九話
一度、空を飛ぶ感覚を掴んでしまえば――あとは早かった。
風を読んで、魔力を乗せて、体を預ける。ひと呼吸ごとに高度が変わる。
何度落ちてもできなかったのが嘘みたいで、リィは思わず笑ってしまいそうになった。
(なんで今まで飛べなかったんだろ)
けれど、感動に浸っている場合じゃない。
ガルと獅鷲。二体を同時に相手にするのは、さすがのリィでもきつい。
先に獅鷲を落としたいのに、ガルが巧みに邪魔をしてくる。
正直、手詰まりに近かった。
リィの防御魔法は硬い。大抵の魔獣の攻撃なら通らない。
だがガルと獅鷲の魔法は強力で、じわじわと、確実に削ってくる。
熱が皮膚の下に溜まり、風刃の傷が見えないところで増えていく。
「痛いよ、ガル兄……目を覚まして」
声をかけても返ってくるのは、濁った赤い目だけだ。
ガルはリィを見つめたまま――まるで敵を見るような目で、こちらを射抜く。
リィはガル相手に、どうしても本気の一撃を撃てなかった。
(とりあえず時間を稼ぐ。そうすればアデルが止めてくれるはず……)
リィは倒すことを諦め、攻めては離れ、離れては牽制する。
獅鷲が距離を取ろうとすれば追い、ガルが突っ込んでくれば引く。
ただ、それを続けるほど、体力も魔力も削れていく。
そのときだった。
ガルが、強力な火球をいくつも放った。
防御魔法が受け止める――だが、表面にひびが走る。細い亀裂が蜘蛛の巣みたいに広がった。
「っ……!」
耐えろ、と魔力を注ぎ足した瞬間、獅鷲が追い打ちをかける。
風が刃になり、防御の亀裂へねじ込まれてくる。
(やば――)
身構えた、その瞬間。
リィの前に、別の防御が上書きされるように立ち上がった。
硬い壁が一枚増え、獅鷲の攻撃が弾けて散る。
「――堕ちろ」
低い声。
次の瞬間、ガルと獅鷲の体がぐっと引っ張られた。
二体は抗えず、ずるりと落ちていく。樹海の上を斜めに滑って――墜落した。
地面が震え、枝葉が大きく揺れた。
リィが息を呑んで振り返る。
そこにいたのは、ギィとグゥだった。
「ギィ兄!」
「私もいるんだけど……」
グゥの声は耳に入らなかった。
リィはギィに駆け寄り、そのままぎゅっと抱きつく。
「やれやれ……どうなってるんだ、これは」
ギィの声に、リィははっとして顔を上げた。
「悪い奴がガル兄たちを操ってるんだ! 早く、アデルのところに行かなきゃ!」
「……アデル?」
「ギィ兄はガル兄たちお願い! 僕、行ってくる!」
「おい、説明――」
ギィの声を背中に聞きながら、リィは走り出した。
下の方でガルと獅鷲が、ギィの重力魔法に押さえつけられている。
うなり声が地面を震わせた。
※※※
アデルを探し始めて少しして、遠くで火柱が上がった。
夜の樹海に、あり得ない色の光が立つ。
(アデルの合図かも!)
