七話
ガルの匂いを辿って、リィは樹海を駆けた。
湿った風の奥に混じるのは、鉄みたいな血の匂い。
(怪我してる……!)
日が落ちて、樹海はほとんど闇だった。
枝葉が頬を叩く。小枝が髪に絡む。――そんなもの、今はどうでもいい。
アデルに教わって、リィはようやく飛ぶ感覚を掴みかけていた。
言葉は難しくて、説明はややこしくて、それでも面白かった。
できなかったことが、できるようになる。あの瞬間の胸の高鳴りは、癖になる。
……ただし今は、それどころじゃない。
アデルは後ろにいない。
ついて来られなかったのだろう。人間の脚では、この樹海を同じ速度で走るのは無理だ。
匂いが濃くなる。
鼻の奥がつんと痛むほど、血の匂いが強い。
やがて、木々が途切れた。
樹木が薙ぎ倒され、地面がえぐれ、焦げ跡が帯のように走っている。
ついさっきまでここで、何かがぶつかり合っていた。空気が、まだ熱い。
その中心に――ガルが倒れていた。
「ガル兄!」
声が喉から飛び出した瞬間、胸の奥がひやりと冷えた。
黒竜は最強だ。少なくともリィは、そう信じている。
家族が、こんなふうに倒れているのを見たことがない。
ガルは荒い息を吐いていた。
いつもなら退屈そうに爪を研いでいるのに、今は苦しそうで、翼の端が裂けている。血が鱗を濡らし、黒い地面に滴っていた。
――そして、空。
見たことのない化け物が、闇の上を旋回していた。
鷲の頭。獅子の胴。巨大な翼。
赤い目がぎらぎら光っていて、どこか正気がない。
ヴェルダ樹海にはいないはずの魔獣だ。
「……なんだ、お前」
声が勝手に低くなる。
怒りが、足元から湧き上がってきた。
化け物が羽ばたいた。
風が刃になって森を裂く。葉が千切れ、小枝が飛んだ。
リィはガルの前に立つように踏ん張った。
魔力が薄い膜になって身体を包み、衝撃を弾く。頬に当たる風が痛い。
次の瞬間、ガルが身を起こした。
「リィ……無事だったか」
声がかすれていた。いつものガルの声ではない。
「あれは獅鷲だ。少し手強い。下がってろ」
「無事? ガル兄。僕なら大丈夫だ!」
言い終えるより早く、獅鷲が突っ込んできた。
巨体が空から落ちる。影が覆いかぶさる。爪の影が地面まで届きそうだった。
――その瞬間。
ガルが跳ね起き、リィの首根っこをがぶっと咥えた。
「うわっ、な、なに――!?」
文句を言う暇もない。
地面が遠ざかる。視界が揺れる。胃がふわっと浮いた。
リィは咥えられたまま、背へ投げ上げられるように乗せられた。
裂けた翼に触れないよう、鱗にしがみつく。
獅鷲が追ってくる。背後の風が変わった。
風の刃が飛んでくる。
「くっ――!」
ガルが身体を捻る。
刃がかすめ、鱗に薄い傷が走った。
(黒竜の鱗に……傷!?)
並の魔術じゃない。獅鷲は強い。
リィは振り返り、火の魔術を練った。
空中では狙いが定まらない。ガルの動きに振り回される。
それでも、溜めた。――喉の奥に熱が集まる。
準備が整った瞬間、リィは火を吐いた。
獅鷲がぎろりと睨み、翼を一度だけ大きく打つ。
炎は獅鷲を包む――はずが、風が炎を裂いて渦にし、横へ逸らした。
熱だけが残った。
獅鷲は平然と魔力を練り直し、また風刃と火を放ってくる。
ガルがぎりぎりで避ける。
衝撃だけが森へ降り、枝葉を裂き、地面を抉る。折れた木が音を立てて倒れた。
獅鷲は確かに強い。
でも、普段のガルなら負ける相手じゃないはずだ。
最初の傷が効いている。翼の裂け目が痛そうだ。
それに――ガルは、リィを庇っている。
(僕がいるせいで……)
そのときだった。
空気が、ぬるくなった。
ぬるま湯みたいに肌の上をなでる、薄い霧。
液体の膜に包まれて、身体の外側をなぞられている感覚が走る。
(……魔術?)
