三話
カルディア王国の王宮は、どこか慌ただしかった。
廊下を行き交う靴音は早く、交わされる声は低く短い。いつもの華やぎは影を潜め、空気が薄く張りつめている。
王宮内、軍務卿執務室。
コンラート・ローゼンベルクは積み上がった報告書へ視線を走らせ、必要な箇所へ迷いなく署名を入れていった。
軍務卿――カルディア王国軍の頂に立つ役職。
代々ローゼンベルク公爵家が任を担い、王に忠誠を誓い、王国の刃であり盾であることを求められてきた。
公爵家が背負ってきた役目は、重い。
扉の外で靴音が止まり、控えめなノックが響く。
「入れ」
入ってきたのはディートリヒだった。
コンラートの息子であり、執務室付きの士官でもある。優秀な男だが――今日はいつもの落ち着きが薄い。肩がわずかに上がり、呼吸が浅い。
「父上……いえ、軍務卿閣下。北東国境線から伝令です。帝国が、攻め込んできたようです」
ディートリヒが絞り出すように告げた。
エルンシュタイン帝国。
かねて因縁の相手ではあった。だがニ十年ほど前、皇帝が代替わりしてから状況はさらに悪化している。
新皇帝は「大陸統一」を掲げ、周辺国家へ侵攻を開始した。小国はいくつも呑まれた――それでもカルディア王国は大国だ。これまで幾度も侵攻を食い止めてきた。
だが、止め続けられる保証などない。
「北東……あの辺りはアイゼンハルト伯爵の領地か。アイゼンハルト殿はどうしている?」
「伝令もアイゼンハルト家からです。バルツ砦を拠点に防衛線を敷いているとのこと。現時点では大規模な衝突は起きていません。ですが――至急、援軍をと」
コンラートは即答した。
「わかった。援軍を編成し、前線へ送る。私も出る。ディートリヒ、お前も来い」
ディートリヒが緊張した顔で頷く。
「クロイツ伯爵とシルバーハイム侯爵にも伝令を飛ばせ。北東だけが動くとは限らん。呼応して別方面から揺さぶってくる可能性がある。国境線の警戒を強めろ」
「はっ!」
コンラートは続けざまに副官を呼びつけ、指示を重ねた。
援軍の準備、兵站、軍資金、動員――決めるべきことは山ほどある。執務室の空気が、にわかに戦時へ傾いていく。
そのときだった。
「旦那様、至急お伝えしたい用件が……」
家令が、するりと室内へ入ってきた。
セルバ――ローゼンベルク家の家令。先代の頃から仕え、家中のことを取りまとめる老練な男だ。
「セルバ、こんなときにどうした。今は忙しい」
セルバは苛立ちを受け流すように恭しく言う。
「アデル様についてです。学園から急使が参りました」
「学園? ……今はそんなことを聞いている場合では――」
「アデル様に、殺害未遂の嫌疑が。殿下との婚約解消――とのこと」
空気が一瞬で凍った。
コンラートの筆が止まり、ディートリヒの動きも固まる。
「……なにを言っている」
「殿下の命により、アデル様はヴェルダ樹海の黒竜に会いに向かわれたそうです」
セルバは淡々と続けた。言い終えると、目を伏せて返答を待つ。
「……冗談ではないのだな?」
問いは低く落ちた。
ディートリヒが動揺を隠し切れない顔で父を見る。コンラートの頭の中にも可能性がいくつも流れ込んできた。
娘が愚かだったのか。――いや、そんなことはないと信じたい。
殿下の暴走か……それとも、このタイミング。帝国の侵攻と同日。偶然にしては、あまりに都合がいい。
帝国が裏で糸を引いている可能性――それが、胸の奥をかすめた。
コンラートは息をひとつ吐き、言い切った。
「……捨ておけ。今は国家の一大事だ。後でよかろう」
「なっ……!」
ディートリヒが声を上げる。
「父上、何を言っているのです。殺害未遂の嫌疑? そんな――」
「ディートリヒ」
名を呼んだだけで、室内の空気が締まる。
コンラートは息子をまっすぐ見据えた。
