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濡れ衣令嬢と竜姫  作者: 白保仁
一章

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九話

 一度、空を飛ぶ感覚を掴んでしまえば――あとは早かった。

 風を読んで、魔力を乗せて、体を預ける。ひと呼吸ごとに高度が変わる。

 何度落ちてもできなかったのが嘘みたいで、リィは思わず笑ってしまいそうになった。


(なんで今まで飛べなかったんだろ)


 けれど、感動に浸っている場合じゃない。


 ガルと獅鷲(グリフォン)。二体を同時に相手にするのは、さすがのリィでもきつい。

 先に獅鷲を落としたいのに、ガルが巧みに邪魔をしてくる。

 正直、手詰まりに近かった。


 リィの防御魔法は硬い。大抵の魔獣の攻撃なら通らない。

 だがガルと獅鷲の魔法は強力で、じわじわと、確実に削ってくる。

 熱が皮膚の下に溜まり、風刃の傷が見えないところで増えていく。


「痛いよ、ガル兄……目を覚まして」


 声をかけても返ってくるのは、濁った赤い目だけだ。

 ガルはリィを見つめたまま――まるで敵を見るような目で、こちらを射抜く。

 リィはガル相手に、どうしても本気の一撃を撃てなかった。


(とりあえず時間を稼ぐ。そうすればアデルが止めてくれるはず……)


 リィは倒すことを諦め、攻めては離れ、離れては牽制する。

 獅鷲が距離を取ろうとすれば追い、ガルが突っ込んでくれば引く。

 ただ、それを続けるほど、体力も魔力も削れていく。


 そのときだった。


 ガルが、強力な火球をいくつも放った。

 防御魔法が受け止める――だが、表面にひびが走る。細い亀裂が蜘蛛の巣みたいに広がった。


「っ……!」


 耐えろ、と魔力を注ぎ足した瞬間、獅鷲が追い打ちをかける。

 風が刃になり、防御の亀裂へねじ込まれてくる。


(やば――)


 身構えた、その瞬間。


 リィの前に、別の防御が上書きされるように立ち上がった。

 硬い壁が一枚増え、獅鷲の攻撃が弾けて散る。


「――堕ちろ」


 低い声。

 次の瞬間、ガルと獅鷲の体がぐっと引っ張られた。


 二体は抗えず、ずるりと落ちていく。樹海の上を斜めに滑って――墜落した。

 地面が震え、枝葉が大きく揺れた。


 リィが息を呑んで振り返る。


 そこにいたのは、ギィとグゥだった。


「ギィ兄!」


「私もいるんだけど……」


 グゥの声は耳に入らなかった。

 リィはギィに駆け寄り、そのままぎゅっと抱きつく。


「やれやれ……どうなってるんだ、これは」


 ギィの声に、リィははっとして顔を上げた。


「悪い奴がガル兄たちを操ってるんだ! 早く、アデルのところに行かなきゃ!」


「……アデル?」


「ギィ兄はガル兄たちお願い! 僕、行ってくる!」


「おい、説明――」


 ギィの声を背中に聞きながら、リィは走り出した。

 下の方でガルと獅鷲が、ギィの重力魔法に押さえつけられている。

 うなり声が地面を震わせた。


※※※


 アデルを探し始めて少しして、遠くで火柱が上がった。

 夜の樹海に、あり得ない色の光が立つ。


(アデルの合図かも!)