嫌な感じじゃない。むしろ――探されている。
リィが見下ろすと、そこにアデルがいた。
※※※
魔導石には大きく分けて、赤い「紅晶」と青い「碧晶」がある。
ざっくり言えば、陸で採れるのが紅晶、海で採れるのが碧晶だ。
紅晶は――言ってしまえば、魔獣の死骸の化石に近い。
魔獣が死に、腐り、堆積し、長い時間をかけて地中で圧力を受ける。
肉も骨も原形を失い、魔力だけが濃縮されて結晶化する。
残るのは、魔力の塊。燃えるように赤い結晶。
紅晶は魔術の補助器として使われる。
加工技術が発展したのは三百年前――戦乱の時代だ。
魔術師たちは紅晶を手に取り、射程を伸ばし、威力を上げ、戦場を塗り替えていった。
だが、紅晶の生成には何百年単位の時間がかかる。資源は有限だ。
戦争で掘り尽くされ、今では自然紅晶は希少品になった。
だから人工結晶の研究が盛んになり、その最先端にいるのが――カナリアだ。
カナリアがアデルに渡したのは、自然紅晶。
掌に収まるのに、値をつければ家が二、三軒買える。
感謝してもしきれない代物。
そして今、アデルの掌の中で、紅晶が微かに脈打っていた。
上空では黒竜と獅鷲が激突し、熱波と風圧が樹海を揺らしている。
(……落ち着け。今は、見つけるのが先)
魔術は手元から離れるほど制御が難しい。
広範囲の感知など、本来は巨大な術式と複数の術者が必要だ。
――だが、紅晶があれば話が変わる。
アデルは紅晶を媒介に、感知魔術を組み上げていく。
紅晶の扱いは容易ではない。だがカナリアの研究室で訓練は積んできた。
準備を終え、発動する。
視界が揺れた。
情報が滝のように頭へ流れ込む。ヴェルダ樹海一帯を薄い膜で触れている感覚。
(……酔う。けれど、耐えられる)
感知魔術特有の情報酔い。
その気になれば遠くの葉擦れさえ拾える。だが、そんなものはいらない。
アデルは息を整え、拾う情報を絞った。
異常な魔力の動き。
空中の衝突。
そして――この場所にいるはずのない、人の気配。
(……いた)
樹上。距離にして五百メートルほど。
枝に腰かけ、こちらを見下ろしている存在。人型で小柄。
こんな場所にいる人間が、ただ者のはずがない。
アデルはふらつく足で立ち上がり、踏み出しかけ――
その瞬間、低い咆哮が聞こえた。
※※※
厄介なことになった、と狐面の女は思った。
いや、先ほどまではうまくいきすぎるほどだったのだ。
獅鷲と黒竜。正面からやり合えば黒竜に軍配が上がる。
だから計画は勝たせることではない。誘導することだ。
樹海を荒らし、黒竜を怒らせ、獅鷲を王国内部へ逃がす。
追って黒竜が樹海の外へ出れば、人里に被害が出る。
王国の威信は傷つき、王家も公爵家も削れる。
――それだけでいい。
……だが、獅鷲は想定以上に善戦していた。
黒竜の一体に深手を負わせることに成功している。
とはいえ、ヴェルダ樹海に黒竜は複数体いる。
長引けば仲間が来る。そうなれば獅鷲の撤退も難しくなる。
(だから、早く終わらせる必要がある)
作戦は半ば成功している。黒竜は用心深く、賢い。
それでもここまで傷を負わせれば、仲間思いの黒竜は追ってくる可能性が高い。
想定外だったのは、もう一つの獲物――ローゼンベルク公爵家だ。
樹海に入った時点で死んでいる可能性すらあると思っていた。
だが、しぶとく生き残っている。しかも、もう一人の人間がいる。
(供をつけた? それとも……)
報告では、アデル・ローゼンベルクは単独で入ったはず。
それが二人。さらに黒竜側と共闘しているようにさえ見える。
厄介だ。
そしてなにより厄介なのは――突如として襲った感知魔術。
霧のように広がる魔力。
隠密を炙り出す高等魔術。認識阻害を得意とする女にとって、相性が最悪だ。
(……感知魔術か。優秀とは聞いていたが、これほどとは)
この辺りに本来、人間はいない。
つまりここに潜む自分は、それだけで敵として浮かび上がる。
(仕方ない……黒竜には通りにくいから温存するつもりだったが)
女は角笛を取り出し、口元へ当てた。
今度の標的は獅鷲ではない。――手負いの黒竜だ。
息を吹き込む。
角笛が震え、身体の熱がごっそり奪われる。
指先が冷たくなり、喉の奥が焼けるようにひりつく。
(抵抗するか。……だが、弱っている)
狐面の奥で目を細め、女はさらに息を押し込む。
強く、深く、無音を刺し込む。
(さっさと言うことを聞け、黒竜)
音にならない音が森へ沈み――黒竜と繋がった感触が返ってきた。
※※※
低い咆哮。
いつの間にか、空のぶつかり合いが止んでいた。
決着ではない。違う。
黒竜が、身をよじった。
背に乗っていたリィが――振り落とされた。
「……っ!」
リィが地面へ激突する。
追い討ちのように、黒竜の口から炎が吐き出された。
(どうして……? まさか――)
アデルの背筋が冷たくなる。
炎が広がり、熱波が森を包む。
反射で走り出しかけ――その瞬間、影が落ちた。
獅鷲だ。
赤く濁った目で、こちらを見下ろしている。笑っているようにすら見える。
(まずい)
アデルは咄嗟に防御魔術を展開した。
紅晶で増幅した壁。――だが獅鷲の風刃が、それを紙のように裂いた。
砕ける。吹き飛ぶ。
地面が回転し、背中を打つ衝撃。息が抜けた。
右腕が――おかしな方向に曲がっている。
左腕は裂け、熱い血が流れた。視界が白く滲む。
それでも、紅晶は放さなかった。
放したら終わる。これは最後の切り札だ。
歯を食いしばり、アデルは起き上がる。
そのとき――黒竜が、こちらを向いていた。
瞳が赤く濁っている。
さっきまで知性の宿った黒色だったのに。
(……やっぱり)
黒竜が、ゆっくり近づいてくる。
口の奥で炎が渦を巻く。さっきリィに吐いたのと同じ。
(防御魔術を――)
頭では分かっているのに、身体が動かない。
折れた腕が言うことを聞かず、血が視界を塞ぐ。
意識が遠のく。
(こんなことなら……ジークフリートを一発くらい殴っておけばよかった)
くだらない思考が浮かぶのが、逆に恐ろしかった。
逃げる気力も、叫ぶ声も出ない。
炎が迫る。
(……家族は、どう思うだろう。泣いてくれるだろうか)
最後に浮かんだのは王子でも父でもない。
なぜか、リィの顔だった。
(短かったけど、楽しかった。どうか――無事でいて)
アデルが目を閉じた瞬間、熱波が全身を包んだ。