「お前もアデルのことは忘れろ。今は一刻も早く援軍を整えることが先決だ」
「……っ」
普段は冷静なディートリヒが、歯を食いしばったまま父を睨む。
それでもコンラートは揺れない。
「お前は公爵家の跡継ぎで、王国の軍人でもある。何を優先すべきか――分かるな?」
「……分かっています」
絞り出すような声だった。
コンラートは鼻で息を鳴らす。
「ふん。アデルもそんなやわな子ではあるまい」
言い切った瞬間、胸の奥に小さな棘が残る。
だが、その棘が形になる前に、軍務卿としての判断が上書きした。私情で判断を誤ってはいけない。
コンラートは執務室を見回し、声を張った。
「何をぼけっとしている。さっさと動け!」
沈黙していた空気が、再び戦時の騒がしさに塗り替えられる。
次の瞬間には、コンラートの思考は帝国の侵攻へと切り替わっていた。
――アデルの名を、頭の片隅へ押し込めたまま。
※※※
カルディア王国内の、とある屋敷。
夜更けの客間には燭台の火が揺れ、グラスの底で琥珀色の酒が静かに光っていた。
肘掛け椅子に身を沈めた男ーーー帝国からの客人を見つめ、レオノーラは小さく息を吐く。
まるで、この国の騒ぎなど遠い出来事だと言わんばかりに――男は落ち着き払っていた。
「……いいご身分ね」
つい冷えた声が落ちた。
男は侍女姿のレオノーラを眺め、面白そうに口端を上げる。
伯爵令嬢のレオノーラが、普段こんな服を着るはずがない。
「どうした。そんな格好をして」
レオノーラは肩をすくめ、スカートの裾をわずかにつまんだ。
「あなたも私も、ここにいないはずなの。念のためよ」
男は杯の残りを飲み干した。喉仏が上下し、空になった杯を指先で転がす。
「仕方ないだろう。仕掛けは整った。あとは結果を待つだけだ」
そして当然のように尋ねる。
「それで――ローゼンベルクはどうなった?」
「成功したわ。彼女は樹海へ向かった。……ただ」
レオノーラの声が、ほんの少し硬くなる。
「軍務卿は、なんともなさそう。本当に大丈夫なの?」
「崩れてくれれば儲けものだったがな」
男は気にした様子もなく、空の杯を置いた。指先で机を軽く叩く。焦りのないリズムだ。
「だが問題ない。公爵家と王家の間に溝はできる。いったん入った亀裂は、勝手に広がる」
レオノーラが眉を寄せる。
「……第一王子はともかく、王家も馬鹿ばかりじゃないわ」
男は薄く笑った。その笑みだけが、火の揺れに合わせて一瞬、刃のように見える。
「仕掛けているのはローゼンベルクだけではない。
それに――小細工がなくとも、時間をかければ王国などいずれ帝国に呑まれる」
言葉の端に、誇りが滲む。
「我が帝国に任せておけ。内側から少し崩して、その時間を早めてもらってるだけだ」
レオノーラはその笑みを見つめ、ほんの一瞬だけ唇を噛んだ。
この男は、最初から勝つと確信している。
「それで……万が一の話だけど。彼女が樹海から戻ってきたら、どうするの?」
男の指が、机を叩くのをやめた。
沈黙は短い。だが、その短さが逆に不穏だった。
「……黒竜相手に、か?」
男は肩をすくめるように息を吐き、何でもないことのように続ける。
「安心しろ。いまの黒竜は、獅鷲に縄張りを荒らされて気が立っている」
レオノーラの目が細くなる。
「それって……あなたが?」
男は答えない。代わりに笑った。否定しない笑みだ。
「彼女が樹海から帰ってくる可能性は、限りなく低い。
――こちらが、そうなるように手を打っているからな」
燭台の火が、ふっと揺れた。
その揺らぎが、男の影だけを一瞬大きく見せる。
※※※
ヴェルダ樹海は、どの国にも属さない。
だが現実にはカルディア王国の版図に隣接し、王国が「管理していることになっている」場所だった。
実態は放置同然だ。関わらないのが最善――それが長年の暗黙の了解だった。