 リィは火柱の方向へ駆ける。枝を跳び越え、根を踏み、迷いなく進んだ。


「アデル! どこにいるの!」


 返事はない。

 その沈黙が、胸の奥を冷やした。


 火柱の上がった場所に辿り着いた瞬間、リィは足を止めた。


 そこには――焼け焦げたアデルが倒れていた。

 周囲の木々は黒く焦げ、肉が焼けた嫌な匂いが残っている。

 ここで、誰かと戦っていたのだ。


「アデル! アデル! 大丈夫?」


 揺さぶっても返事はない。

 全身に火傷。服の端は炭になり、皮膚は赤黒く変色している。


 けれど――胸は、わずかに上下していた。

 息をしている。生きている。


「そんな……アデル……死なないで」


 どうすればいい。何をすればいい。

 頭が真っ白で、リィはただ名前を呼ぶことしかできなかった。


 そのとき、背後から声が落ちた。


「あら。人間だわ。……どうして、こんなところにいるのかしら」


「グゥ姉……どうしよう? アデルは僕の友達なんだ」


「友達?」


 グゥは興味深そうにアデルを見下ろし、ふん、と鼻を鳴らした。


「……友達ねぇ。あんたが崖から落ちてる間に、私はこんな魔法を覚えたわよ」


 そう言うと、グゥの口から青い炎がこぼれた。

 以前ヴァルが見せてくれた、癒しの炎だ。


 青い火が揺らめくたび、アデルの火傷がじわじわと薄れていく。

 呼吸も、少しずつ落ち着いていった。


「……っ、さすがグゥ姉! ありがとう!」


「ふん。別に、あんたのために覚えたんじゃないわよ」


 照れくさそうに言いながら、グゥは炎を丁寧に収める。

 青い光が消えたあと、そこに残ったアデルは――さっきよりずっと穏やかな息をしていた。


 ただ、意識は戻らない。深い眠りみたいに、目は閉じたままだ。


「グゥ姉……アデルを家まで連れてっていい?」


「まあ、リィの友達ならいいんじゃない? みんな驚くとは思うけど……」


 グゥは言葉を濁しつつ、軽く尻尾を揺らした。


 リィはアデルを抱え上げる。

 軽すぎて、胸が痛くなる。


「……帰ろ」


 そう呟いて、リィはゆっくり歩き出した。

 樹海の闇の中で、アデルの体温だけが確かな重みだった。


※※※


 次にアデルが目を覚ましたのは、洞窟の中だった。


 湿った土と岩の匂いが鼻の奥に残っている。

 視界の端には黒い岩壁。天井のどこかから水滴が落ちる音がして、暗いのに不思議と怖さはなかった。

 身体の下には柔らかい葉が幾重にも敷かれている。


 ――それより。


 胸元に、柔らかい重みがある。


 見下ろすと、リィだった。

 腕を回し、頬を寄せ、すやすやと無邪気に眠っている。離す気がないと言わんばかりに、しっかり抱きついていた。


 起こすのも可哀そうだ。

 アデルはそっと腕をほどこうとしたが、力が強い。抱きしめる腕が思った以上に硬い。


 仕方なく少し強めに身をよじった――その瞬間。


 ふいに、リィの身体が引きはがされた。


 目の前に黒い影が落ちる。黒竜だった。

 空で見た巨体の黒竜より小さい。だが鱗には艶があり、動きに無駄がない。


 その竜はリィを床へ下ろし、今度はアデルをじっと観察する。


「あなた、アデルで合ってる? 私はグゥ。リィの姉よ」


 黒竜が――はっきりと人語で名乗った。

 アデルは一瞬、言葉を失う。


 知識としては知っていた。黒竜は人語を解し、温厚だ、と。

 けれど目の前で話されると、思考が止まってしまう。


 そして、同時に理解する。

 リィが黒竜と家族だという話は、本当だったのだ。


(事情は分からないけれど……この子は、黒竜の家族なのだ)


