五話
アデルは、鹿の魔獣が逃げた方向とは逆へ進んだ。
獣が怯えて逃げるほどの気配。黒竜の領域に近いのかもしれない。
しばらく歩いたところで、樹海の奥から音が落ちてきた。
鋭い悲鳴。
木々が折れる破裂音。
そして――ドスン、と地面が一度沈むような衝撃。
身構えるより先に、思考が走る。
今の悲鳴は魔獣のものではない。
女の子の声だった。
(……この樹海に?)
自分以外に人間が入っているとは聞いていない。
もちろん、知らされていない可能性はある。通行許可がそんなに簡単に下りるはずはないが――ここまでの経緯を思えば、裏で何かが動いていてもおかしくない。
(例えば、私への刺客……)
恐ろしい想像が胸をかすめる。
もっとも、刺客など用意しなくても、ここに放り込めば死ぬ確率は十分高い。
(近づかない方が安全。……それでも)
気づけばアデルの足は動いていた。
足音を殺し、木の影を選び、できるだけ気配を薄くして――悲鳴の方向へ向かう。
(もし本当に女の子が危険な目に遭っているなら……見捨てられない)
しばらく進むと、樹海がふっと途切れた。
視界がひらける。崖だ。湿った土が抉れ、折れた枝葉が散らばっている。
そして――いた。
崖下の泥だまりに、女の子がいる。
倒れていない。血もない。
むしろ泥の中をちゃぷちゃぷ踏んで、まるで遊んでいるようだった。
(……無事そう? ……でも、これは……どういう状況?)
年のころは、アデルと同じくらいか、少し幼い程度。
黒髪、黒い瞳。大陸では珍しい色だ。泥が頬や髪に付いているのに、不思議とみすぼらしく見えない。
アデルは息を殺したまま目を凝らした。
(……綺麗)
不可解なのに、目が離せない。
公爵令嬢として、美貌を褒められることも、美しい令嬢に囲まれることもあった。けれどこの子は、それとは違う――野性味のある輝きがある。
そのとき、女の子がゆっくり立ち上がった。
次の瞬間、視線がぶつかった。
ぞくり、と背筋に冷たいものが走る。
目を逸らしたいのに逸らせない。捕まえられたみたいに、身体が固まった。
(気づかれた――)
反射的に身を引く。逃げようとして足に力を入れた、その瞬間。
――目の前まで来ていた。
「っ!」
風を切る勢いで迫ってきた影に、アデルは反応が遅れた。
押し倒され、背中が地面に当たる。息が詰まる。体格はアデルの方が上だ。なのに、びくともしない。
小柄な身体からは想像できない力で押さえつけられている。
女の子は興味深そうに、真っ黒な瞳でアデルを覗き込み――じっと観察していた。
恐怖より先に、困惑が勝つ。
(……何、この子)
ふいに、力が緩んだ。
アデルは隙を逃さず身をひねり、相手を押しのけて転がる。
距離を取って、荒い息を整えながら相手を見る。
女の子は泥を落とすでもなく、けろりと首を傾げた。
「なんだ……お前、竜か? どこから来たんだ?」
幼い声だが、言葉ははっきりしている。
(竜……? 私が?)
女の子は一歩近づき、じれたように言う。
「僕はリィ。――お前の名前は?」
アデルは喉を鳴らし、ようやく声を出した。
「……竜? いえ、それより……」
自分の声が、わずかに震えているのが分かる。
アデルはリィをまっすぐ見返し、問いを投げた。
「どうして女の子が――こんなところにいるの?」
リィは瞬きを一つ。
その顔が「え? 何言ってるの?」と言っているようで、アデルは余計に混乱した。
※※※
リィとアデルの会話は、しばらく堂々巡りになった。
「つまり、アデルは“ニンゲン”っていう竜の種族なんだな? 外から来たのか? ウチに来るか?」
「……違うわ。人間と竜は、そもそも別物よ」
「むむっ。じゃあワイバーンみたいなやつか? 竜の亜種だな。角鹿は好きか?」
「だから、亜種でもないって言ってるでしょう……。まったく別物なの」
「……似てるのに違うんだな。わかった」
リィがアデルと出会ってから、しばらく時間が経っていた。
そして今、リィの頭の中を占めているのは――
(会話って、むずかしい……)
という、わりと切実な結論だった。
思えば家族以外と、こんなふうに言葉を投げ合ったのは初めてだ。
樹海の魔物は言語を解さない。家族は家族で、リィが何を言いたいかを察してくれる。多少変なことを言っても、だいたい通じる。
