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濡れ衣令嬢と竜姫  作者: 白保仁
一章

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8/21

八話

 ギィは、普段は棲み処のさらに奥で過ごすことが多い。

 洞窟の湿り気と、岩肌の冷たさ。そこが彼にとって落ち着く場所だった。


 だが今日は、妙に静かだった。

 静けさの中に、鼻の奥をくすぐるような――落ち着かない匂いが混じっている。


 入口近くの広間へ出ると、案の定、そわそわしたグゥがいた。

 岩棚を行ったり来たりし、尻尾の先だけがせわしなく揺れている。


「なにかあったのか」


 ギィの声に、グゥはぴくりと反応した。

 けれどすぐに視線を逸らし、わざとらしく鼻を鳴らす。


「馬鹿のリィが、まだ帰ってこないのよ。……たぶん、ヴァルのせい」


「ヴァル?」


「空を飛べたら外に連れていく、とか言ったのよ。無茶するに決まってるじゃない」


「ヴァルがそんなことを。珍しいな」


「ヴァルはリィには甘いのよ」


 グゥは吐き捨てるように言った。

 ギィからすれば、ヴァルは誰に対しても優しいだけだと思っている。

 ただ、リィは感情が豊かで、見ていて面白いのは確かだ。甘くなるのもわかる。


 グゥが小さく尻尾を揺らし、ぽつりと付け足した。


「……まあ、私がからかったせいもあるかもだけど」


 不安を隠そうとしているのが、逆に分かりやすい。

 ギィは鼻先を鳴らし、淡々と言った。


「うむ。そんなに気になるなら、一緒に探しに行くか」


「べ、別に心配してるわけじゃないわよ。それに、ガルが探しに行ったし」


「家族を気にするのは、恥ずかしいことではない」


「そういう意味じゃなくて……」


 グゥが歯ぎしりするみたいに言い、尻尾をさらにばたつかせる。


「ガルが出てから、もう結構時間がたってるのよ」


 ギィは一拍置いた。

 ガルの身に何か――とは考えづらい。だが、今日は胸の奥がざわつく。


「……分かった。行こう。ここで待っていても仕方がない」


「だから心配なんてしてないってば。……ギィがどうしてもって言うなら、ついていくだけ」


 どこまでも強情なグゥに、ギィは微かに笑って、洞窟を出た。


※※※


 ――死んでいない。


 遅れて、アデルはそれに気づいた。

 焼けるような熱は伝わってくる。喉の奥が痛む。けれど、炎が身を焼いているわけではなかった。


 目を開く。


 視界の揺れの向こうに、少女が立っていた。

 リィだ。


「いくらガル兄でも、アデルを傷つけるのは許さないぞ!」


 怒鳴る声。

 リィの周囲に魔力が膜のように広がり、黒竜の炎を押し返している。火の渦が弾かれ、空気がきしむ。


 リィは一歩踏み込み、黒竜に向かって拳を振るった。

 殴りかかるというより――ぶつかる勢いだ。


 黒竜の巨体が、信じられないほど軽々と吹き飛ぶ。

 それに驚く間もなく、近くにいた獅鷲(グリフォン)が距離を取ろうと宙へ上がった。


 リィが跳ねる。


 あり得ない高さ。

 獅鷲の尻尾を掴み、そのまま振り回して地面へ叩きつけた。


 轟音。枝葉が跳ね、土が爆ぜる。

 リィは深く息を吐き、振り向いた。


「今のうちに逃げてくれ、アデル。ガル兄も獅鷲も、僕がなんとかする」


「……」


 アデルはふらつきながら立ち上がった。

 一歩。二歩。近づき――折れた右腕の痛みを無視して、リィに抱きついた。


「苦しそうな顔で、そんなこと言わないの」


 リィの体温は温かかった。

 その熱に触れて、アデルの胸の奥の恐怖が、ようやく形を失った。


「一緒に戦いましょう」


「えっ」


 リィがぽかんとする。

 その年相応の表情に、アデルは思わず息を吐いた。逃げるつもりはない。


「あなたの家族……ガルさんも、獅鷲も。たぶん操られているだけよ」


 言葉を繋ぐたび、喉の奥がひりつく。

 それでも言い切る。


「術者を見つけた。倒せば、二人とも正気に戻るはず」


「本当か……?」


 リィの表情がぱっと明るくなる。ころころ変わる顔が、今は救いだった。


 その瞬間、宙から炎が飛んできた。

 リィがアデルを押しのけ、魔力の膜で受け止める。衝撃が伝わり、足元の土が波打った。


「どちらにせよ……ガル兄たちの足止めは必要だ」


 リィは歯を食いしばり、言った。


「アデル、術者を追ってくれ。合図をくれれば――駆けつける」


「分かった。任せて」


 アデルは紅晶を握り直し、痛む身体に鞭を打つ。

 そして樹海の奥へ――術者のいる方向へ走り出した。


※※※


 アデルの言葉は、リィの胸を支えてくれた。

 アデルはリィよりずっと弱そうに見えるのに、いつも迷わず前を向き、リィを導く。


 なにより――「一緒に戦いましょう」という言葉が嬉しかった。

 家族以外に、そう言ってくれる人がいる。それだけで、背骨が真っ直ぐになる。


(アデルが探せるように、時間を稼ぐ)