「あなた、聞いてるの?」


 黙り込むアデルに、グゥが少し苛立ったように促す。


「……はい。アデルです。アデル・ローゼンベルクと申します」


 アデルは起き上がり、痛む身体を押さえながらも丁寧に頭を下げた。


「そう。準備が整ったら、ヴァルのところへ来て。リィが案内するから」


 グゥはそう言うと――尻尾の先で、リィの額を軽くぺしりとはたいた。


「ん……」


 リィが眠たそうに起き上がる。

 けれどアデルの顔を見つけると、目がぱっと開いた。


「アデル! 起きたんだね。よかった!」


 そして、また抱きついてくる。今度は起きている分、勢いまである。


「……ええ。おかげさまで」


 されるがままになりながら、アデルは小さく息を吐いた。

 この子の体温は、妙に安心する。


「アデルのおかげで、ガル兄の目が覚めたよ」


「よかった……それで、あの後どうなったの?」


「グゥ姉が怪我を治してくれた。それから、家まで運んだ」


「獅鷲と……ガルさんは?」


 呼び方を迷った一瞬の間に、リィが先に答える。


「あの後、ガル兄は正気に戻った。獅鷲は――帰したよ。たぶん二度と来ない」


 あっけらかんと言うが、帰したという言葉に黒竜らしい圧がある。


「ガルさんは……」


「療養中。あとで会えると思うけど、今は寝てる。アデルのほうが怪我ひどかったし」


 そのとき、後ろからグゥの尻尾が伸び、リィの頭をぐい、と引っ張った。

 抱きついたまま喋るな、という顔だ。


「はいはい。ヴァルが話があるって。アデルちゃんを連れていきなさい」


「わかった!」


 リィはぱっと離れ、少し前を歩いて振り返った。

 心配そうな目で見てくる。


「アデル、大丈夫か?」


「ええ……大丈夫よ」


 笑ってみせると、リィもほっとしたように頷いた。


 アデルはリィの後について歩き出す。

 洞窟の奥は暗い。けれど不思議と、足は震えていなかった。


※※※


 洞窟の奥へ進むと、空気が変わっていく。

 湿った土の匂いが薄れ、代わりに乾いた熱が混じる。


 アデルはリィの横を歩く。

 リィが当然のようにアデルの手を握ってくれる。距離が近い。――黒竜に育てられたせいだろうか。


「ヴァルさんって、どんな方なの?」


「ヴァルは……えっと。一番強くて、いちばん偉い」


「黒竜の長、ということね」


「うん、そんな感じ!」


 リィの声に緊張感はない。

 だからこそ、アデルの不安だけが浮き彫りになる。


 相手は黒竜だ。

 一歩間違えれば死ぬ可能性はある――その考えが顔に出たのか、リィの握る手の力が少し強くなった。


「大丈夫だ。僕がついてる」


「……ええ。ありがとう」


 その一言が、背中を押す。


 しばらく歩くと、通路が途切れ、開けた空間に出た。


 そこにいたのは――大きな黒竜。

 黒檀色の瞳が、アデルをゆっくり見つめる。

 ただ座しているだけなのに、周囲の空気が違う。空気そのものが支配されているような圧があった。


 アデルは一歩踏み出し、貴族式の礼で頭を下げる。


「初めまして。アデル・ローゼンベルクと申します。黒竜ヴァル殿――このたびは助けていただき、感謝いたします」


 沈黙が少し続く。

 洞窟の水滴の音だけが、やけに大きい。


 やがて、ヴァルが口を開いた。


「いや。こちらこそ礼を言う。リィとガルが助けられたと聞いている」


「……襲ってきたのは、どうやら人の手によるものです。結果として、あなた方を人間の諍いに巻き込んでしまったかもしれません」


「ふむ……」


 ヴァルの目が細くなる。怒りではなく、考える目だ。


「それで、アデル。この樹海が黒竜の縄張りであることは知っているな。なぜ訪れた?」


 アデルは息を吸う。


「……罪を償うためです」


「罪?」


 アデルは冤罪にかけられた経緯を簡潔に話した。

 言葉を飾っても意味はない。聞いてくれる相手だと分かっていたから、正直に伝える。


「なんだそれ。じゃあ、その……ジークなんちゃらってやつをぶっ飛ばせばいいのか?」


 リィが前のめりに言い、ヴァルが静かに制した。


「リィ。落ち着きなさい」


 そしてアデルへ戻る。


「……それは大変だったな。では、ガルを操った者とも関係があるのだろうか?」


「断言はできません。ですが、あの術者は……私を殺す依頼も受けているようでした」


「なるほど。やっかいだな」


 ヴァルが低く息を吐く。

 リィは眉を吊り上げ、悔しそうに唇を噛んだ。


「……とりあえず。アデルは黒竜の鱗を持ち帰れば、生きて帰れるのだな」


 その言葉に、アデルの表情がわずかに強張る。

 黒竜相手に、鱗を寄越せという形になる。


「失礼ながら……そうなります」


「なら、我が渡そう」


「えっ……よろしいのですか?」


「事情はどうあれ、我が子が助けられたのだ。構わない」


 ヴァルは尾の鱗をひとつ爪で外し、そっと差し出した。

 アデルは慌てて両手で受け取る。重い。石のように硬いのに、どこか熱が残っていた。


「その者は……また襲ってくるだろうか。どこの者か分かるか?」


「分かりません。ですが、こちらに露見した以上、相手も迂闊には動けないと思います。黒竜を敵に回したくないでしょうから」


「……なるほど」


