八話
ギィは、普段は棲み処のさらに奥で過ごすことが多い。
洞窟の湿り気と、岩肌の冷たさ。そこが彼にとって落ち着く場所だった。
だが今日は、妙に静かだった。
静けさの中に、鼻の奥をくすぐるような――落ち着かない匂いが混じっている。
入口近くの広間へ出ると、案の定、そわそわしたグゥがいた。
岩棚を行ったり来たりし、尻尾の先だけがせわしなく揺れている。
「なにかあったのか」
ギィの声に、グゥはぴくりと反応した。
けれどすぐに視線を逸らし、わざとらしく鼻を鳴らす。
「馬鹿のリィが、まだ帰ってこないのよ。……たぶん、ヴァルのせい」
「ヴァル?」
「空を飛べたら外に連れていく、とか言ったのよ。無茶するに決まってるじゃない」
「ヴァルがそんなことを。珍しいな」
「ヴァルはリィには甘いのよ」
グゥは吐き捨てるように言った。
ギィからすれば、ヴァルは誰に対しても優しいだけだと思っている。
ただ、リィは感情が豊かで、見ていて面白いのは確かだ。甘くなるのもわかる。
グゥが小さく尻尾を揺らし、ぽつりと付け足した。
「……まあ、私がからかったせいもあるかもだけど」
不安を隠そうとしているのが、逆に分かりやすい。
ギィは鼻先を鳴らし、淡々と言った。
「うむ。そんなに気になるなら、一緒に探しに行くか」
「べ、別に心配してるわけじゃないわよ。それに、ガルが探しに行ったし」
「家族を気にするのは、恥ずかしいことではない」
「そういう意味じゃなくて……」
グゥが歯ぎしりするみたいに言い、尻尾をさらにばたつかせる。
「ガルが出てから、もう結構時間がたってるのよ」
ギィは一拍置いた。
ガルの身に何か――とは考えづらい。だが、今日は胸の奥がざわつく。
「……分かった。行こう。ここで待っていても仕方がない」
「だから心配なんてしてないってば。……ギィがどうしてもって言うなら、ついていくだけ」
どこまでも強情なグゥに、ギィは微かに笑って、洞窟を出た。
※※※
――死んでいない。
遅れて、アデルはそれに気づいた。
焼けるような熱は伝わってくる。喉の奥が痛む。けれど、炎が身を焼いているわけではなかった。
目を開く。
視界の揺れの向こうに、少女が立っていた。
リィだ。
「いくらガル兄でも、アデルを傷つけるのは許さないぞ!」
怒鳴る声。
リィの周囲に魔力が膜のように広がり、黒竜の炎を押し返している。火の渦が弾かれ、空気がきしむ。
リィは一歩踏み込み、黒竜に向かって拳を振るった。
殴りかかるというより――ぶつかる勢いだ。
黒竜の巨体が、信じられないほど軽々と吹き飛ぶ。
それに驚く間もなく、近くにいた獅鷲が距離を取ろうと宙へ上がった。
リィが跳ねる。
あり得ない高さ。
獅鷲の尻尾を掴み、そのまま振り回して地面へ叩きつけた。
轟音。枝葉が跳ね、土が爆ぜる。
リィは深く息を吐き、振り向いた。
「今のうちに逃げてくれ、アデル。ガル兄も獅鷲も、僕がなんとかする」
「……」
アデルはふらつきながら立ち上がった。
一歩。二歩。近づき――折れた右腕の痛みを無視して、リィに抱きついた。
「苦しそうな顔で、そんなこと言わないの」
リィの体温は温かかった。
その熱に触れて、アデルの胸の奥の恐怖が、ようやく形を失った。
「一緒に戦いましょう」
「えっ」
リィがぽかんとする。
その年相応の表情に、アデルは思わず息を吐いた。逃げるつもりはない。
「あなたの家族……ガルさんも、獅鷲も。たぶん操られているだけよ」
言葉を繋ぐたび、喉の奥がひりつく。
それでも言い切る。
「術者を見つけた。倒せば、二人とも正気に戻るはず」
「本当か……?」
リィの表情がぱっと明るくなる。ころころ変わる顔が、今は救いだった。
その瞬間、宙から炎が飛んできた。
リィがアデルを押しのけ、魔力の膜で受け止める。衝撃が伝わり、足元の土が波打った。
「どちらにせよ……ガル兄たちの足止めは必要だ」
リィは歯を食いしばり、言った。
