表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
濡れ衣令嬢と竜姫  作者: 白保仁
一章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

6/24

六話

 狐面の女は、樹上に腰を落ち着けた。

 枝葉の隙間から見下ろす樹海は、雨上がりの湿り気をまだ抱えている。冷えた空気が喉に貼りつき、息を吐くたび肺の奥が重くなる。


 今回の仕事は、いつもとは違う。

 帝国の宝具のひとつ――『獣哭の角笛(じゅうこくのつのぶえ)』。その使用許可が下りているのだから。


(……本気で、王国を崩しに来たってことね)


 王国側に内通者がいたとしても、獅鷲(グリフォン)を――あれほどの巨体を、気づかれずにここまで誘導するのは骨が折れた。

 女は認識阻害を得意としている。夜と雨を選び、目撃者を遠ざけた。樹海に近づく者などいないとはいえ、抜かりは禁物だ。


 懐から角笛を取り出す。掌に収まるほどの大きさ。

 人の耳には届かない。――けれど、魔獣だけに届く音を、この角笛は吐き出す。


 口を当て、ゆっくり息を吹き込む。

 角笛が低く震え、音にならない音が森へ染み出していった。同時に、体温が削られていく感覚がある。喉の奥がひりつき、指先が冷える。


 この宝具は魔力だけではない。術者の生命力までも、啜り取っていく。


 女は笛を離し、深く息を吸った。

 認識阻害を改めて重ねる。樹上にいるはずの気配が、さらに薄くなる。


(帝国の関与は、悟らせてはいけない)


 任務は大きく二つ。

 一つは、アデル・ローゼンベルクの死を確実に見届けること。

 もう一つは、黒竜に王国を襲わせることだ。


 黒竜は厄介だった。温厚で、人語を解し、知能もある。力だけの獣ではない。

 高い知能を持つ魔獣は、角笛で操るのも難しい。万が一、その視線が帝国へ向けば――大陸統一の夢は遠のくどころでは済まない。


 狐面の奥で、女は目を細めた。

 森のどこかで、羽音がひとつ、重く響いた。


※※※


 日が暮れたころ。

 黒竜たちの住処である洞窟の奥は、穏やかな空気に満ちていた。

 だがガルの胸の内だけが落ち着かない。広間を行ったり来たりし、入口の方へ目をやっては戻る。


 岩棚に身を預けていたグゥが、深くため息をついた。


「……うろうろしないでくれる? その巨体、邪魔なんだけど」


「リィが帰ってこない。もう夕飯時だというのに」


「過保護すぎよ。リィも子どもじゃない」


 グゥは言い捨てるようにして、興味なさそうに欠伸をひとつ。

 ガルは眉間に皺を寄せたまま、低い声で返す。


「……リィは子どもだ。何かあったのかもしれない」


 その深刻さに、グゥは肩をすくめるように尻尾を軽く振った。


「この樹海に、リィをどうにかできる魔獣なんていないわ。安心しなさいよ」


「……ただの魔獣ならな」


 ぽつり、とガルが呟く。

 言葉にすれば、嫌な想像が形になる。だから、それ以上は言わない。


「万が一ということもある。リィは――人の子だ」


 洞窟の火が、ぱちりと鳴った。

 遠くの通路から、水滴の落ちる音と獣骨が転がる音が混じる。静けさの中で、妙にそれらが大きい。


 グゥはわざとらしく、もう一度ため息をついてみせた。


「あら。人の子だろうと竜の子だろうと、今さらでしょ」


 そして、ほんの少しだけ声の調子を落とす。


「私たちの家族なのよ。……そこらの魔獣に遅れは取らない」


 ガルは唸るように鼻息をついた。納得したわけではない。


「……探してくる」


「勝手にしなさい」


 素っ気ない返事。

 けれど、尻尾の先だけが落ち着かないみたいに小さく揺れていた。


 ガルは返事をしない。

 巨体を低く沈め、翼を広げると――洞窟の入口へ向けて、一息に跳ねた。


 夜気が流れ込み、火が揺れる。

 ガルはそのまま外へ飛び出し、樹海の上空へ舞い上がっていった。


※※※


 ガルはヴェルダ樹海の上空を飛び回っていた。

 樹海は広大だ。木々の海がどこまでも続く。リィを見つけるのに時間がかかるかもしれない。


(……入れ違いになったか)


