そんな、急にしおらしくなってしまった真琴を見て、一哉は中学時代の"あの事"を思い出していた――
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中学時代の真琴というのは、今よりももっと快活だった。休み時間になると、彼女の座席の周りには自然とクラスメイト達が集まってきて、その笑い声が終始教室に響いていた。
けれども三年生になってからは、日に日に落ち込んでいくというか、疲れていくというか……。それでも友達の前では終始笑顔を絶やす事はなかったが、一哉が授業中にふと真琴の方を見てみると、ボーっと窓の外を眺めていたり、ストレスのせいか爪を噛むようになったり、明らかに様子がおかしくなっていった。
そして、三年生の夏休み。一哉が部活の一日練習を終え、スクイズボトルを片手に、校舎裏の日陰で座り、涼んでいたときの事だ。
日が傾きかけていて、セミの鳴き声が一番けたたましい時間帯。うるさくて頭が痛くなるという人もいるだろうが、疲れ切ってボーっとした意識の中、ひんやりとした校舎の壁に背中を預け、セミの鳴き声をバックグラウンドに少しずつドリンクを飲む。この時間が一哉にとっては妙に心地よかった。
突然、バサッバサッという鳥の羽音が聞こえて、一気に周りが静寂に包まれた。
同時に、上の方から聞こえてくるすすり泣き声に、一哉は気づく。見上げてみれば、開け放たれた窓。どうやら泣き声の主は、校舎の中にいるらしい。
オカルト話のたぐいは信じていないつもりだったが、いざこういう事を前にすると怖くなってしまった。
「ま、まさかなぁ……。」
一つ独り言を漏らし、わざとらしく苦笑いをしてみたあと、一哉は立ち上がった。
「イテテテテっ」
疲労困憊のふくらはぎが攣りそうになって、一哉はしばらくその場で立ちすくむ。一分ほど経ってようやく落ちついてくると、一つ深いため息をついた後、意を決して窓に首を突っ込んだ。
「だ、誰かいますかー?」
まぁ、当然返事はなかったが、その途端に泣き声が消えてしまった。そして下の方からは人の気配。
「ん?」
見下ろしてみると、そこには目を真っ赤にしてこっちを見つめている真琴がいた。一哉は、何がなんだか分からなくて、窓に首を突っ込んだまましばらく立ち尽くす。
いつも元気で、いつも笑顔で、まるで太陽のような――。そんなイメージとは全く違う真琴が、一哉の目の前にいた。
それからずーっと二時間ほど、一哉は校舎に入って真琴に寄り添っていた。こういうときは、無理にあれこれ探るべきではないと思ったから、最初は本当に隣に座っていただけだった。
けれどもしばらくすると、ぼそりぼそりと自分の中に溜まっていたもやもやを、真琴は一哉に打ち明け始めた。
「部活、苦しい。」
「どんどんぐちゃぐちゃになって――。」
「部長としてどうすればいいのか、分からない。」
「怖い……。」
一哉は真琴の口から漏れる断片的な言葉のパーツを、必死で拾い集めた。けれどもそうしたところで何か出来たかといえば、ひたすら「うんうん」と頷いて話を聞いてやることしか出来なかった。
でも、別れ際の真琴の言葉を聞いて、少しだけ一哉は安心した。
「話聞いてくれてありがと。なんか私らしくないことばっかり言ってて、困っちゃったでしょ……。でももう大丈夫だから!」
校門の前。にこっと笑顔でそう言って、走り去っていく真琴。
「少しは役に立てたのかな。」
消えていく真琴の背中を見つめながら、一哉はそんなことを考え、自己満足に浸っていた。
そんな出来事から十日ほど後のこと、学校を揺るがす大事件が起きた。
この頃のハンド部は、夏休みが明けてすぐにある引退試合のための練習が佳境を迎えていて、一哉たち部員が帰るのは、いつも日が暮れた頃だった。しかしその日だけは、顧問の指示で一時間以上早めに練習が終わった。
部員達からは、「やったー。今日はゆっくりできる!」、「ちょうど疲れてたんだよな!」という声。皆早く家に帰って休みたいのか、いつも以上にテキパキと片づけを終え、そそくさと帰り支度をはじめる。
「お前はまたか?物好きだよなー!」
