六話
狐面の女は、樹上に腰を落ち着けた。
枝葉の隙間から見下ろす樹海は、雨上がりの湿り気をまだ抱えている。冷えた空気が喉に貼りつき、息を吐くたび肺の奥が重くなる。
今回の仕事は、いつもとは違う。
帝国の宝具のひとつ――『獣哭の角笛』。その使用許可が下りているのだから。
(……本気で、王国を崩しに来たってことね)
王国側に内通者がいたとしても、獅鷲を――あれほどの巨体を、気づかれずにここまで誘導するのは骨が折れた。
女は認識阻害を得意としている。夜と雨を選び、目撃者を遠ざけた。樹海に近づく者などいないとはいえ、抜かりは禁物だ。
懐から角笛を取り出す。掌に収まるほどの大きさ。
人の耳には届かない。――けれど、魔獣だけに届く音を、この角笛は吐き出す。
口を当て、ゆっくり息を吹き込む。
角笛が低く震え、音にならない音が森へ染み出していった。同時に、体温が削られていく感覚がある。喉の奥がひりつき、指先が冷える。
この宝具は魔力だけではない。術者の生命力までも、啜り取っていく。
女は笛を離し、深く息を吸った。
認識阻害を改めて重ねる。樹上にいるはずの気配が、さらに薄くなる。
(帝国の関与は、悟らせてはいけない)
任務は大きく二つ。
一つは、アデル・ローゼンベルクの死を確実に見届けること。
もう一つは、黒竜に王国を襲わせることだ。
黒竜は厄介だった。温厚で、人語を解し、知能もある。力だけの獣ではない。
高い知能を持つ魔獣は、角笛で操るのも難しい。万が一、その視線が帝国へ向けば――大陸統一の夢は遠のくどころでは済まない。
狐面の奥で、女は目を細めた。
森のどこかで、羽音がひとつ、重く響いた。
※※※
日が暮れたころ。
黒竜たちの住処である洞窟の奥は、穏やかな空気に満ちていた。
だがガルの胸の内だけが落ち着かない。広間を行ったり来たりし、入口の方へ目をやっては戻る。
岩棚に身を預けていたグゥが、深くため息をついた。
「……うろうろしないでくれる? その巨体、邪魔なんだけど」
「リィが帰ってこない。もう夕飯時だというのに」
「過保護すぎよ。リィも子どもじゃない」
グゥは言い捨てるようにして、興味なさそうに欠伸をひとつ。
ガルは眉間に皺を寄せたまま、低い声で返す。
「……リィは子どもだ。何かあったのかもしれない」
その深刻さに、グゥは肩をすくめるように尻尾を軽く振った。
「この樹海に、リィをどうにかできる魔獣なんていないわ。安心しなさいよ」
「……ただの魔獣ならな」
ぽつり、とガルが呟く。
言葉にすれば、嫌な想像が形になる。だから、それ以上は言わない。
「万が一ということもある。リィは――人の子だ」
洞窟の火が、ぱちりと鳴った。
遠くの通路から、水滴の落ちる音と獣骨が転がる音が混じる。静けさの中で、妙にそれらが大きい。
グゥはわざとらしく、もう一度ため息をついてみせた。
「あら。人の子だろうと竜の子だろうと、今さらでしょ」
そして、ほんの少しだけ声の調子を落とす。
「私たちの家族なのよ。……そこらの魔獣に遅れは取らない」
ガルは唸るように鼻息をついた。納得したわけではない。
「……探してくる」
「勝手にしなさい」
素っ気ない返事。
けれど、尻尾の先だけが落ち着かないみたいに小さく揺れていた。
ガルは返事をしない。
巨体を低く沈め、翼を広げると――洞窟の入口へ向けて、一息に跳ねた。
夜気が流れ込み、火が揺れる。
ガルはそのまま外へ飛び出し、樹海の上空へ舞い上がっていった。
※※※
ガルはヴェルダ樹海の上空を飛び回っていた。
樹海は広大だ。木々の海がどこまでも続く。リィを見つけるのに時間がかかるかもしれない。
(……入れ違いになったか)
それなら、それでいい。リィが無事に洞窟へ戻っている。
だが胸の奥のざらつきが消えない。こんなことなら昼寝などするのではなかった、と今さら悔やむ。
グゥの言う通り、樹海の中にリィを傷つけられる魔獣などいない。
それでも今日だけは、嫌な予感がしつこく尾を引く。
ガルは、リィをヴァルが連れてきた日のことを思い出した。
十年以上前。まだリィは小さな赤子だった。
『この子を、我々で育てようと思う』
人の子を抱いたヴァルが、そう言った。
なぜそんな決断をしたのか――ガルには分からない。
ただ、ヴァルの黒檀色の目に迷いがなかったことだけは覚えている。