 それなら、それでいい。リィが無事に洞窟へ戻っている。

 だが胸の奥のざらつきが消えない。こんなことなら昼寝などするのではなかった、と今さら悔やむ。


 グゥの言う通り、樹海の中にリィを傷つけられる魔獣などいない。

 それでも今日だけは、嫌な予感がしつこく尾を引く。


 ガルは、リィをヴァルが連れてきた日のことを思い出した。

 十年以上前。まだリィは小さな赤子だった。


『この子を、我々で育てようと思う』


 人の子を抱いたヴァルが、そう言った。

 なぜそんな決断をしたのか――ガルには分からない。

 ただ、ヴァルの黒檀色の目に迷いがなかったことだけは覚えている。


 その日のリィは、ガルの指先ほどの大きさしかなかった。

 軽く、壊れてしまいそうで――それでも生命力に満ちていた。


 竜の長の言葉だ。兄弟それぞれ思うところはあったはずだが、反対する者はいない。

 そして実際、リィはただの人の子ではなかった。


 人でありながら、黒竜に匹敵する魔力。

 人の世界に置かれていたなら、普通には生きられなかっただろう。守られるか、狙われるか。どちらにしても平穏はない。


 だからこそ、ガルも、ギィも、グゥも。

 いつしか皆が、リィを本当の妹のように可愛がるようになった。


(……心配ばかりかけて)


 小さく鼻を鳴らしたとき、上空に影が差した。

 空を飛ぶ魔獣は少なくない。だが、わざわざ近づいてくる存在など――


「……なんだ?」


 雲の切れ目から現れたのは、ガルに匹敵する巨体だった。

 長い首の先は鷲の顔。背には大きすぎる翼。獣の胴体に鋭い鉤爪。

 そして――目が赤い。血走ったように爛々と光り、焦点が合っていない。怒りに突き動かされているような目だった。


 リィのことが頭を占めていた。

 加えて、その異様さに反応が遅れた。


 獅鷲が翼を大きく羽ばたく。

 轟、と空気が裂け――風が刃になって飛んでくる。


「っ――!」


 避けきれない。刃のような風が胴を削り、翼を乱す。視界がぶれ、魔力の流れが一瞬ちぎれた。


(しまった!)


 飛行魔術が乱れ、身体が沈み始める。

 獅鷲は追撃するように口を開き、火の魔術を放った。熱が空気を歪ませ、燃える塊が迫る。


(リィ……無事であってくれ)


 願ったと同時に、炎がガルを包んだ。

 熱と光の中で、ガルの身体は重力に引かれ――樹海へ向けて落下していった。


※※※


「やった! やったぞ、アデル。浮いてる!」


 リィは思わず叫んだ。

 空を飛んでいると言うには、まだ早い。地面と足の間に、指が一本入るかどうかの隙間ができただけだ。


 それでも、浮いた。

 その事実だけで胸が熱くなる。


 リィがバタバタと腕を振ると、足元の影がふわりと揺れた。

 アデルが慌てたように手を前に出す。


「リィ、落ち着いて。集中して」


「うおお……!」


 全身に力を込める。意味があるかは知らない。けれど気合いは大事だ。

 足が少しずつ、ほんの少しずつ上がっていく。ふわ、ふわ。身体が軽い。


 気がつけば、空が暗くなっていた。

 月明かりが木々の隙間から落ち、影が長く伸びる。顔の輪郭さえ溶けかけるほどの暗さだ。


「……暗くなってきたわ。魔獣の気配は……大丈夫?」


 アデルの声で、気が抜けた。

 ふわり、と身体が落ちる。


「うわっ」


 足がこつんと地面に戻る。

 リィは鼻を鳴らして立ち直った。


「魔獣は気にすることないぞ。僕がいれば、みんな逃げる」


 そう言ってから、ふと思う。

 もうこの時間だ。いつもなら洞窟に戻っている。


「……そろそろ帰るか? アデルも、ウチに来るか」


 アデルは一瞬だけためらう顔をした。

 怖いのかもしれない。けれどすぐに、小さく頷く。


「……お願いします」


 その返事に、リィが胸を張った。

 帰る準備をしようとした――そのとき。


 ズン、と。

 胸の奥まで響く衝撃音が、森の底から突き上げてきた。


 木々のざわめきが一斉に止まる。

 虫の音さえ消えた。


 リィは音の方向を向いた。


「……ガル兄の声だ」


 アデルが眉を寄せる。


「……今のが? 声なんて聞こえなかったわ」


 さっきまでの浮かれた熱が、すっと引いていく。

 代わりに、背筋を冷たいものが走った。


「アデル。来て」


 言い終わる前に走り出していた。

 地面を蹴る。枝葉を割る。暗い森の中で、目だけが冴えていく。


※※※


「リィ、待って! どこへ――」


 呼びかけは背中に置き去りにされた。

 リィは樹海の地面を蹴って迷いなく走っていく。草を踏む音が、普通の少女のそれではない。獣の疾走に近い。


 アデルは足を止めた。

 追うべきか。ここで様子を見るべきか。暗闇の樹海を無暗に走り回るのは危険だ。

 それは分かっている。分かっているのに、心だけが先に引っ張られる。


 リィが何者なのか、まだ断言できない。

 けれど黒竜につながる存在である可能性は高い。もし彼女の言う通り家族なのだとしたら、アデルが望む穏便な接触は現実になる。


 黒竜と戦うのではない。交渉する。

 そうなれば、生きて帰れる可能性が上がる。


 今のところ、リィとの関係は悪くない。

 少なくとも、悪意や敵意は感じられなかった。腹芸で人を嵌めるようなタイプにも見えない。


 ――ただし。


 本人にその気がなくても、誰かの策に組み込まれている可能性はある。

 何より、アデル自身が陰謀に押し流されてここにいる。リィとの遭遇そのものが仕掛けであってもおかしくない。


 そもそも、ヴェルダ樹海へ入るには王国の許可がいる。

 リィの存在は本当に王国側に知られていなかったのか。疑いは残る。


 けれど――今は。


 アデルが樹海から戻るためには、リィの協力が必要だ。

 ここで彼女を見失うわけにはいかない。


(……追うしかない)