樹海の周囲は砦と柵で固く閉ざされている。
もっとも、黒竜を閉じ込めるためのものではない。黒竜がその気になれば、砦など容易く破壊できる。
これは、人が軽々しく足を踏み入れないための境目にすぎない。
アデルが馬車を降りた瞬間、空気の匂いが変わった。
まだ砦の向こうに樹海の全貌は見えない。それでも嫌な気配が肌にまとわりついてくる。
「アデル様。お送りできるのはここまでです。通行許可は、すでに」
若い兵が淡々と告げながら荷を下ろす。
荷物は少ない。荷運びも連れて行けないためだ。
アデルは皮肉めいた声で言った。
「仕事が早いのね。殿下も――」
若い兵は慣れているのか表情を崩さない。
「それで、帰りはどうすればいいのかしら?」
「……砦の者にお伝えください。連絡があり次第、迎えにあがります」
若い兵は視線をわずかに逸らした。
哀れみが浮かぶ。どうせ戻らない、という目だ。
アデルはそれを見なかったことにして、背負袋の紐を締め直す。
――死ぬつもりはない。
必ず生きて帰り、この状況へ追い込んだ者に目に物を見せてやる。
アデルは荷を受け取り、砦の門へ向かった。
鉄の扉の向こうで、森が待っている。
砦門が閉じる音を背に聞きながら、アデルはひとり歩み出た。
鉄と鎖が擦れ合う重たい余韻が、いつまでも背中に張りつく。
――帰り道を塞がれた。
そう思った瞬間、胸の奥に冷たいものがひたりと広がる。
(……ヴェルダ樹海)
地図に名はあっても、踏み入れる者はいない場所。
禁じられた森。黒竜の縄張り。
アデルは深く息を吸い、外套の留め具を指先で確かめる。
荷は最小限。水と乾パン。カナリアにもらった魔晶石と、黒竜に関する記録書。
不安を噛み殺すように唇の裏を噛む。
何が起きても構わない――そう言い聞かせ、歩みを一定に整えた。
木々はすぐに濃くなった。
空は枝葉に切り刻まれ、薄い光が幾重にも重なって地面に落ちる。足元は柔らかく、湿った腐葉土が靴を吸い込むようだった。
学園の実習で森を歩いた経験はある。魔物討伐も数度こなしてきた。
今までの森と大きく変わらないようにも見える。
ただ、黒竜が棲むと考えるだけで、ただの森さえ恐ろしく見えた。
(……緊張のせい? それとも……)
考えかけた、そのとき。
葉擦れの音がした。
アデルは反射的に木陰へ身を滑らせ、息を殺す。できるなら黒竜と出会うまで余計な戦闘は避けたい。
姿を現したのは、大きな鹿のような魔物だった。
通常の鹿より二回りは大きい体躯。灰色の毛並みは湿り気を含み、ところどころ苔のような緑が混じって見える。
頭からは捻じれた角が伸び、その先端は岩を削ったみたいに鈍く光っていた。刺されれば、ただでは済まない。
鹿の魔物は鼻をすんすん鳴らしながら、アデルのすぐそばを通り過ぎる。
アデルは呼吸を止め、心臓の鼓動まで静めるつもりで目を伏せた。
(気づかないで……)
だが次の瞬間、鹿がぴたりと足を止めた。
耳がぴくりと動き、首がゆっくり回る。アデルの指先がわずかに強張った。
――しかし鹿は、アデルではない別の方向を見た。
警戒するように鼻を鳴らし、地面を一度蹴ると――突然、森の奥へ走り去っていった。枝葉が大きく揺れ、重たい足音が遠ざかっていく。
気配が完全に消えてから、アデルはようやく木陰を出て、ゆっくり息を吐いた。
吐いた息が白くならないのに、喉の奥だけが冷たい。
(……私に気づかなかった? それとも、もっと怖いものが……)
鹿が恐れたもの。黒竜だろうか。
それならば、黒竜の領域はもう近い。
(慎重に進もう……)
敵意を持ってはいけない。記録によれば、温厚で人語を解するという。
話を聞いてくれるかもしれない。
ヴェルダ樹海の奥へ――アデルはひとり、踏み込んでいった。