その日のリィは、ガルの指先ほどの大きさしかなかった。
軽く、壊れてしまいそうで――それでも生命力に満ちていた。
竜の長の言葉だ。兄弟それぞれ思うところはあったはずだが、反対する者はいない。
そして実際、リィはただの人の子ではなかった。
人でありながら、黒竜に匹敵する魔力。
人の世界に置かれていたなら、普通には生きられなかっただろう。守られるか、狙われるか。どちらにしても平穏はない。
だからこそ、ガルも、ギィも、グゥも。
いつしか皆が、リィを本当の妹のように可愛がるようになった。
(……心配ばかりかけて)
小さく鼻を鳴らしたとき、上空に影が差した。
空を飛ぶ魔獣は少なくない。だが、わざわざ近づいてくる存在など――
「……なんだ?」
雲の切れ目から現れたのは、ガルに匹敵する巨体だった。
長い首の先は鷲の顔。背には大きすぎる翼。獣の胴体に鋭い鉤爪。
そして――目が赤い。血走ったように爛々と光り、焦点が合っていない。怒りに突き動かされているような目だった。
リィのことが頭を占めていた。
加えて、その異様さに反応が遅れた。
獅鷲が翼を大きく羽ばたく。
轟、と空気が裂け――風が刃になって飛んでくる。
「っ――!」
避けきれない。刃のような風が胴を削り、翼を乱す。視界がぶれ、魔力の流れが一瞬ちぎれた。
(しまった!)
飛行魔術が乱れ、身体が沈み始める。
獅鷲は追撃するように口を開き、火の魔術を放った。熱が空気を歪ませ、燃える塊が迫る。
(リィ……無事であってくれ)
願ったと同時に、炎がガルを包んだ。
熱と光の中で、ガルの身体は重力に引かれ――樹海へ向けて落下していった。
※※※
「やった! やったぞ、アデル。浮いてる!」
リィは思わず叫んだ。
空を飛んでいると言うには、まだ早い。地面と足の間に、指が一本入るかどうかの隙間ができただけだ。
それでも、浮いた。
その事実だけで胸が熱くなる。
リィがバタバタと腕を振ると、足元の影がふわりと揺れた。
アデルが慌てたように手を前に出す。
「リィ、落ち着いて。集中して」
「うおお……!」
全身に力を込める。意味があるかは知らない。けれど気合いは大事だ。
足が少しずつ、ほんの少しずつ上がっていく。ふわ、ふわ。身体が軽い。
気がつけば、空が暗くなっていた。
月明かりが木々の隙間から落ち、影が長く伸びる。顔の輪郭さえ溶けかけるほどの暗さだ。
「……暗くなってきたわ。魔獣の気配は……大丈夫?」
アデルの声で、気が抜けた。
ふわり、と身体が落ちる。
「うわっ」
足がこつんと地面に戻る。
リィは鼻を鳴らして立ち直った。
「魔獣は気にすることないぞ。僕がいれば、みんな逃げる」
そう言ってから、ふと思う。
もうこの時間だ。いつもなら洞窟に戻っている。
「……そろそろ帰るか? アデルも、ウチに来るか」
アデルは一瞬だけためらう顔をした。
怖いのかもしれない。けれどすぐに、小さく頷く。
「……お願いします」
その返事に、リィが胸を張った。
帰る準備をしようとした――そのとき。
ズン、と。
胸の奥まで響く衝撃音が、森の底から突き上げてきた。
木々のざわめきが一斉に止まる。
虫の音さえ消えた。
リィは音の方向を向いた。
「……ガル兄の声だ」
アデルが眉を寄せる。
「……今のが? 声なんて聞こえなかったわ」
さっきまでの浮かれた熱が、すっと引いていく。
代わりに、背筋を冷たいものが走った。
「アデル。来て」
言い終わる前に走り出していた。
地面を蹴る。枝葉を割る。暗い森の中で、目だけが冴えていく。
※※※
「リィ、待って! どこへ――」
呼びかけは背中に置き去りにされた。
リィは樹海の地面を蹴って迷いなく走っていく。草を踏む音が、普通の少女のそれではない。獣の疾走に近い。
アデルは足を止めた。
追うべきか。ここで様子を見るべきか。暗闇の樹海を無暗に走り回るのは危険だ。
それは分かっている。分かっているのに、心だけが先に引っ張られる。
リィが何者なのか、まだ断言できない。
けれど黒竜につながる存在である可能性は高い。もし彼女の言う通り家族なのだとしたら、アデルが望む穏便な接触は現実になる。
黒竜と戦うのではない。交渉する。
そうなれば、生きて帰れる可能性が上がる。
今のところ、リィとの関係は悪くない。