アデルはちゃんと言葉を返してくる。
返してくれるのに、なぜか噛み合わない。
アデルの顔を見ると、少しだけ疲れた色が滲んでいた。
それに気づいて、リィは胸の奥がちくりとした。
(……たぶん、僕が悪い)
ヴァルは言っていた。会話が通じる相手と無暗に争うな、と。
簡単に言うけど――会話って、こんなに気を遣うものだったのか。
(ヴァル……すごい……)
しみじみ尊敬していると、アデルが遠慮がちに口を開いた。
「あの……さっきから、話が噛み合っていない気がするのだけれど……」
「……うん。アデルの話、難しいぞ」
「……ごめんなさい。私がうまく言えていないのね」
アデルが申し訳なさそうに俯く。
それを見て、リィは頭を抱えた。どうすればいいのだろう、と悩んで――別の問題に気づく。
――お腹が減った。
考えごとをすると腹が減る。たぶんそういうことだ。
リィはぱっと顔を上げ、元気よく宣言した。
「よし。腹が減った。角鹿を取ってくる。ここで待ってろ!」
「え、ちょ――待って、話を……!」
アデルの制止が最後まで届く前に、リィはもう走り出していた。
湿った土を蹴り、木々の間を縫っていく。
取り残されたアデルの声が、背中に追いすがった。
※※※
焚き火の上で、ヴェルダ角鹿の肉がじゅうじゅう音を立てていた。
脂が落ちるたび、火花がぱち、と跳ねる。
さっき口から火を吐いたとき、アデルがほんの少し引いていた気もする。
……気のせいだろう。たぶん。
リィは口元が緩むのをこらえきれず、垂れそうになった涎を慌てて拭った。
「よし、焼けてきたぞ。アデルも食べていいぞ」
「……ありがとう。ええと、それで……話の続きをしたいのだけれど」
リィは自分の分を取ると、待ちきれずにかじりついた。
やっぱり角鹿はやわらかくて美味しい。
その横でアデルは、じっとリィの食べ方を見ている。
不意に視線が刺さって、リィは咀嚼しながら首を傾げた。
「……なに?」
「ううん。何でもない。……整理するわね」
アデルは深呼吸してから、言葉を慎重に選ぶように続けた。
「私は人間よ。ここまでは大丈夫?」
「……ああ、わかってる。アデルはニンゲンだ」
「それで……リィも、人間なんじゃないかと思うの。どうかしら」
「んん? 僕は黒竜だ。アデルとそっくりだけど、違う」
「……気を悪くしないでほしいのだけれど」
アデルは言いにくそうに、視線を少し泳がせた。
「竜らしくは、見えないわ」
その言葉に、リィの眉がきゅっと寄った。
言われたくないところを、正確に踏まれた気がする。
「僕は……生まれつき翼がないんだ。だから飛べない。……でも家族は、気にするなって言ってくれる」
アデルが小さく笑った。
「……いい家族ね。羨ましいわ」
その言い方が、妙に優しかった。
リィは何となく、肉を噛むのを少しだけゆっくりにする。
アデルは見たこともない道具――小さな刃物で肉を丁寧に切り分け、ほんの一口ずつ口に運んでいた。
「じゃあ、リィは……黒竜の皆と仲がいいの? 居場所も分かる?」
「仲がいいっていうか、家族だからな。……まあ、嫌なやつもいるけど」
ぶっきらぼうな返事に、アデルは少しだけ目を輝かせた。
「それなら、お願いがあるの」
焚き火の火を見つめたまま、アデルが言う。
「黒竜に会わせてほしい。私は……黒竜を探してここへ来たの」
「会わせる? いつでも来ていいぞ。ウチ、広いし」
「……軽いわね」
呆れたように言って、でもアデルの肩の力は少し抜けた。
「ありがとう。じゃあ次は……リィはここで何をしてたの?」
「……空を飛ぶ練習だ」
リィは小さく胸を張った。
「空を飛べたら、外へ連れて行ってくれるってヴァルが」
それを聞いて、アデルがすっと表情を引き締める。
頭の中で何かを組み立てている顔だ。
「……飛行魔術なら、私も使えるわ」
「え?」
「教えてあげようか。うまくいくかは分からないけれど」
「アデル、空を飛べるのか? 翼もないのに?」
驚いて立ち上がった瞬間、リィの口から小さな肉片がぽろっと飛んで、アデルの外套にくっついた。
「あ……」
気まずく固まるリィに、アデルは平然と指先でそれを摘まみ、焚き火へ落とした。
