四話
セルバは王都内の公爵家別邸に戻ると、まず学園へ使者を走らせた。
学園内に滞在しているアデル付きの使用人を呼び戻すためだ。
コンラートの反応は、セルバのおおよそ予想通りだった。
セルバは先代のときから仕えている。コンラートが子供のころから知っているのだ。
コンラートは優れた軍人ではある。父親としての私情を、優先しないだろう。
指示を終えたセルバのもとへ、侍女長のアグネスが近づいてくる。
いつも澄ました顔をしているが、今日は少し硬い表情だ。
「それで、コンラート様はなんと?」
「捨ておけ、と……。帝国が戦を仕掛けてきました」
「それで……あなたはどうするつもりなの?」
周囲に人はいない。だからアグネスの口調は少しだけ砕けていた。
セルバは彼女の目を見て、短く答える。
「動けるのは私たちだけでしょう。放っておくわけにもいかない」
セルバの言葉に、アグネスはどこかほっとした顔をした。
ふたりにとってアデルは、生まれた時から見てきた子――半分は家族のような存在だった。
公爵夫人――コンラートの妻は、アデルを産んだあと若くして亡くなっている。
子は三人。
長男ディートリヒは父の補佐として軍務卿執務室に詰めている。
次男クラウドは十七歳で、公爵領にて領政の勉強をしている最中だ。
そして末娘が、アデル。唯一の女の子であるアデルを、アグネスはとても可愛がっていた。
コンラートとディートリヒが不在の今、公爵家の実務の舵は、事実上セルバが握っている。
「それで、どうお考えで?」
「アデル様が懇意にしている教師、カナリア様からの手紙です」
セルバは封蝋の切れた封筒を差し出す。
アグネスはそれを受け取り、中身に目を走らせた。
「……アデル様は、側近たちを疑っている様子」
「内通者が……?」
「そうでなければ、アデル様を陥れるのは難しいでしょう」
アグネスの喉が、こくりと鳴った。
「アデル様は……誰にも告げず、ヴェルダ樹海へ向かったと」
「おそらく、アデル様に近しい者が通じています」
セルバは言い切ってから、ほんの一瞬だけ視線を落とした。
「ただ、内通者がどこまで入り込んでいるかはわかりません」
「他にもいる可能性があると?」
「ひとりだけとは限らないでしょう。複数入り込んでいる可能性もあります」
「……どうするのです?」
「閣下も、私が動くことは織り込み済みでしょう。――公爵家が攻撃されているなら、早めに手を打たねばなりません」
セルバは袖口を整え、歩き出した。
廊下の燭火が揺れ、影だけが少し長く伸びた。
※※※
リィはヴェルダ棘尾狼を追いかける。
森の奥へ奥へと、木々の間を縫うように走っていった。
樹海の魔物は黒竜の気配を嗅ぎ取ると、大抵は一目散に逃げ出す。
リィはヴァルの教えを守って、無闇に襲ったりしない。
けれど今は、お腹が減っていた。
黒竜とはいえ、リィの魔力は規格外だった。
兄弟たちも黒竜の名にふさわしい力を持つが、リィはその中でも頭ひとつ抜けている。
ヴェルダ樹海の魔物たちは、その差を本能で測る。
棘尾狼は角鹿と違って、肉質が硬く、臭みも強い。リィの好みではなかった。
だが、腹が減っては空も飛べない。
リィは不満げに鼻を鳴らし、獰猛な笑みを浮かべて追跡を続けた。
遠く崖の上では、いつものようにガルが退屈そうに爪を研いでいる。
今朝もリィが半ば無理やり修行に連れ出したとき、ぶつぶつ文句を言っていた。
木々の密度がふっと薄れ、開けた場所に出た。
そこでリィは足を止める。
――いた。
正面に、棘尾狼が十体近く。
逃げ切れないと悟ったのか、群れを組んで待ち構えている。
さらに背後の木陰の奥から、様子を伺っている目もある。
「むむっ……こんなに食べられないぞ……」
リィは食べるのは好きだが、大食いではない。兄弟の中でも身体が小さく、食べる量だって少ない。
棘尾狼は群れで戦うことで、時には格上の魔獣だって倒すことがある。
けれど――
リィにとっては、一体でも十体でも大差はなかった。
先頭の棘尾狼が威嚇するように吠えた。
それを合図にしたかのように、背後の樹上から一体が跳ぶ。影が落ち、棘のように硬い体毛が風を裂いた。
棘尾狼の尾は、魔力を込めると三メートル近くまで伸びる。
鞭のようにしなり、獲物を絡め取り、締め上げる。そこへ群れが一斉に噛みつく。それが得意技だ。
「……でも、相手が悪いぞ」
リィは背後を見向きもしないまま、尾の一撃をひらりとかわした。
次の瞬間、伸びた尾をずん、と掴む。
棘が刺さるはずの場所に、傷はつかない。