「アデル、術者を追ってくれ。合図をくれれば――駆けつける」
「分かった。任せて」
アデルは紅晶を握り直し、痛む身体に鞭を打つ。
そして樹海の奥へ――術者のいる方向へ走り出した。
※※※
アデルの言葉は、リィの胸を支えてくれた。
アデルはリィよりずっと弱そうに見えるのに、いつも迷わず前を向き、リィを導く。
なにより――「一緒に戦いましょう」という言葉が嬉しかった。
家族以外に、そう言ってくれる人がいる。それだけで、背骨が真っ直ぐになる。
(アデルが探せるように、時間を稼ぐ)
リィはまず獅鷲に狙いを定めた。
飛んで遠距離から風刃を飛ばす相手は厄介だ。
リィは地を蹴り、獅鷲に肉薄する。
拳に魔力をまとわせて殴り飛ばす。魔力そのものが圧になり、爆ぜるような衝撃が走った。獅鷲が悲鳴を上げる。
――けれど止めない。
操られているだけなら申し訳ない。だが、今は殴るしかない。
そこへガルの尾が唸った。
巨大な一撃がリィを薙ぐ。
リィはぎりぎりで避け、高く跳んで樹上へ逃れた。枝が軋む。
すぐに火を練り、吐き出す。
炎が視界を遮る。
次の瞬間、炎の向こうから風刃が飛んできた。
「くっ……!」
避けきれず、身体が宙へ舞う。
風に煽られ、落ちる――と思った、そのとき。
炎の中からガルが現れた。
防御姿勢を取る間もなく、ガルの口が開く。
次の瞬間、リィは咥えられていた。
牙が食い込む。魔力の膜が弾く。致命傷にはならない。――けれど痛い。
ガルはリィを咥えたまま空へ飛ぶ。
空中戦になれば、リィは一気に不利だ。
「やめて、ガル兄……!」
身体をねじり、必死に抵抗する。
獅鷲が追従してくる。背中を撫でる風が、嫌な予感を運んでくる。
リィは足へ魔力を集中し、思い切り蹴り上げた。
噛む力が緩んだ瞬間――口をこじ開けて飛び出す。
――待っていたように、獅鷲の風刃が来る。
リィは防御へ力を入れる。
だが刃の一本が膜をわずかに裂いた。
痛みが走る。
身体が、落ちていく。
(……僕も飛べるはずだ。信じろ)
ガルと獅鷲が、落下するリィに並ぶ。
ガルの口には火が渦巻いていた。
(飛べ……飛べ……飛べ……!)
アデルの言葉を思い出す。
宙に浮く感覚。やればできるはずだ。
次の瞬間、ガルの炎が迫った。
火に包まれる――そう思った瞬間。
リィの身体が、かすかに軽くなった。
地面が遠ざかる。
ほんの一瞬、ほんのわずか――落ちる軌道がずれた。
「……飛んでる」
リィは息を呑む。
「僕、飛んでるぞ……!」
炎を躱す。
追撃の風刃も、ぎりぎりでかわす。
リィは震える拳を握りしめ、落ちる恐怖を踏み潰した。
「ついに飛べた……!」
ガルと獅鷲が、赤い目でこちらを見下ろしている。
リィは空を睨み返し、身体を安定させるために深く息を吸った。
※※※
アデルは必死に樹海を駆けた。
枝葉が頬を掠め、湿った土が靴底にまとわりつく。
息を吸うたび胸の奥が痛んだ。折れた右腕を揺らさないよう意識するほど、逆に肩が軋む。左腕は裂け、血が袖の内側を伝って冷える。
それでも止まれない。
原因を断ち切るなら、いましかない。
(術者は近い……近いはず)
感知魔術の残響が、まだ頭の奥に刺さっている。
情報酔いがじくりと疼く。
(そこ――)
樹上。五百歩ほど先。視界ではただの枝葉の重なりだ。
だが感知魔術が、そこに人がいると告げている。
アデルは木陰へ滑り込み、呼吸を整えた。
宙に、氷礫がいくつも生まれる。
「――行け」
氷礫が樹上へ飛ぶ。
バシッ。
何かが弾けたように空気が歪んだ。
次の瞬間――樹上に女が現れた。
白い狐面。黒い外套。
隠す気がないほど怪しい姿。目だけが冷え切っている。
女はアデルを見下ろし、吐き捨てた。
「……さっさと死んでおけばいいものを」
「あんたは何者?」
アデルの声は掠れていた。喉の奥に血の味がする。
女は答えない。代わりに、手に持っていたものを口へ当てた。
角笛――掌に収まるほどの小さな角。