 リィはまず獅鷲に狙いを定めた。

 飛んで遠距離から風刃を飛ばす相手は厄介だ。


 リィは地を蹴り、獅鷲に肉薄する。

 拳に魔力をまとわせて殴り飛ばす。魔力そのものが圧になり、爆ぜるような衝撃が走った。獅鷲が悲鳴を上げる。


 ――けれど止めない。

 操られているだけなら申し訳ない。だが、今は殴るしかない。


 そこへガルの尾が唸った。

 巨大な一撃がリィを薙ぐ。


 リィはぎりぎりで避け、高く跳んで樹上へ逃れた。枝が軋む。

 すぐに火を練り、吐き出す。


 炎が視界を遮る。

 次の瞬間、炎の向こうから風刃が飛んできた。


「くっ……!」


 避けきれず、身体が宙へ舞う。

 風に煽られ、落ちる――と思った、そのとき。


 炎の中からガルが現れた。


 防御姿勢を取る間もなく、ガルの口が開く。

 次の瞬間、リィは咥えられていた。


 牙が食い込む。魔力の膜が弾く。致命傷にはならない。――けれど痛い。


 ガルはリィを咥えたまま空へ飛ぶ。

 空中戦になれば、リィは一気に不利だ。


「やめて、ガル兄……!」


 身体をねじり、必死に抵抗する。

 獅鷲が追従してくる。背中を撫でる風が、嫌な予感を運んでくる。


 リィは足へ魔力を集中し、思い切り蹴り上げた。

 噛む力が緩んだ瞬間――口をこじ開けて飛び出す。


 ――待っていたように、獅鷲の風刃が来る。


 リィは防御へ力を入れる。

 だが刃の一本が膜をわずかに裂いた。


 痛みが走る。

 身体が、落ちていく。


(……僕も飛べるはずだ。信じろ)


 ガルと獅鷲が、落下するリィに並ぶ。

 ガルの口には火が渦巻いていた。


(飛べ……飛べ……飛べ……!)


 アデルの言葉を思い出す。

 宙に浮く感覚。やればできるはずだ。


 次の瞬間、ガルの炎が迫った。


 火に包まれる――そう思った瞬間。

 リィの身体が、かすかに軽くなった。


 地面が遠ざかる。

 ほんの一瞬、ほんのわずか――落ちる軌道がずれた。


「……飛んでる」


 リィは息を呑む。


「僕、飛んでるぞ……!」


 炎を躱す。

 追撃の風刃も、ぎりぎりでかわす。


 リィは震える拳を握りしめ、落ちる恐怖を踏み潰した。


「ついに飛べた……!」


 ガルと獅鷲が、赤い目でこちらを見下ろしている。

 リィは空を睨み返し、身体を安定させるために深く息を吸った。


※※※


 アデルは必死に樹海を駆けた。


 枝葉が頬を掠め、湿った土が靴底にまとわりつく。

 息を吸うたび胸の奥が痛んだ。折れた右腕を揺らさないよう意識するほど、逆に肩が軋む。左腕は裂け、血が袖の内側を伝って冷える。


 それでも止まれない。

 原因を断ち切るなら、いましかない。


(術者は近い……近いはず)


 感知魔術の残響が、まだ頭の奥に刺さっている。

 情報酔いがじくりと疼く。


(そこ――)