リィの周囲を覆う魔力が、薄い膜のように刃を弾いた。
「うりゃっ」
引き寄せる。
尾の主ごと、ずるりと引きずり出したところで、蹴り上げた。
ぐ、と鈍い音。
棘尾狼は悲鳴を上げる暇もなく宙を舞い、落ち葉を巻き上げながら地面に叩きつけられる。
リィは口元を歪めた。
「……しっかり焼いてやる」
喉の奥で魔力が燃え、息が熱を帯びる。炎が一閃し、棘尾狼の身体を舐めた。
短い断末魔の気配だけが残り、次の瞬間には、ぴくりとも動かなくなる。
周囲の棘尾狼たちが一斉に後ずさった。
うなり声が小さくなり、目が揺れる。さっきまでの勢いが嘘みたいに、足元が落ち着かない。
リィは、倒れた一体を顎で示す。
「一体あれば十分だ。……まだやりたいなら、相手するけど?」
言葉が通じたかどうかはわからない。
けれど意味は伝わったのだろう。棘尾狼の群れは、散るように森へ消えていった。
残った死体を掴み上げると、リィは軽く肩を回す。
「よし。ガル兄のところに帰ろ」
リィは獲物を引きずり、崖の上の兄のもとへ向かった。
遠くで、爪を研ぐ音が止んだ気がした。
※※※
ガルの元へ戻ると、リィは得意げに棘尾狼の死体を引きずり寄せた。
そして「よいしょ」とばかりに、ガルの背中によじ登る。
ガルは、これでもかというほど大きな鼻息をついた。
「……ひとの背中で食べるやつがあるか」
ガルが背をゆすったが、それは本気で振り落とすものではない。
叱っているふりをしているだけだと、リィにはわかる。
リィは満面の笑みで、棘尾狼に齧り付いた。
「大丈夫だ。僕は気にしない……」
「お前が気にしなくても、俺が気にするんだ」
そう言いながらも、ガルは結局あきらめたのか、爪研ぎを再開した。
齧り付いた先から滲んだ血が、ぽたり、ぽたりと黒い鱗を濡らす。ガルの尻尾が、嫌そうに小さく揺れた。
しばらくリィが夢中になっていると、ガルがぽつりと言った。
「リィ……空を飛べないことを、あまり気にするな。それに……外も、思うほど面白いものじゃない」
リィは口の端についた血を舌で拭い、胸を張る。
「気にしてないよ。僕はヴァルの子だ。すぐに空も飛べるようになる」
「それはそうだが……急ぐなと言っている」
ガルは爪研ぎをやめ、首をねじってこちらを見上げた。
黒色の瞳が、いつになく真剣だ。
「リィ。お前は……器に余る魔力の持ち主だ。珍しいことに……」
「魔力量だけなら、ガルより上だよ」
自慢げに鼻を鳴らした瞬間、ガルの尻尾がぺちり、と背中を打った。
痛くはない。
「……まあ、そういうことだ。魔力が大きすぎて、器が追いついていない。だからお前は、魔術が下手なんだ」
「へたっぴじゃない……ちょっと苦手なだけさ」
「大器晩成というだろう。急いでどうにかなるものじゃない」
リィは不貞腐れた顔をして、ガルの背にぎゅっとしがみつく。
「でも、練習には付き合ってくれるじゃないか……」
「時が解決するからといって、努力が無駄なわけじゃない」
ガルは大きく溜息をついた。
「それに……お前に泣きわめかれると、俺の気が滅入るからな」
「僕は泣いたりしない……」
ぶすっとした声で返すと、また後ろの方でガルの尻尾が、ぱた、と鳴った。
叱っているのか、慰めているのか――たぶん、その両方だった。
※※※
リィの飛行練習は連日続いた。
その日の樹海は、いつもより静かな気がした。
夜半に雨が降ったのだろう。湿った土の匂いが濃く、葉の裏に溜まった雫が、ときおりぽたりと落ちる。
リィは大きく伸びをして、胸いっぱいに息を吸い込んだ。肺の奥まで森の匂いが染みる。
ガルは連日付き合ってくれていたが、さすがに毎日とはいかず、今日はひとりだ。
仕方なくリィは樹海をふらふら彷徨っていた。
(今日こそ飛ぶぞ……)
足踏みしながら、ぐっと力を込める。空を飛ぶのは魔術の応用だ。
力を入れたところで意味はない。分かっているのに、つい入ってしまう。
リィは昔から魔術が苦手だった。
魔力が体の中を巡る感覚はある。
けれど、それを狙った形に整えるのが難しい。掴もうとすると、するりと指の間から抜けていくみたいに散る。
火の魔術だって、最近ようやくそれっぽくなってきたくらいだ。
竜っぽくてかっこいいから。
そんな理由で、せめて火の魔術だけでもと練習してきた。リィにとって、かっこいいのは大事だ。
ヴァルもガルも強い。そして、かっこいい。自分もそうなりたい、と素直に思う。
リィは崖へ向かった。
全力で走る。足が地面を叩くたび、湿った土が跳ねた。
(いける……!)