リィは火柱の方向へ駆ける。枝を跳び越え、根を踏み、迷いなく進んだ。
「アデル! どこにいるの!」
返事はない。
その沈黙が、胸の奥を冷やした。
火柱の上がった場所に辿り着いた瞬間、リィは足を止めた。
そこには――焼け焦げたアデルが倒れていた。
周囲の木々は黒く焦げ、肉が焼けた嫌な匂いが残っている。
ここで、誰かと戦っていたのだ。
「アデル! アデル! 大丈夫?」
揺さぶっても返事はない。
全身に火傷。服の端は炭になり、皮膚は赤黒く変色している。
けれど――胸は、わずかに上下していた。
息をしている。生きている。
「そんな……アデル……死なないで」
どうすればいい。何をすればいい。
頭が真っ白で、リィはただ名前を呼ぶことしかできなかった。
そのとき、背後から声が落ちた。
「あら。人間だわ。……どうして、こんなところにいるのかしら」
「グゥ姉……どうしよう? アデルは僕の友達なんだ」
「友達?」
グゥは興味深そうにアデルを見下ろし、ふん、と鼻を鳴らした。
「……友達ねぇ。あんたが崖から落ちてる間に、私はこんな魔法を覚えたわよ」
そう言うと、グゥの口から青い炎がこぼれた。
以前ヴァルが見せてくれた、癒しの炎だ。
青い火が揺らめくたび、アデルの火傷がじわじわと薄れていく。
呼吸も、少しずつ落ち着いていった。
「……っ、さすがグゥ姉! ありがとう!」
「ふん。別に、あんたのために覚えたんじゃないわよ」
照れくさそうに言いながら、グゥは炎を丁寧に収める。
青い光が消えたあと、そこに残ったアデルは――さっきよりずっと穏やかな息をしていた。
ただ、意識は戻らない。深い眠りみたいに、目は閉じたままだ。
「グゥ姉……アデルを家まで連れてっていい?」
「まあ、リィの友達ならいいんじゃない? みんな驚くとは思うけど……」
グゥは言葉を濁しつつ、軽く尻尾を揺らした。
リィはアデルを抱え上げる。
軽すぎて、胸が痛くなる。
「……帰ろ」
そう呟いて、リィはゆっくり歩き出した。
樹海の闇の中で、アデルの体温だけが確かな重みだった。
※※※
次にアデルが目を覚ましたのは、洞窟の中だった。
湿った土と岩の匂いが鼻の奥に残っている。
視界の端には黒い岩壁。天井のどこかから水滴が落ちる音がして、暗いのに不思議と怖さはなかった。
身体の下には柔らかい葉が幾重にも敷かれている。
――それより。
胸元に、柔らかい重みがある。
見下ろすと、リィだった。
腕を回し、頬を寄せ、すやすやと無邪気に眠っている。離す気がないと言わんばかりに、しっかり抱きついていた。
起こすのも可哀そうだ。
アデルはそっと腕をほどこうとしたが、力が強い。抱きしめる腕が思った以上に硬い。
仕方なく少し強めに身をよじった――その瞬間。
ふいに、リィの身体が引きはがされた。
目の前に黒い影が落ちる。黒竜だった。
空で見た巨体の黒竜より小さい。だが鱗には艶があり、動きに無駄がない。
その竜はリィを床へ下ろし、今度はアデルをじっと観察する。
「あなた、アデルで合ってる? 私はグゥ。リィの姉よ」
黒竜が――はっきりと人語で名乗った。
アデルは一瞬、言葉を失う。
知識としては知っていた。黒竜は人語を解し、温厚だ、と。
けれど目の前で話されると、思考が止まってしまう。
そして、同時に理解する。
リィが黒竜と家族だという話は、本当だったのだ。
(事情は分からないけれど……この子は、黒竜の家族なのだ)
「あなた、聞いてるの?」
黙り込むアデルに、グゥが少し苛立ったように促す。
「……はい。アデルです。アデル・ローゼンベルクと申します」
アデルは起き上がり、痛む身体を押さえながらも丁寧に頭を下げた。
「そう。準備が整ったら、ヴァルのところへ来て。リィが案内するから」
グゥはそう言うと――尻尾の先で、リィの額を軽くぺしりとはたいた。
「ん……」
リィが眠たそうに起き上がる。
けれどアデルの顔を見つけると、目がぱっと開いた。
「アデル! 起きたんだね。よかった!」
そして、また抱きついてくる。今度は起きている分、勢いまである。
「……ええ。おかげさまで」
されるがままになりながら、アデルは小さく息を吐いた。
この子の体温は、妙に安心する。
「アデルのおかげで、ガル兄の目が覚めたよ」
「よかった……それで、あの後どうなったの?」
「グゥ姉が怪我を治してくれた。それから、家まで運んだ」
「獅鷲と……ガルさんは?」
呼び方を迷った一瞬の間に、リィが先に答える。