 樹上。五百歩ほど先。視界ではただの枝葉の重なりだ。

 だが感知魔術が、そこに人がいると告げている。


 アデルは木陰へ滑り込み、呼吸を整えた。

 宙に、氷礫がいくつも生まれる。


「――行け」


 氷礫が樹上へ飛ぶ。


 バシッ。


 何かが弾けたように空気が歪んだ。

 次の瞬間――樹上に女が現れた。


 白い狐面。黒い外套。

 隠す気がないほど怪しい姿。目だけが冷え切っている。


 女はアデルを見下ろし、吐き捨てた。


「……さっさと死んでおけばいいものを」


「あんたは何者?」


 アデルの声は掠れていた。喉の奥に血の味がする。

 女は答えない。代わりに、手に持っていたものを口へ当てた。


 角笛――掌に収まるほどの小さな角。


 女が息を吸い、角笛を吹く。

 ――音は聞こえない。


 それでも空気がきしんだ。

 鼓膜ではなく、骨の内側が撫でられるような不快な震えが森に滲む。


 木陰から唸り声がした。


 現れたのは熊に似た魔獣。

 だが足は鎧のような硬皮に覆われ、体躯も通常の倍はある。そして――目が赤く濁っていた。


「……やっぱり。あなたが仕組んでいたのね」


 狐面の女は薄く笑うだけ。

 熊型の魔獣が地を踏み鳴らし、アデルへ突っ込んでくる。


 アデルは左手を掲げ、氷礫を再び生む。

 硬皮の脚は通りにくい。顔を狙う。


 氷礫の一つが目元をかすめ、血が散った。

 魔獣が怯み、突進がわずかに鈍る。


 ――今だ。


 アデルは飛行魔術を組む。魔獣と消耗戦などしていられない。

 狐面の女を野放しにすれば、いくらでも魔獣は増える。


 ふわり、と体が浮いた。

 樹上の女へ距離を詰めながら、氷礫を連射する。


 女は樹上から軽く飛び降り、石礫を弾くように投げる。

 氷礫が砕け、白い粉が舞った。


「狙いは悪くないけど――怪我だらけの小娘ひとり。私だけでもどうとでもなるのよ」


「そうかしら。焦ってるように見えるけど。――その角笛で操ってるんでしょう?」


 アデルは挑発しながら追いすがる。狙いはひとつ。

 角笛を壊す。それだけでいい。


 狐面の女がわずかに首を傾けた。


「……あまりプロを舐めない方がいいわね、お嬢さん」


 女は幹に指先を添えた。


 ――ぞわ、と蔦が蠢いた。


 蔦が意思を持ったように跳ね、アデルの足首へ絡みつく。

 避けるが、そのたび別の蔦が増える。絡みつき、締め上げる。


「……っ!」


 飛行魔術が乱れ、地面へ引きずり落とされる。

 蔦がきしみ、アデルの動きを奪っていく。


「はい、捕まえた」


 女はアデルの正面に立っていた。

 狐面の奥の瞳は、冷たい。


「恨みがあるわけじゃないの。ただ――あなたには死んでもらわなければならないの」


「……それがジークフリート殿下の願い、ってことかしら」


「さあ。依頼人のことは答えられないわ。残念だけど」


 鎌をかけたが、何も読めない。

 女は外套の内ポケットからナイフを取り出す。


「安心して。苦しまないようにしてあげる」


「……ローゼンベルク家を舐めすぎじゃなくて? こんなこと、ただで済むはずがないわ」


「ふふ……それはどうかしら?」


 ナイフを弄ぶようにしながら、女が一歩近づく。


「覚えといたほうがいいわ」


「なにかしら。……死んだ人間のことは、すぐ忘れることにしてるの」


「アデル・ローゼンベルクを舐めちゃいけないってことよ」


 アデルは拘束されたまま、震える左手をポケットへ滑り込ませた。

 指先が硬い感触を掴む。


 魔導石――カナリアが渡してくれた、小さな石。


「……なんで、そんなものを」


 初めて、狐面の女の声に焦りが混ざった。


 アデルが組むのは近距離発火。

 ――自爆に近い術式。自分も焼ける。だが、今はそれでいい。狙いは女ではない。


「私ひとりを殺せば終わり、って思った?」


 魔導石へ魔力を叩き込む。


 爆ぜるような炎が、二人を包んだ。


 女の悲鳴が上がる。

 蔦が焼け切れ、アデルの身体が自由になる。熱が皮膚を舐め、視界が揺れる。


 次の瞬間、アデルは倒れ込むように女へ体当たりした。

 狐面の女の胸元へ腕を伸ばす。


(角笛――!)


 炎の中、指が角笛の冷たい感触を掴む。

 意識が遠のく。だが離さない。


 アデルは角笛を奪い取り、地面へ叩きつけた。


 ――パキ、と鈍い音。


「……やった……」


 喉が焼けた掠れ声が漏れる。


 次の瞬間、アデルは女に蹴り飛ばされ、背中から地面へ転がった。

 女は地面をのたうち回りながら火を消し、何とか立ち上がる。


「……よくも……小娘!」


 腹の底から響く低い声。

 アデルはぼんやり思う。――もう長くない。全身が焼け、体中が痛い。


 そのときだった。


「――アデル!」


 遠くから、名前を呼ぶ声が聞こえた。


 狐面の女が舌打ちする。


「……ちっ」


 次の瞬間、女の気配が薄れて消えた。

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