 アデルは息を吐き、思考を切り替える。

 危機を退ける。黒竜と会う。生きて戻る。


(大丈夫。私ならできる)


 自分に言い聞かせるように、アデルは走り出した。

 湿った腐葉土が靴裏で沈み、枝葉が頬をかすめる。


 暗い樹海の奥へ――アデルは、リィの背を追って踏み込んでいった。


※※※


 リィの背を追い、アデルが距離を詰めるほどに、森の奥から衝突音が響いてきた。

 戦闘の音――それも、人間同士の小競り合いではない。


 アデルは反射的に身を低くし、茂みに紛れて近づいた。

 枝を踏まぬように、呼吸すら浅くして。


 そこにいたのは――黒竜だった。


 リィと違って、人の形などしていない。

 夜を凝縮したような鱗。巨木を引き裂く爪。鋼鉄のような翼と尾。

 記録で読んだ通りの――いや、それ以上の威容。


 だが、その黒竜は倒れ伏していた。


 地面がえぐれ、焦げ跡が残り、苔むした土がめくれ上がっている。

 黒竜の呼吸は荒く、翼の一部が裂けているのが見えた。


 そして――その竜を守るように前へ立っていたのが、リィだった。


 小さな背中が、あり得ないほど大きな影に向かって立ちはだかっている。

 怒りで肩が震え、黒い瞳が獲物を射抜く獣のそれになっていた。


(あれは……)


 視線の先。

 樹海の外れの空気を引きずるように、巨大な魔獣が旋回していた。


 獅鷲。

 鷲の頭と翼、獅子の胴を持つ魔獣――本来、この樹海にはいないはずの存在だ。


 竜ほどではなくても、人間にとっては十分すぎる脅威。

 知性というより本能に近い眼光で、獲物を狙う飢えだけがぎらついている。


(巻き込まれたら……終わる)


 アデルは自分の魔術に自負がある。

 だが、それは人間レベルの話で、黒竜と獅鷲の戦いに巻き込まれればただでは済まない。


 迂闊に出るべきではない。

 そう判断した直後――獅鷲が大きく羽ばたいた。


 風が刃のように走った。

 葉が裂け、細枝が飛び、地面の砂が巻き上がる。アデルは思わず顔を庇い、息を呑む。


 その瞬間だった。


 倒れていた黒竜が、信じられない速度で身を起こした。

 リィの首根っこを――咥える。乱暴に見えて、力加減だけが妙に正確だ。


「えっ――」


 リィが言い切る前に、黒竜は翼を広げて跳躍した。


 土が爆ぜ、巨体が宙へ持ち上がる。

 次の瞬間、風の刃が地面を薙いだが、もうそこにはいない。戦いは一気に空中へ移った。


 黒竜は怪我を負っていた。

 戦いが長引けば不利になる――その可能性もある。


(リィが黒竜と家族だというのは、本当だった……)


 リィと黒竜の間には、絆のようなものがある。

 なら、リィが「会わせる」と言った約束も、嘘ではないだろう。


 空では壮絶なぶつかり合いが続いていた。

 熱波が森をなで、風圧が枝をしならせ、時折、視界の端が白く瞬く。

 距離があるのに、肌が痛い。――近づきすぎれば、アデルも吹き飛ぶ。


 それでも、ただ見ているだけではいられなかった。

 アデルは静かに魔力を巡らせ、いざという時の援護の術式を整える。


(……それにしても)


 胸の底に、嫌な予感が沈む。


(このタイミングで獅鷲が現れたのは、偶然?)


 アデルは誰かにここへ押し込まれた。

 殺害未遂の嫌疑を被せられ、竜の鱗を取れと命じられ、樹海へ向かわされた。


 そして同じ日に、樹海の外から獅鷲が現れた。

 もし獅鷲に怒った黒竜が外に出て、人里に被害が出たらどうなる?

 同日に樹海へ向かったアデルが原因だと思われるのではないか。


 まだ断定はできない。だが、これが人為的なら話は別だ。

 獅鷲を黒竜にけしかけている術者が近くにいるかもしれない。


 アデルは布袋に手を入れ、指先で硬い感触を探った。

 カナリアが別れ際に渡してくれた、赤い魔導石。


(……これがあれば)


 石を握り込み、目を閉じる。

 アデルは深く息を吸い、感知魔術の準備を始めた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