少なくとも、悪意や敵意は感じられなかった。腹芸で人を嵌めるようなタイプにも見えない。
――ただし。
本人にその気がなくても、誰かの策に組み込まれている可能性はある。
何より、アデル自身が陰謀に押し流されてここにいる。リィとの遭遇そのものが仕掛けであってもおかしくない。
そもそも、ヴェルダ樹海へ入るには王国の許可がいる。
リィの存在は本当に王国側に知られていなかったのか。疑いは残る。
けれど――今は。
アデルが樹海から戻るためには、リィの協力が必要だ。
ここで彼女を見失うわけにはいかない。
(……追うしかない)
アデルは息を吐き、思考を切り替える。
危機を退ける。黒竜と会う。生きて戻る。
(大丈夫。私ならできる)
自分に言い聞かせるように、アデルは走り出した。
湿った腐葉土が靴裏で沈み、枝葉が頬をかすめる。
暗い樹海の奥へ――アデルは、リィの背を追って踏み込んでいった。
※※※
リィの背を追い、アデルが距離を詰めるほどに、森の奥から衝突音が響いてきた。
戦闘の音――それも、人間同士の小競り合いではない。
アデルは反射的に身を低くし、茂みに紛れて近づいた。
枝を踏まぬように、呼吸すら浅くして。
そこにいたのは――黒竜だった。
リィと違って、人の形などしていない。
夜を凝縮したような鱗。巨木を引き裂く爪。鋼鉄のような翼と尾。
記録で読んだ通りの――いや、それ以上の威容。
だが、その黒竜は倒れ伏していた。
地面がえぐれ、焦げ跡が残り、苔むした土がめくれ上がっている。
黒竜の呼吸は荒く、翼の一部が裂けているのが見えた。
そして――その竜を守るように前へ立っていたのが、リィだった。
小さな背中が、あり得ないほど大きな影に向かって立ちはだかっている。
怒りで肩が震え、黒い瞳が獲物を射抜く獣のそれになっていた。
(あれは……)
視線の先。
樹海の外れの空気を引きずるように、巨大な魔獣が旋回していた。
獅鷲。
鷲の頭と翼、獅子の胴を持つ魔獣――本来、この樹海にはいないはずの存在だ。
竜ほどではなくても、人間にとっては十分すぎる脅威。
知性というより本能に近い眼光で、獲物を狙う飢えだけがぎらついている。
(巻き込まれたら……終わる)
アデルは自分の魔術に自負がある。
だが、それは人間レベルの話で、黒竜と獅鷲の戦いに巻き込まれればただでは済まない。
迂闊に出るべきではない。
そう判断した直後――獅鷲が大きく羽ばたいた。
風が刃のように走った。
葉が裂け、細枝が飛び、地面の砂が巻き上がる。アデルは思わず顔を庇い、息を呑む。
その瞬間だった。
倒れていた黒竜が、信じられない速度で身を起こした。
リィの首根っこを――咥える。乱暴に見えて、力加減だけが妙に正確だ。
「えっ――」
リィが言い切る前に、黒竜は翼を広げて跳躍した。
土が爆ぜ、巨体が宙へ持ち上がる。
次の瞬間、風の刃が地面を薙いだが、もうそこにはいない。戦いは一気に空中へ移った。
黒竜は怪我を負っていた。
戦いが長引けば不利になる――その可能性もある。
(リィが黒竜と家族だというのは、本当だった……)
リィと黒竜の間には、絆のようなものがある。
なら、リィが「会わせる」と言った約束も、嘘ではないだろう。
空では壮絶なぶつかり合いが続いていた。
熱波が森をなで、風圧が枝をしならせ、時折、視界の端が白く瞬く。
距離があるのに、肌が痛い。――近づきすぎれば、アデルも吹き飛ぶ。
それでも、ただ見ているだけではいられなかった。
アデルは静かに魔力を巡らせ、いざという時の援護の術式を整える。
(……それにしても)
胸の底に、嫌な予感が沈む。
(このタイミングで獅鷲が現れたのは、偶然?)
アデルは誰かにここへ押し込まれた。
殺害未遂の嫌疑を被せられ、竜の鱗を取れと命じられ、樹海へ向かわされた。
そして同じ日に、樹海の外から獅鷲が現れた。
もし獅鷲に怒った黒竜が外に出て、人里に被害が出たらどうなる?
同日に樹海へ向かったアデルが原因だと思われるのではないか。
まだ断定はできない。だが、これが人為的なら話は別だ。
獅鷲を黒竜にけしかけている術者が近くにいるかもしれない。
アデルは布袋に手を入れ、指先で硬い感触を探った。
カナリアが別れ際に渡してくれた、赤い魔導石。
(……これがあれば)
石を握り込み、目を閉じる。
アデルは深く息を吸い、感知魔術の準備を始めた。