「気にしないで。……リィが黒竜に会わせてくれるお礼よ」
「お礼? 会わせるだけでいいのか?」
リィはぱっと顔を明るくする。
「いいぞ! アデルなら、すぐ家族に会わせてやる!」
そう言うと、アデルの表情がふっと柔らかくなった。
焚き火の火が揺れて、その笑みが少しだけ温かく見えた。
※※※
アデルは、目の前の少女をあらためて観察した。
リィと名乗る少女が、ただ者ではないことは、もう疑いようがない。
見た目だけなら――可憐な女の子そのものだ。
いや、これまで見てきたどんな令嬢よりも、素直に「かわいい」と思ってしまう。
それなのに、中身がむしろ危ういほどに外見と釣り合っていない。
まず、膂力がおかしい。
鹿の魔獣ーーヴェルダ角鹿と言うらしいーーを、まるで荷物のように片手で引きずってきた。
そして何より、内側に抱え込んでいる魔力が桁違いだった。
(……冗談で「黒竜」と名乗っているわけじゃない)
会話は噛み合っていない。そこは否定できない。
けれど、頭のおかしい少女で片づけるほど軽い存在でもない。
そんなアデルの警戒など露ほども知らない顔で、リィはぱっと笑った。
「すごい、すごい! やるな、アデル!」
少し宙に浮いただけで無邪気に褒められ、アデルはわずかに居心地が悪くなる。
「……褒めてくれるのは嬉しいけれど。今は動かないでね」
アデルは息を整え、魔力の流れを静かに組み直した。
リィの腰に手を回し、軽く抱える。
「え、ほんとに浮くのか?」
「浮くわ。……じっとしていて。絶対に」
次の瞬間、ふわりと足元が軽くなる。
地面が遠ざかり、湿った空気が頬を撫でた。
リィが目を丸くする。
「おお……! すげえ……!」
アデルは崖の上へ向けて高度を調整した。
風に煽られないよう角度をつけ、浮力を一定に保つ。
やがて崖の端が近づき、アデルは足先から着地した。
ゆっくり、丁寧に。
リィを下ろすと、地面に足がついた途端、ぴょんと跳ねる。
「やっぱりアデル、すごい!」
「ありがとう。……では次は、リィも試してみて。失敗してもいいわ」
「ああ、わかった!」
そう言うなり、リィは崖へ向かって走り出そうとする。
「待って! なんのつもり?」
「なにって? 飛ぶ練習だけど」
「……その場で大丈夫。いきなり飛び出すんじゃなくて、まず少し浮くだけをイメージしましょう。足裏が地面から、指一本ぶん離れる程度で」
「むむむ……そうか。アデルがそう言うなら、やってみる」
リィはその場に立ち、眉間に皺を寄せて魔力を練り始めた。
空気がわずかに震える。――なのに、身体はびくともしない。
しばらくして、リィがこちらを見て、しょんぼりと口元を下げた。
「やっぱり、できないみたいだ……アデル」
その落ち込み方があまりに素直で、アデルは思わず手を伸ばしていた。頭を軽く撫でる。
「大丈夫。最初からできる人は少ないわ。……ひとつ、確かめたいことがあるの」
「確かめたいこと? なんだ?」
アデルは一歩離れ、姿勢を正した。
「ちょっと失礼するわね」
軽く地を踏み、体重を預けるように――リィの腹を蹴り上げる。
……びくともしない。
「なにしてるんだ? アデル……」
「やっぱり。痛くも痒くないという感じね」
「そりゃ、僕は黒竜だからな」
ふふん、とリィが小さな胸を張る。
「黒竜だから、というより……少なくとも肉体は私と同じく人間に近いはず。おそらく、身体強化の魔術を使ってると思うの」
「使ってるつもりはないぞ。魔力がぐわっとあるのは分かるけど」
「おそらく自覚なく使っているのでしょう。無自覚な魔術が常に動いてると、別の魔術が不安定になりやすいの」
「つまり、僕は魔術が下手なのか……」
「下手じゃないわ。むしろ魔力はすごい」
リィが少ししょんぼりする。
アデルは言い方を少し柔らかくした。
「だから補助を使いましょう。初級魔術師が魔術を安定させるために使ってる方法があるの」
「補助?」
「詠唱と、術式陣。時間がかかるから実戦運用には向かないのだけど、魔術を使うのを助けてくれるの。感覚を掴むのに便利だわ」
リィの目がぱっと明るくなる。
「よし! やってみる!」
その勢いの良さに、アデルは小さく笑ってしまった。
――この樹海の奥で笑うとは、思っていなかった。