「あの後、ガル兄は正気に戻った。獅鷲は――帰したよ。たぶん二度と来ない」
あっけらかんと言うが、帰したという言葉に黒竜らしい圧がある。
「ガルさんは……」
「療養中。あとで会えると思うけど、今は寝てる。アデルのほうが怪我ひどかったし」
そのとき、後ろからグゥの尻尾が伸び、リィの頭をぐい、と引っ張った。
抱きついたまま喋るな、という顔だ。
「はいはい。ヴァルが話があるって。アデルちゃんを連れていきなさい」
「わかった!」
リィはぱっと離れ、少し前を歩いて振り返った。
心配そうな目で見てくる。
「アデル、大丈夫か?」
「ええ……大丈夫よ」
笑ってみせると、リィもほっとしたように頷いた。
アデルはリィの後について歩き出す。
洞窟の奥は暗い。けれど不思議と、足は震えていなかった。
※※※
洞窟の奥へ進むと、空気が変わっていく。
湿った土の匂いが薄れ、代わりに乾いた熱が混じる。
アデルはリィの横を歩く。
リィが当然のようにアデルの手を握ってくれる。距離が近い。――黒竜に育てられたせいだろうか。
「ヴァルさんって、どんな方なの?」
「ヴァルは……えっと。一番強くて、いちばん偉い」
「黒竜の長、ということね」
「うん、そんな感じ!」
リィの声に緊張感はない。
だからこそ、アデルの不安だけが浮き彫りになる。
相手は黒竜だ。
一歩間違えれば死ぬ可能性はある――その考えが顔に出たのか、リィの握る手の力が少し強くなった。
「大丈夫だ。僕がついてる」
「……ええ。ありがとう」
その一言が、背中を押す。
しばらく歩くと、通路が途切れ、開けた空間に出た。
そこにいたのは――大きな黒竜。
黒檀色の瞳が、アデルをゆっくり見つめる。
ただ座しているだけなのに、周囲の空気が違う。空気そのものが支配されているような圧があった。
アデルは一歩踏み出し、貴族式の礼で頭を下げる。
「初めまして。アデル・ローゼンベルクと申します。黒竜ヴァル殿――このたびは助けていただき、感謝いたします」
沈黙が少し続く。
洞窟の水滴の音だけが、やけに大きい。
やがて、ヴァルが口を開いた。
「いや。こちらこそ礼を言う。リィとガルが助けられたと聞いている」
「……襲ってきたのは、どうやら人の手によるものです。結果として、あなた方を人間の諍いに巻き込んでしまったかもしれません」
「ふむ……」
ヴァルの目が細くなる。怒りではなく、考える目だ。
「それで、アデル。この樹海が黒竜の縄張りであることは知っているな。なぜ訪れた?」
アデルは息を吸う。
「……罪を償うためです」
「罪?」
アデルは冤罪にかけられた経緯を簡潔に話した。
言葉を飾っても意味はない。聞いてくれる相手だと分かっていたから、正直に伝える。
「なんだそれ。じゃあ、その……ジークなんちゃらってやつをぶっ飛ばせばいいのか?」
リィが前のめりに言い、ヴァルが静かに制した。
「リィ。落ち着きなさい」
そしてアデルへ戻る。
「……それは大変だったな。では、ガルを操った者とも関係があるのだろうか?」
「断言はできません。ですが、あの術者は……私を殺す依頼も受けているようでした」
「なるほど。やっかいだな」
ヴァルが低く息を吐く。
リィは眉を吊り上げ、悔しそうに唇を噛んだ。
「……とりあえず。アデルは黒竜の鱗を持ち帰れば、生きて帰れるのだな」
その言葉に、アデルの表情がわずかに強張る。
黒竜相手に、鱗を寄越せという形になる。
「失礼ながら……そうなります」
「なら、我が渡そう」
「えっ……よろしいのですか?」
「事情はどうあれ、我が子が助けられたのだ。構わない」
ヴァルは尾の鱗をひとつ爪で外し、そっと差し出した。
アデルは慌てて両手で受け取る。重い。石のように硬いのに、どこか熱が残っていた。
「その者は……また襲ってくるだろうか。どこの者か分かるか?」
「分かりません。ですが、こちらに露見した以上、相手も迂闊には動けないと思います。黒竜を敵に回したくないでしょうから」
「……なるほど」
「帰還次第、私が調査します」
「うむ。それがよい」
ヴァルは頷いた。
「我らが表立って動けば、どうしても大事になる。アデルに任せるのが筋だろう。……任せてもよいか?」
「はい。もちろんです」
そのとき、リィが突然声を上げた。
「僕もアデルについて行く! 悪い奴をぶっ飛ばすんだ!」
「リィ。落ち着きなさい。それではアデルに迷惑をかける」
ヴァルが窘める。