「帰還次第、私が調査します」


「うむ。それがよい」


 ヴァルは頷いた。


「我らが表立って動けば、どうしても大事になる。アデルに任せるのが筋だろう。……任せてもよいか?」


「はい。もちろんです」


 そのとき、リィが突然声を上げた。


「僕もアデルについて行く! 悪い奴をぶっ飛ばすんだ!」


「リィ。落ち着きなさい。それではアデルに迷惑をかける」


 ヴァルが窘める。


「でもヴァル。僕、空を飛べるようになったんだ。空を飛べたら外に出てもいいって、言ってたでしょう」


「……考えると言っただけだ」


「なにそれ。ずるい」


 リィが拗ねる。

 ヴァルは小さく息を吐き、言い方を変えた。


「それより――リィ。お主がアデル――人間と友となった以上、改めて言うことがある」


「……なにさ?」


「お主の生まれのことだ。すでに気づいていると思っているが」


「生まれ?」


 ヴァルの声が、さらに落ち着いた。


「お主は黒竜ではない。人間の子だ。赤子のとき、我が拾った」


 アデルは驚かなかった。

 見た目だけなら、リィは完全に人間の少女だ。


 だが――リィは違った。


「なっ……なんだって~~!?」


 洞窟の天井が震えるほどの声が響き渡った。


※※※


 ヴァルの言葉に、リィは衝撃を受けた。

 足元がふっと抜け、膝が笑いそうになる。


 崩れかけた身体を、横からアデルが支えた。

 細い腕なのに、意外としっかりしている。


「……そこまで驚くとはな。気づいていると思っていたが」


 ヴァルが困ったように言う。

 だがリィは、これまで一度だって疑ったことがない。自分は黒竜で、ここは自分の家で――それが当たり前だった。


「別に、隠していたわけではない。いずれ自然に気づくものと思っていた」


 ヴァルは一拍置き、声音を少しだけ柔らかくする。


「だが、これだけは知っておけ。姿形が違っていようと、我らは家族だ」


「……でも、僕は黒竜じゃないんでしょう?」


 声が震えそうになるのを、必死で抑えた。

 ヴァルはまっすぐにリィを見た。


「黒竜であるかどうかなど、どうでもよい。

 お主は我が子だ。――守るためなら、我は何だってする。それでは不満か?」


 不満なはずがない。

 胸が熱くなって、視界が少し滲む。


 アデルが、そっとリィの頭を撫でた。

 少し気恥ずかしいのに、その手を払う気にはなれなかった。


「……ううん。不満じゃない。

 ヴァルに育ててもらえて、よかったよ」


 言い終えるより先に、リィは駆け出していた。

 ヴァルの顔に飛びつく。大きな顔は、リィの身体よりもずっと大きい。頬に擦り寄ると、ヴァルがくすぐったそうに鼻を鳴らした。


 しばらくして、リィは顔を上げる。


「……それで、アデルについて外に行ってもいい?」


 ヴァルの表情がわずかに曇った。


「人間の常識を知らぬお主が外に出れば、混乱を招く」


「でも、ガル兄が傷つけられたのに、黙っていられない」


「同じ人間だからこそ、厄介だと言っている」


 ヴァルは低く続ける。


「外の者は、弱さに怯え、強さを嫉む。お主は――目立ちすぎる」


 そのとき、黙って聞いていたアデルが一歩前に出た。

 痛む身体を押してなお、背筋は崩れていない。


「ヴァル殿。僭越ながら申し上げます。

 ローゼンベルク家であれば、リィさんを匿い、守ることができます。人間の習わしも、私が責任をもって教えます」


 リィは勢いよく頷き、ヴァルを見上げた。


「ほら、アデルもこう言ってる! それに僕、空も飛べるようになったし!

 お願い、ヴァル!」


 リィはぎゅっと頬にしがみつき、上目遣いで見つめる。


「……むう」


 ヴァルが唸る。長く、深い沈黙。

 洞窟のどこかで水滴が落ちる音がした。


「ヴァル、僕のこと信じて。

 僕はヴァルの娘だ。変なことはしない。……いや、しそうになってもアデルが止めてくれる」


 ヴァルの口元が、ほんの少しだけ緩む。


「……分かった。半年だ。半年で一度、ここへ戻れ」


「ほんと!? ありがとう、ヴァル! 大好き!」


 リィは勢いのまま、ヴァルの頬にちゅっと口づけた。

 ヴァルは「やれやれ」とでも言いたげにリィを軽く引きはがし、今度はアデルへ視線を向ける。


「迷惑をかける。――この子を頼む。

 術者の件も、分かったことがあれば知らせよ」


 アデルは一礼した。動作が優雅で、ぶれない。


「承知しました。リィさんのことは、必ず守ります。

 そして、黒竜の縄張りを荒らす者の正体も、必ず突き止めます」


 ヴァルはゆっくり頷いた。

 その頷きは許可であり――託すという意味でもあった。


 アデルがリィを連れて、ヴェルダ樹海から戻ったのは――それから一週間後だった。

一章・樹海編、ここで完結です。

ここまで読んでくださった方、ありがとうございました!


もうしばらく毎日更新できそうなので、引き続きお付き合いいただけたら嬉しいです。

二章もよろしくお願いします。


▼どうでもいい設定(年齢)

ヴァル:1117歳

ギィ:620歳

ガル:214歳

グゥ:55歳

リィ:15歳

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