女が息を吸い、角笛を吹く。
――音は聞こえない。
それでも空気がきしんだ。
鼓膜ではなく、骨の内側が撫でられるような不快な震えが森に滲む。
木陰から唸り声がした。
現れたのは熊に似た魔獣。
だが足は鎧のような硬皮に覆われ、体躯も通常の倍はある。そして――目が赤く濁っていた。
「……やっぱり。あなたが仕組んでいたのね」
狐面の女は薄く笑うだけ。
熊型の魔獣が地を踏み鳴らし、アデルへ突っ込んでくる。
アデルは左手を掲げ、氷礫を再び生む。
硬皮の脚は通りにくい。顔を狙う。
氷礫の一つが目元をかすめ、血が散った。
魔獣が怯み、突進がわずかに鈍る。
――今だ。
アデルは飛行魔術を組む。魔獣と消耗戦などしていられない。
狐面の女を野放しにすれば、いくらでも魔獣は増える。
ふわり、と体が浮いた。
樹上の女へ距離を詰めながら、氷礫を連射する。
女は樹上から軽く飛び降り、石礫を弾くように投げる。
氷礫が砕け、白い粉が舞った。
「狙いは悪くないけど――怪我だらけの小娘ひとり。私だけでもどうとでもなるのよ」
「そうかしら。焦ってるように見えるけど。――その角笛で操ってるんでしょう?」
アデルは挑発しながら追いすがる。狙いはひとつ。
角笛を壊す。それだけでいい。
狐面の女がわずかに首を傾けた。
「……あまりプロを舐めない方がいいわね、お嬢さん」
女は幹に指先を添えた。
――ぞわ、と蔦が蠢いた。
蔦が意思を持ったように跳ね、アデルの足首へ絡みつく。
避けるが、そのたび別の蔦が増える。絡みつき、締め上げる。
「……っ!」
飛行魔術が乱れ、地面へ引きずり落とされる。
蔦がきしみ、アデルの動きを奪っていく。
「はい、捕まえた」
女はアデルの正面に立っていた。
狐面の奥の瞳は、冷たい。
「恨みがあるわけじゃないの。ただ――あなたには死んでもらわなければならないの」
「……それがジークフリート殿下の願い、ってことかしら」
「さあ。依頼人のことは答えられないわ。残念だけど」
鎌をかけたが、何も読めない。
女は外套の内ポケットからナイフを取り出す。
「安心して。苦しまないようにしてあげる」
「……ローゼンベルク家を舐めすぎじゃなくて? こんなこと、ただで済むはずがないわ」
「ふふ……それはどうかしら?」
ナイフを弄ぶようにしながら、女が一歩近づく。
「覚えといたほうがいいわ」
「なにかしら。……死んだ人間のことは、すぐ忘れることにしてるの」
「アデル・ローゼンベルクを舐めちゃいけないってことよ」
アデルは拘束されたまま、震える左手をポケットへ滑り込ませた。
指先が硬い感触を掴む。
魔導石――カナリアが渡してくれた、小さな石。
「……なんで、そんなものを」
初めて、狐面の女の声に焦りが混ざった。
アデルが組むのは近距離発火。
――自爆に近い術式。自分も焼ける。だが、今はそれでいい。狙いは女ではない。
「私ひとりを殺せば終わり、って思った?」
魔導石へ魔力を叩き込む。
爆ぜるような炎が、二人を包んだ。
女の悲鳴が上がる。
蔦が焼け切れ、アデルの身体が自由になる。熱が皮膚を舐め、視界が揺れる。
次の瞬間、アデルは倒れ込むように女へ体当たりした。
狐面の女の胸元へ腕を伸ばす。
(角笛――!)
炎の中、指が角笛の冷たい感触を掴む。
意識が遠のく。だが離さない。
アデルは角笛を奪い取り、地面へ叩きつけた。
――パキ、と鈍い音。
「……やった……」
喉が焼けた掠れ声が漏れる。
次の瞬間、アデルは女に蹴り飛ばされ、背中から地面へ転がった。
女は地面をのたうち回りながら火を消し、何とか立ち上がる。
「……よくも……小娘!」
腹の底から響く低い声。
アデルはぼんやり思う。――もう長くない。全身が焼け、体中が痛い。
そのときだった。
「――アデル!」
遠くから、名前を呼ぶ声が聞こえた。
狐面の女が舌打ちする。
「……ちっ」
次の瞬間、女の気配が薄れて消えた。