「でもヴァル。僕、空を飛べるようになったんだ。空を飛べたら外に出てもいいって、言ってたでしょう」
「……考えると言っただけだ」
「なにそれ。ずるい」
リィが拗ねる。
ヴァルは小さく息を吐き、言い方を変えた。
「それより――リィ。お主がアデル――人間と友となった以上、改めて言うことがある」
「……なにさ?」
「お主の生まれのことだ。すでに気づいていると思っているが」
「生まれ?」
ヴァルの声が、さらに落ち着いた。
「お主は黒竜ではない。人間の子だ。赤子のとき、我が拾った」
アデルは驚かなかった。
見た目だけなら、リィは完全に人間の少女だ。
だが――リィは違った。
「なっ……なんだって~~!?」
洞窟の天井が震えるほどの声が響き渡った。
※※※
ヴァルの言葉に、リィは衝撃を受けた。
足元がふっと抜け、膝が笑いそうになる。
崩れかけた身体を、横からアデルが支えた。
細い腕なのに、意外としっかりしている。
「……そこまで驚くとはな。気づいていると思っていたが」
ヴァルが困ったように言う。
だがリィは、これまで一度だって疑ったことがない。自分は黒竜で、ここは自分の家で――それが当たり前だった。
「別に、隠していたわけではない。いずれ自然に気づくものと思っていた」
ヴァルは一拍置き、声音を少しだけ柔らかくする。
「だが、これだけは知っておけ。姿形が違っていようと、我らは家族だ」
「……でも、僕は黒竜じゃないんでしょう?」
声が震えそうになるのを、必死で抑えた。
ヴァルはまっすぐにリィを見た。
「黒竜であるかどうかなど、どうでもよい。
お主は我が子だ。――守るためなら、我は何だってする。それでは不満か?」
不満なはずがない。
胸が熱くなって、視界が少し滲む。
アデルが、そっとリィの頭を撫でた。
少し気恥ずかしいのに、その手を払う気にはなれなかった。
「……ううん。不満じゃない。
ヴァルに育ててもらえて、よかったよ」
言い終えるより先に、リィは駆け出していた。
ヴァルの顔に飛びつく。大きな顔は、リィの身体よりもずっと大きい。頬に擦り寄ると、ヴァルがくすぐったそうに鼻を鳴らした。
しばらくして、リィは顔を上げる。
「……それで、アデルについて外に行ってもいい?」
ヴァルの表情がわずかに曇った。
「人間の常識を知らぬお主が外に出れば、混乱を招く」
「でも、ガル兄が傷つけられたのに、黙っていられない」
「同じ人間だからこそ、厄介だと言っている」
ヴァルは低く続ける。
「外の者は、弱さに怯え、強さを嫉む。お主は――目立ちすぎる」
そのとき、黙って聞いていたアデルが一歩前に出た。
痛む身体を押してなお、背筋は崩れていない。
「ヴァル殿。僭越ながら申し上げます。
ローゼンベルク家であれば、リィさんを匿い、守ることができます。人間の習わしも、私が責任をもって教えます」
リィは勢いよく頷き、ヴァルを見上げた。
「ほら、アデルもこう言ってる! それに僕、空も飛べるようになったし!
お願い、ヴァル!」
リィはぎゅっと頬にしがみつき、上目遣いで見つめる。
「……むう」
ヴァルが唸る。長く、深い沈黙。
洞窟のどこかで水滴が落ちる音がした。
「ヴァル、僕のこと信じて。
僕はヴァルの娘だ。変なことはしない。……いや、しそうになってもアデルが止めてくれる」
ヴァルの口元が、ほんの少しだけ緩む。
「……分かった。半年だ。半年で一度、ここへ戻れ」
「ほんと!? ありがとう、ヴァル! 大好き!」
リィは勢いのまま、ヴァルの頬にちゅっと口づけた。
ヴァルは「やれやれ」とでも言いたげにリィを軽く引きはがし、今度はアデルへ視線を向ける。
「迷惑をかける。――この子を頼む。
術者の件も、分かったことがあれば知らせよ」
アデルは一礼した。動作が優雅で、ぶれない。
「承知しました。リィさんのことは、必ず守ります。
そして、黒竜の縄張りを荒らす者の正体も、必ず突き止めます」
ヴァルはゆっくり頷いた。
その頷きは許可であり――託すという意味でもあった。
アデルがリィを連れて、ヴェルダ樹海から戻ったのは――それから一週間後だった。
一章・樹海編、ここで完結です。
ここまで読んでくださった方、ありがとうございました!
もうしばらく毎日更新できそうなので、引き続きお付き合いいただけたら嬉しいです。
二章もよろしくお願いします。
▼どうでもいい設定(年齢)
ヴァル:1117歳
ギィ:620歳
ガル:214歳
グゥ:55歳
リィ:15歳