「ああ。どうせ俺と同じ方向のやつはいないからな。」
ちょうど夕暮れ時、一哉が一番好きな時間帯。スクイズボトルをかかえて、久しぶりに校舎裏に行こうとしていると、一哉は同級生の谷地から声をかけられた。
「なぁ、俺もついて行っていいか?」
「あぁ、別に構わないけど。」
そう返事をすると、谷地はエナメルバッグから2リットルペットボトルを取り出して、にこっと笑った。そして一哉たちは、荷物を部室の前に置いて校舎裏へと向かう。
「俺もなんだか今日は黄昏たくってな。」
「はは、ミス連発だったもんな。」
「ああ。でも、コーチもあんなボロカスに言わなくてもいいだろ……。こう見えても俺、結構傷つきやすいんだぜ。」
「傷つきやすい、ねぇ……。」
一哉はふと、真琴の顔を思い浮かべてしまった。いつも笑顔で元気そうでも、実はたくさん悩みを抱えている。
あれから会っていないが、あいつは一体どうしているだろうか。部活にはちゃんと行けているのだろうか。
一哉は急に不安になった。
何で俺は、人のことでこんな気持ちになっているのだろう。そんな疑問も一哉の中で同時に生まれたが、すぐにその答えは見つかって、彼の顔をかっかと熱くした。
校舎裏で一時間ほど時間をつぶしたあと、一哉たちは家路につこうと部室に向かった。そして荷物を抱え、今度は校門に向かって歩いていると、急に谷地が一哉にこんなことを言い出した。
「なんか、様子がおかしくないか?」
「え?」
一哉が谷地の人差し指の先をたどっていくと、校門の入り口あたりから学校の敷地前の生活道路に沿って、たくさんの大型車が停まっているのが見えた。
「ほんとだ……なんだ一体?」
二人は自然と早足になった。そして段々と近づくにつれて、その車達もはっきりと見えてくる。
テレビの中継車だった。校門の周りには、記者やカメラマンと思われる人影もある。
「おいおい……なんだ一体。」
なんともいえない物々しい雰囲気に怯み、一哉は立ち止まった。
けれども谷地は違った。なんとさっき以上の早足、いや駆け足で記者達の方に向かっていったのだ。
「お、おい!」
一哉がそう声を上げてみても、谷地は止まる気配が無い。それどころか、かわりにその声に気づいた記者達が、こっちに向かって走ってきた。
「えぇーっ!?」
一哉はどうする事もできず、校庭の隅の方で、記者達に囲まれる。そして尋ねられた。
「テレビ石川のものですが、ここの生徒さんですよね?インタビューさせてもらってもいいですか?」
「え、い、いや、な、なんのインタビューですか?」
しどろもどろな一哉に、記者は説明をする。
「ご存じないですか。実は昨日、ここの吹奏楽部員の生徒さんが、顧問の教諭に顔面を殴られて病院に運ばれたんです。今日は記者会見が開かれるという事で来たのですが、できれば生徒さんのお話も伺いたくて。」
吹奏楽部員……嫌な予感がした。そしてその予感は的中していたという事を、一哉は後に知ることとなる。
夏休み明け、真琴はしばらく教室には来なかった。
危害を加えた教師は停職三ヶ月で、別の学校に飛ばされたらしい。これだけの事をやってもクビにならないのが納得が出来ず、一哉は腹が立って仕方がなかった。
そして、あの時何もアドバイスをしてやれなかった自分の不甲斐なさ、それにもかかわらず、「役に立った」と自己満足をしていた自分の浅はかさ。そんなことへの苛立ちも、全部教師に対する怒りに変換されていることに気づいて、一哉は自分がもっと情けなくなって、この上なく腹立たしく思った。
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――今のままでは、吹奏楽は真琴にとって、ただの嫌な思い出となってしまいそうで。大好きだったものに裏切られたままになってしまいそうで。
自分でも相当おせっかいだとは思ったが、とうとう一哉は、真琴の腕を引っ張ったまま、校門の前まで来てしまった。
――なぜ俺は、他人の事でこんなにも必死になっているのだろう?過去の自分に対する懺悔か?それとも……。
しばらく考えをめぐらせた後、一哉の顔がまた、かっかと熱くなった。