地面を蹴り、崖から飛び出す。
頬を風が撫でる。視界がひらけて、樹海の緑が下に広がる。ほんの一瞬、身体が軽くなった気がした。
身体を巡る魔力を、今度こそはと丁寧に練る。
――なのに。
魔術は、不発で終わった。
身体がじわじわと落ちていく。風が耳元で唸りはじめ、枝葉の海が迫ってくる。
「うわぁぁぁ~!」
情けない声が喉から飛び出した。
速度が増し、木々が目の前に迫ってくる。枝葉を掻き分けるように落ちていき、葉が頬を叩き、蔓が腕に絡む。
けれど、痛みは薄い。
体を覆う魔力が、薄い膜みたいに傷を弾いてくれる。
次の瞬間。
ドスン、と鈍い音がした。
湿った土が泥になって跳ね、冷たい飛沫が頬に散った。肺の中の空気が一瞬抜けて、視界がぐらりと揺れる。
リィは泥の中に手をつき、むっと顔を上げた。
「……だいじょうぶ」
誰も聞いていないのに、言い訳みたいに呟く。
そして泥を払うより先にリィはもう一度、崖を見上げていた。
悔しさのほうが、痛みより先に来た。
※※※
リィはしばらくぼんやりとしていた。
いつもなら、ガルに慰めてもらうところだが、今日は一人だ。
悔しさで、すぐに動く気になれなかった。
あれだけ派手な音を立てたのに、周囲は静かだった。
鳥の声も遠い。枝葉のざわめきすら、どこか慎ましく聞こえる。
リィがもう少し小さいころは、舐めて襲いかかってくる魔物も、少ないながらいた。
魔術は苦手でも、魔力の高さで押し切って返り討ちにしてきた。
今となっては、ヴェルダ樹海の中でリィに敵うものは、家族以外にいないだろう。
――けれど、その日は違った。
土を踏む音。葉擦れの音。浅い呼吸。
できる限り音を消しているつもりなのだろうが、リィの耳にははっきり届いていた。
何かが近づいてくる。
さっきの落下音に気づいて、様子を見に来たのだ。
リィが感じたのは警戒心ではない。好奇心だった。
リィに自分から近づいてくる魔獣は珍しい。
リィは気づかぬふりをして、泥の中で姿勢を整え、座り込んだ。
のんびりと頬についた泥を拭い、わざと欠伸までしてみせる。
(……誰だろ)
足音が止まる。
そこから、ゆっくりとした時間が流れた。
襲ってこない。
ただ、じっと見てくるだけだ。視線には敵意も殺意もない。ただ、観察しているだけに見えた。
ヴェルダ樹海でリィを知らないものなど、まずいない。
それなのに、この距離感。
(外から来たのかな)
そう思うと、好奇心がぐっと膨らむ。
面白そうな相手なら、食べるのは勘弁してやってもいいかもしれない。
いつまでも動かないのは退屈だった。
リィは立ち上がり、ゆっくり腰をひねる。泥が肩からぽたりと落ちた。
そして――ある方向を向いて止まる。
にやりと笑った。
「そこだ」
次の瞬間、リィは走り出した。
相手の気配が跳ねる。動揺したのが、手に取るように分かる。
「見つけた」
逃げようとしたのか、相手の身体がふわりと浮いた。
だがその前に、リィは飛びついて押し倒す。
「きゃっ――!」
短い悲鳴。柔らかい声。
土と葉が舞い、下敷きになった相手がじたばたと暴れる。けれど、リィの腕はびくともしない。
「んん?」
見たことのない生き物だった。
細い手足。鱗も爪も牙もない。
――やっぱり、外から来た?
リィが顔を近づけてじろじろ眺めると、相手は露骨に顔をしかめた。
樹海のどんな生き物とも違う。……違う、はずなのに。
どこかで見た形だ。
(……あ)
リィ自身だ。
ちょっと違う。けれど、大きくは同じ。リィと似た姿をしている。
なのに、相手はひどくひ弱だった。
抵抗しているつもりなのだろうが、力がまるで入っていない。可哀そうになってきて、リィはぱっと手を離した。
相手は転がるように身を起こし、泥を払っている。
警戒しているのか、息が少し荒い。
「なんだ……お前、竜か? どこから来たんだ?」
返事がない。
リィは頬をふくらませ、少しだけぶすっとした顔になる。
「僕はリィ。――お前の名前は?」
相手が顔を上げた。
綺麗な蒼い瞳が、まっすぐこちらを射抜く。思わず、リィは息を止める。
そして相手は、戸惑いを隠さない声で言った。
「竜……? いえ、それより……どうして女の子が、こんなところにいるの?」




